ローレライの火種 17
引き抜かれていくたびに青が垂れる。青の液体が刀身を濡らし、床にぽたりぽたりと落ちていく。何もない場でありながら、剣先は何かをつらぬいている。その感触と証明としての液体が実態を見せつけた。
老獪の護衛の剣が引き抜かれ、切っ先が床をむく。栓の役割をしていた剣がぬかれれば、そこにあるのは外へと流れるものだ。先ほどよりも酷い量の青が噴出した。老獪の護衛の体を汚し、彼の足元にも付着した。
されどすぐに噴出は止まる。彼と老獪の護衛に立つ何者か。その何者かの体にも青が付着し、本来あるべき無の空間に青の液体が空を舞っていた。透明であっても、青で染色されてしまえば形が見える。だが噴出とともに青の染色も、少し時間が立てば薄れていった。
床面に垂れた青も、剣先にこびりついた青も。
ジワリと蒸発するような音とともに、薄れ消えていった。
彼はそれを確認後、軽く片手で前髪を掻き上げた。目元を隠すほどではない前髪だったが、ただ視界に少しでもかかっていたことが煩わしかった。敵は一人。老獪の護衛。それは彼の敵。
恫喝の言葉が喉元を通りかけた。口が形を作り、舌がその声を生む仕事をしかけた。だが飲み込んだ。彼は瞳孔を点のように薄くし、白目が左右に広がっている。まるで蛇のように、ただ敵を見つめた。
老獪の護衛は彼の表情を見て尚、剣を収めるわけもない。
老獪の護衛は左手を胸元まで掲げ、装備された小手の上に剣を乗せた。左足を一歩前へ、右足を一歩後ろへ送り出し。今にでも切り捨てる姿勢だった。構えをもって、彼への応対へと回る。
それでも彼は抑えた。相手の構えからなる応対もそう。相手が悪いし、相手の暴力が悪い。でも彼の発言も悪い。この世界の文化の成りたちを見れば、いまだ表だって階級などがある。
そういう社会で文明なのだ。その文明に反した彼の発言が悪い。
だから抑えた。
他人に自己責任だといわれる前に、彼は自己責任として抑えた。彼が悪い。彼が間違っている。だが相手も間違っている。それを表に出すことはない。なぜなら発言したとき、少しの悪さが、全体の評価となってしまう。
平和的、文化的、知性的、人間は自分の下地の元で生きている。この世界には人間が歩んで作った歴史は薄い。人の手が加わり、知識は書物となる。書物はいつだって読まれ、コピーされ、各地にばらまかれる。ばらまかれた書物が色々な憶測を呼び、説を生む。裏切りがあった過去の歴史は、裏切った奴が悪い説もあれば、裏切られた奴が悪い説もある。そうやって情報を手に取れる時代が来るまで、文化や歴史は積み重なっていく。それ以降は急激に情報は蓄えられていく。
その情報の中で民衆が自分たちにとって都合の良い情報を使って、下地を作る。彼の場合は、それが国が求めた下地。その下地の元に彼は拡大していった。現代において下地は環境が作るもの。その中でも自由な風潮をもった下地が、人々の更なる未知を探求へ駆り出していくのだ。
彼の場合は、自分が動かず、有能なものに頼る。社会の模範的な人生を送り、そこそこの不満を持って社会を恨む。自己責任という建前を外にも内にもため込まず、ただ己のあるがままに自由に。
底辺ほど、他人の責任を追及する。底辺ほど、他人の失敗を追及する。誰だって、失敗はする。追及する底辺だってそう。必ず小さな悪事を働き、大人になって良識のまえで自分を固めていく。その小さな悪事がたまたま外に流れた場合、それらを袋叩きにする。
人を叩いた底辺ほど醜いものはない。
人の悪いところばかりを追求する底辺ほど、汚らしいものはない。
世の中が悪い、社会が悪い。自分は悪くない。自分の義務や責任を放棄したうえで、そのように発言するのは確かにみっともない。給料が安いのは実力かもしれないが、社会のせいにしただけで叩かれる。正しいのだろう。叩くのも叩かれるのも、どちらも正しいと思っている。だが発言して鬱憤をはらすだけ、まだまし。彼は思う。
大げさなのだ。誰も他人に対し、大げさに叩いてしまう。
それでもわかっている。他人を叩く自分の現状を噛みしめれば、それは紛れもなく別の自分。他人を叩くとき、自分の意志を確認するものなどはいない。たまたま自分が勝ったジャンルで、他の人が負けて泣き言をする。其の泣き言が気に食わないかもしれない。でも泣いている人が勝ったジャンルで、負けているかもしれない。そのときの自分を思えば、人は思い知る。必ず。
彼は信じた、人の理性を。
彼は信じる、人の他者を思いやる力を。
