ローレライの火種 13
ローレライの火種 20までには終わらせたいです。
終わるとは思いませんが、終わらせたいとは思っています。
アーティクティカの娘、ベラドンナの机には無数の落書きがされている。見るに絶えない悪口や、品性のない暴言、いちゃもんに近いねつ造の事実の文字。もはや知性も見込めない、品格も蹴落とすためのものだった。それは未だに更新されている。
机に筆を走らせ、いまだに文字を書き続けるものが二人。同じ学年の生徒であるが、同じクラスではない。よそのクラスによるものだ。一人は目がくぼんでいるのか、目元が黒くにじんだ男子生徒。もう一人は歪な笑みを浮かべて入るものの、どこかぎこちない。されど自分は環境に適した人間であると自己主張しているのか、ひたすら笑みを演出するかの如くぎらついていた。
その二人の関係は同レベルのもの。お互いが命令される関係でもないし、虐められる関係でもない。なぜなら貴族であるからだ。貴族である証拠に、背中には家紋が描かれたマントを羽織っている。階級はお互い、子爵。
領地も隣同士、関係も良好な二人はひたすらアーティクティカに向けて暴言を書き記す作業を行っていた。
「アーティクティカがいる限り、俺たちに未来はない」
目元が暗い男子生徒が、悪意交じりの吐露をこぼす。そして、同調するように、ぎらつく男子生徒がうなずいた。
「ああ、悪いな。同級生。侯爵であっても、俺たちにとって邪魔なんだ」
二人には目的があり、それぞれの野望がある。貴族に生まれた以上、どこかで華をさらに輝かせたい。平民よりも上の立場であっても、上を目指せない環境でいることに耐えられない。上が埋まり、下は空いている。上の階級はローレライでは埋まり切っていた。それ以上増やすことも減らすこともできない限界地点。下の平民や商人になることはできても、上を目指せないのは論外。
カルミアが台頭したのも、それを補助する貴族がいるのも、上を目指すためであるとはいえる。
しかしながらカルミアの理屈と二人の理屈は異なるし、協調されることもない。勝手な思い込みでアーティクティカが邪魔ものであり、カルミアが上になるべきだと妄信するものたちだ。二人とカルミアの接点は、ただ一つ。
カルミアの伯爵家の傘下であることだ。カルミアの実家はアーティクティカの傘下であるが、二人の実家はカルミアの実家の傘下。アーティクティカといえど、下の貴族の傘下を好き勝手にできるほどローレライは自由じゃない。傘下の貴族は、長が管理するものと決められているからだ。
「これで、少しは傷つけばいい」
見た目同様、目元が暗い人間は陰湿だった。呪いでもかけるかのような吐露を前に、ぎらつく男子生徒も同意見なのか頷くのみだ。見た目通り、ぎらつく人間も陰険だ。人間の協調と争いは同じ立場によって起きるものだ。この二人は陰湿と陰険がまじりあったための、交友関係だった。
だが、この場所はすでに管理されている。
パチリ。
指を鳴らす音と共に暗闇が包む。どこからともなく現れた闇の霧は窓を覆い、外の光を遮断。次に退路である出入り口を闇で封鎖。周囲が机と二人のみで構成された空間まで暗闇が入り込んでいたのだ。
その闇の浸食速度は二人の対応速度を超えていた。悪戯をする人間は常に警戒をしながら作業する。だから二人も最新の注意を払いながら、物音や気配を一生懸命注意して落書きしていたのだ。だからその闇の姿を認識した際には、逃避行動をしようとはしていた。それを遮断するように先回りで闇が浸食しただけだ。
机は一部を除いて見える。
教卓は見えない。
壁は見えない。
窓も見えない。
アーティクティカの机だけは闇に覆われていた。その浸食速度の前に二人は手を引っ込めるのが追い付かなかった。二人の筆を持つ手を闇が覆い隠す。その痛みもないが、まるで狙ったかのような闇の出現の前、二人は同タイミングにて、慌てて後ずさりした。筆を机の上に転がすように落とし、環境の変化に怯え気味だった。
先ほど覆われた手を支えるように別の手で握りしめる。
痛みはない。害もない。ただ現れた闇。されどただの闇でないことは誰もがしっていることだ。二人とて貴族。その闇が自然現象じゃないことは容易に特定できる。状況を把握するためか、陰湿そうな生徒が周りを見渡し、ぎらついた生徒が片手に炎を灯す。手のひらからあふれる炎の光。その熱による光は闇を照らすこともない。
ただ警戒のための防衛反応。
「アーティクティカの子飼いの仕業だな、他国の平民の分際でふざけやがって」
ぎらつく男子生徒が吠える。それは虚勢にも見えるかもしれない。態度は荒々しくしていても、周囲をきょろきょろ見渡す姿は、吠えた子犬そのもの。逆に陰湿そうな生徒は、冷静に状況を把握しようと努めている。されど焦りがあるのか、何度も同じ個所を見比べている。
「早く出てきなさい」
陰湿そうな生徒が促せば、
「今出てきたら、半殺しで許してやるよ」
ぎらついた生徒がそれを補足する。