自分は信じられずとも、他人の力だけは本物だ。他人をほめる、認められる自分だけは誇っていい。
だから彼は一息をついた。
そして、老獪の護衛に対し口を開く。いつも通りになるように彼は気を付けた。
「・・・どうも感謝いたします。・・・それと先ほど侮辱のような発言、申し訳ありません」
軽く彼は頭を下げた。彼は実際、自分の本心では悪くないと思っている。だが、それでも頭を下げて謝罪した。言葉の端に不自然さはない。己の心をしまうことなど、得意技。しかしながら、彼の急激な反応の変化は間違いなく動揺を生んだ。
左手の小手に乗せた老獪の剣は、間違いなく震えた。
老獪の護衛の表情は間違いなく、彼を凝視した。予想外といったように、目を大きく開き、前歯が見えるほどに口元を開けた。
強者は傲慢になる。
発言は汚くなり、得意なジャンルにおいては誰よりも生き汚い。見ていて不愉快なほどに、見苦しい。
彼にはそれがなかった。
先ほどの怒りに塗れた敵視の視線は彼にはない。自分の感情の高鳴りを急激に抑え、それを飲み込んだ。ただの人間が出来るものではない。理性も理屈も関係が無い。人は怒りを覚えれば爆発する。感情の爆発の前に人は暴走するのだ。
普段は言わない暴言、普段はしない暴力。
でも彼はしなかった。
無表情に、人形のように、死んだ魚のような目をもって、老獪の護衛を見つめてきていた。気配は先ほどより遥かに薄い。幽霊を錯覚するほどに、呼吸すら耳をすませば聞こえるほどの静寂。
切っ先は震えた。しかし老獪の護衛は震えながらも彼を睨み付けている。それは最悪を予感させる感情の前でのものだ。
「・・・僕は謝りました。・・・ベラドンナ様」
しかし彼の目は確実に老獪の護衛を捉えている。ベラドンナに一切も目を向けず、言葉だけは向けた。ただあるがままに、人形でありながら、人間のように見ていた。いや、観察のようなものだ。
老獪の護衛も彼も、お互いを観察し。
そして、彼は、相手をこの程度と判断した。
そして、老獪の護衛も彼をこの程度と判断した。
敵にすら勿体ないという彼の判断と、本物の敵という老獪の護衛の判断。
「ええ、むろん受け取るわゴルダ」
ベラドンナの芯の立つ声が両者の耳に入る。静寂を貫き、透き通った声は良く届いた。
彼は懐に手を入れた。もはや状況が読めているかのようであり、次なる手をもって応じようとしていた。
「切りなさい、一度敵に回した以上、こいつは厄介」
ベラドンナの判断は合理的。アーティクティカの名において裏切りは許されない。それは外にも内にもばれてはいけない真実の物。護衛がやらかした案件であっても関係が無い。忠義は裏切れない。その情報は流出させられない。
謝罪はする。賠償も報酬も与える。
だが彼の、知性の怪物の名前を前に、弱点は見せられなかった。いきなりの攻撃をしたアーティクティカも悪い。彼の発言も悪い。二人が悪く、どちらも自己責任で第三者は片づける。
怒りのままであれば、アーティクティカは大きな謝罪と賠償をもって許し、許されの関係であっただろう。
彼がその怒りを抑え、自分を保ってしまった。感情より理性をもって、余裕を見せつけてしまった。それはこの世界において余りいないのだ。面子をつぶされれば、報復する。恨まれれば、必ず仕返しがある。当たり前の前提がこの世界にはある。
それを彼が隠しきった。
知性の怪物と名高い化け物が。
ベラドンナですら、裏切りは許さない。その感情を理性で蓋をして尚、高ぶるのだ。家名において、家訓において、その絶対は揺るがせられない。揺るがさない強い意志。
「・・・やっぱり大人です」
剣撃が彼へと迫る。首をはねようとした横なぎの一撃。しかしながらそれは防がれた。彼の首一枚を防ぐように何者かがはじく。
「そう、お前はやっぱり変わっているわ。先ほどまでの強い目はどうしたの?怒りは?感情のままに牙をむき出しに仕掛けたお前の姿はどこにいったの?」
彼は動かず、ベラドンナも動かない。尋ねる声と表情には真摯さがあり、それは観察よりも真剣さが残る知識への欲。
彼へ猛威を振るう剣の乱舞は、何者かが防ぎきる。音が舞い、青が舞う。先ほどよりも余裕があるのか、焦りが無いのか。彼はいたって普通に大人の姿を見せた。青の液体があふれたときには確かに焦りもした。しかし、あの程度で死ぬほど見えない者は弱くない。
剣が突き刺さったままであれば、危険だった。それは青い液体が垂れ続けるからじゃない。見えない者の特徴として刺さった状態が一番力を発揮できないのだ。固定された状況は何よりも恐れること、自由である今において、恐れることなど何もない。
彼はベラドンナの真摯さに答える気だった。己の胸に親指を向けた。
「・・・ここにあります・・・いくら暴力を振るわれようと、理不尽と思えるほどの暴挙であっても、表に出すのは・・・いささか恰好が悪いもので。・・・僕も悪いと反省しています・・・アーティクティカ侯爵のベラドンナ様に対し、発言がよろしくなかった」
彼の眼前を破壊せんと迫る突きの一撃。それはやはり彼に届かず、弾かれ切っ先が別方向へ向かわされる。受け止めるだけじゃだめか、彼は指を鳴らす。その音が始まりか、先ほどの攻勢は勢いを潜めた。逆に老獪の護衛が一歩後ろへ下がる。剣の動きが己の体を守るために、首、胸へと防ぐ構えとなっていた。
ベラドンナは未知を見たのか。言葉を亡くした。先ほどの攻撃も、今で行われている攻防も前に彼は変わらなかった。不意打ちで見せた怒りはあっても、敵視のものはあっても、今は無。
「人間って、感情で動くものもいれば、合理的なものもいる。それは知っているわ。でも、人間と思えないものはいなかったわ。同じ人間であることを恥じる悪人もいたけれど、でも人間の延長戦のものでしかなかった。逆の意味でお前と同じ人間かどうか疑いたいわ」
「・・・貴族と平民という社会上のものであれば、違うかと」
「そういう意味じゃないのよ。そうね、同じ一つの種族として見た場合、お前と私は本当に同じ人間かと思ったのよ」
ベラドンナの問い、それは知識欲に支配された大人の支点。その発想、考えこそ子供ではない。気付くことも知ろうとすることも、与えられたもので満足しない探求心。
「・・・人間じゃないでしょうか。・・・でも、お気づきかと思いますが。・・・同じ人間だからといって変わるものはないんです・・・誰がすごくて、誰が駄目とか。・・・自分で人を区切る時点で、自分は他人とは違う人間といっているんです・・・同じ種族であっても、認めない・・・貴女はきっと僕を同じ人間と認めない・・・・・・貴女が大人である以上、わかると思います・・・」
強者は弱者を同じカテゴリにいれない。弱者も強者を同じカテゴリにいれない。互いが線を引き、勝手に離れていく。お互い離れるのだから、距離は広がるのだ。格差も同じこと。金持ちだからという身勝手な線引きで、自分は貧乏だから見逃せという基準は通らない。金持ちもまた、弱者を守るために己の資産が奪われる税金なんて基準は許さない。金を稼げない貧乏人は見捨ててしまえと勝手に思われる。
互いに歩み寄れれば、きっとまだましだった。
歩み寄りをやめた時点で、争いしかうまない。
「確かに、私はお前を同じ人間だとは思えないのよ。私の知る人間は欲深で、考えなしで、裏切るだけのもの。私の考える理想とはかけ離れた人間が世の基準だと知っているわ。でも、お前は違う。少し私の理想に触れている。欲をもたず、感情すら抑え込み、理性のみで動く理想。だからおかしいの。お前は私の理想の人間なのよ。私の中で描いた理想の貴族、理想の平民。その姿をお前は少しだけ宿している。でも、わかっているわ。私の夢物語。所詮は戯言、でも目の前にいる理想の人間に聞きたいのよ」
「・・・何をお聞きに?」
そしてベラドンナが告げた。
「お前は私を同じ人間に見える?」
その質問に嘘は許されない。たとえ今、剣が迫っていたとしても許されない。命の危機でありながら、言葉を交わす環境こそおかしい。だができている以上、それが常識だ。
「・・・貴女とおなじ考えです。・・・貴女は僕を同じ人間と思えますか?その答えが僕の中の答えです」
彼は相手が大人である以上、大人としての立場を表明した。聞かれている以上、答えていく。嘘は許されないのであれば、言葉を濁して答える。
「同じ人間には見えない。私の理想は、私じゃなりえない。少しも掠らないのよ、今の自分はね。わかったわ、きっとお前は別種族の人間ね。それも沢山の知識を持っているようね。平民のくせに、少ない視点じゃなく多方面に視点が伸びている」
「・・・貴女は責任が多い立場、僕は自由の立場。求める理想はお互い違います・・・」
「そこが多方面に視点があるというの。人を否定せず、人の価値を認められる。それは果たして無知な人間のすることかしら」
ベラドンナは知っている。彼の異名は知性の怪物。知略に応じて人の弱みを握り、心を砕いた男の蔑称。それこそ悲劇も悲惨も悲哀も纏めて引き起こした男の本性。人の弱みを握るのは、いつだって多くの視点を持つ人間だけだ。
人の弱みが、どれほどにあるのかを知るのは、人の個性を知る者のみの特権。
「・・・少々、情報に沢山触れられたので。・・・」
彼の環境は自室にいて、世界を知れる環境にあった。パソコンなどによる端末を駆使すれば、情報など簡単に引きずり出せる。その中で彼は人の種類と個性のもの。平等主義、歴史の中の現実。社会制度。暇な無職の身で、自分にとって都合の良いものだけを選んで探した。何もない無職だったからこそ、自分より社会の力を頼りたかった。自分の実力は信じていない。社会のせいではなく、己のせい。それを自覚しながら八つ当たりもせず、ひたすら使える情報だけを探した。
探し、詳しく知りたければ図書館にもいった。人のいない時間を選び、ひたすら探した。
金が関わらず知識にふれられるもの。
自分の耳に届きやすい、都合のよいものはたくさん集めた。都合のよいものから、得た知識は歪んだものだと気付いた。気付かせたのは書物。偏った知識は、ねじまがった意識を引き起こす。それらが都合の良い書物に掛かれていた。だから自分を変えるために、全体的な知識を得ようと努力した。
だから彼は他人に対し、寛容を求めるよう訓練した。弱者ほど余裕がないから、他人に厳しくなる。でも他人に優しい弱者もいてもいい。そうすれば、きっと恵まれた中の強者が軽く手助けしてくれる可能性もある。自分の力で、誰かの力を借りる。
他力本願でもよい。自己責任でもよい。それより、ましな未来を掴みたい。一人で攻撃的になって、本当の孤独になる。それより一人でも否定することなく、寛容できれば、今の孤独は将来において良い経験と勝手に感傷的になれる。
「情報を得られたとしても、平民では大したことないんじゃないかしら」
「・・・人は行動あるのみです・・・僕は無為な時間を過ごしすぎた過去があります・・・かつては自分のせいでありながら世の中を恨んだ者です・・・でも、探そうと思えばあるんです・・・。本があれば最適、本が無ければ人の声を聴きます・・・きっと自分では思わない意見があります。・・・平民でも大したことがなくても・・・平民の声の中には大切なものもある。・・・不安の声なんて・・・放置したら・・・酷い目にあうのは権力者の共通の悩みかとおもいます・・・得られる環境は一定のレベルは必要です・・・でも一定のレベルがあれば・・・あとは自発的に動けばよいこと・・・できないんじゃない、やるしかないんです・・」
「お前、何者?」
平民の考えではない。貴族の考えではない。これは別次元の考えだ。知識を知識として持つべきものの考えでもあるし、弱者の考えでもある。努力や勇気といった類ではない。物語に描かれたもののような話でもない。哲学を宿し、現実を見せ、そのくせその中に理想を持ち込んだ慣れの果て。
これを平民と呼ぶものではない。
これは貴族というものでもない。
環境にあぐらをかかず、自分の手で一歩。別次元の思考を前にベラドンナは怪訝な目をやめれなかった。
「・・・ただの・・・人間です・・・貴女と同じ・・・ただの人間です」
彼が言う、人間。彼が言う同じ人間。ベラドンナと彼は同じ人間という種族であっても、同じ価値観を合わす人間ではない。きっと話し合っても通じ合わない。
同時にお互い、同じ人間だと思っていない。
それに対する返答がこれ。
知性の怪物。
暴力と謀略と知性において生み出された名前。同時に多様的な価値観を理解できる価値観。
「ゴルダ、本当にやめなさい。これは厄介よ。今までの中で切れない以上、諦めなさい。アーティクティカの家において、もっとも厄介な敵を生み出したくないの。今なら歯止めが聞くわ」
「お嬢様!こやつの飼っているもの、人間じゃありませぬ!こやつの気配は読めずとも、飼っているものの気配は、わしでも読めます!人間の気じゃない。今ならば殺せます!」
ベラドンナが冷静に、恐るべき彼への敵意を持たせないための策。ゴルダが勝てばそれでよかった。老獪の護衛の暴走から始まり、本当に殺したほうがよかった相手。でも殺せないし、それより敵に回すことの恐ろしさの方が上回る。
多様な価値観を知って、それを認められる彼。
偏った知識で世界を回す貴族という支配者。理想の貴族として名高いアーティクティカでも見破れない。その彼という人間は理解ができない、広い価値観を持っていた。
それは紛れもなく。
怪物。
その彼は懐に手を入れたまま、ベラドンナを人形のように視線を合わせていた