貴族の都合の悪いことを見た平民の処遇など決まっていること。必ず処罰され、証言が外に漏れないように加工される。真実は常に曲げられ、常に都合のよい貴族のための真実が添付される。そこに平民も貴族も平和になれる真実などはない。
ぱちり。
指を鳴らす音がなる。
その音は暗闇に覆われた向こう。
その先にあるのは。
ただ音がなったときには、激しい熱をもった火炎が放り込まれていた。勢いは魔法をそれなりに嗜むであろう者の力。人を一人殺すならば余裕であるが、多数は不可能な火炎。其の火炎を放ったのはぎらついた生徒だ。投げ終わったフォームだけを残し、表情には勝ち誇ったものが張り付いていた。
音と共に。灼熱が混ぜる音が響いた。
対象が焼ける音と共に、焼ける臭い。肉を焦がすほど焼いたときに生じる鼻につく臭いだ。
そして暗闇が晴れる。
教室全体ではなく。
壁と窓と出入り口を封鎖している闇を残し、ただ晴れた。
一部を除いて見えていた机たちも全部見れるようになっているし、それこそ先ほど覆われた教卓ですら闇が晴れている。
先ほどの火炎が放たれた場所は教卓。音が鳴った場所も教卓。
燃えている音と匂いは常に継続中。
だが二人の様子は晴れない。
教卓は無事、それどころかクッキーが置かれた皿があった。先ほどの火炎が放たれた形跡はあるし、音はなっている。だがその場所は断じて狙った場所とは違うものだ。
火炎は教卓の手前、その空中で混ぜるように何者かと接触し燃え続けている。
何も燃やさず、だが火炎は空中で固定されるように燃えている。
教卓の前に誰もいない。
暗闇は四方の壁を覆うのみ。隠れる場所などない。指がなったときに炎を放った以上、逃げられるものでもない。
だから二人は必死に前方を探した。教卓の付近をその机の数々を、視線で必死に探し回った。動く気はなかった。ただ視線が巡るようにあちらこちらに点在し。
気配が薄くなった箇所。
それは意識から外れた個所。アーティクティカの机を前に後ろにした二人。その背後に迫るもの一人。
気配もなく、音もない。
迫る者は仲良く並ぶ二人の肩口をそれぞれ叩いた。
その意識外からの感触。まるで誰かに背中に立たれ、肩口を叩かれたもの。
後ろにいる感触はあっても、気配はない。されど確かに誰かがいると確信を持たせるほどの不快さがあった。
「・・・皆さん・・・忘れ物ですか?」
感情の籠らず、されど必要事項を聞いてくる。まるで人形。まるで幽霊。意識された、命令されたことを忠実にこなすような感情の薄さが言葉の中からはみ出てきていた。
振り返ることはしても、歯向かえるほどの距離じゃない。二人は振り返った先の視界にて、無表情の人形が間に顔を出しているのがわかった。魔法は使えるし、戦闘行為も行える。されど空中で燃えつづける炎と不可解なほどに奇妙な人形を前に息すら飲み込めずにいた。
「・・・それとも・・・悪戯ですか?・・・駄目です、それはきっと。・・・ただ貴方たちの悪戯の証拠なんて何もないので・・・何とも言えません」
それは独特の間。されど不快な音の羅列。
再び肩口を二人して叩かれる。
「悪戯とは聞き捨てならない」
陰湿そうな生徒は取り繕ったようであるが、ぎらついた生徒はまだ取り繕えていない。人形と陰湿そうな生徒を見比べ、必死に自分の動揺を押さえつけているようだった。だが人形は追及しなかった。
「・・・むろん・・・貴族様の皆様が・・・悪戯で幼稚なことをするわけもありません・・・たとえ落書きであっても・・・そんなふざけたことをするなんて思いません・・・・だって何もないのですから」
人形が笑う。人間はそうやって嗤うのでしょうといった感じに、ぎこちのない笑みだ。人の笑みを模倣したような笑みに二人は不気味さを感じずにはいられない。
「・・・皆さんがしたことなんて・・・何にも残らない。・・・この場にはね」
人形を背後を直後に暗闇が覆う。その直後、炎で混ぜる音は消えた。肉が燃えるかのような臭いは消えた。背後すぐ近くを覆う暗闇は、二人の視界を多く奪った。
二人の視界による世界は一つしか照らさなかった。
アーティクティカの机のみ闇が晴れていた。先ほど二人が落書きしたであろう筆と机。その机には確かに落書きし、悪戯をした。だが、何もない。二人がやる前と変わらず、真っ白なものだった。
机を入れ替えた。
そんなわけもない。
アーティクティカの机には、教室の机には独自の傷が作られている。誰かが掘った後、誰かが作った落書き、誰かが残した臭い。とにかく人の痕跡が残るのだ。アーティクティカの机には正品さが残る。形あるものを綺麗に残そうとする維持が見える。だからわかる。
これはアーティクティカの机。
その落書きは消え、筆だけが残る。
消す時間はない。暗闇が現れたのも、人形が現れたのも数分の事。沢山落書きをし、悪戯をした二人の所業をいかにして消したというのか。
暗闇から声が放たれる。それは周囲をぐるぐる歩くように、音がゆったりと周りをまわるように放たれたものだ。
「・・・・貴方達の努力は・・・無駄だということです・・・証拠はない・・・よかったですね・・・貴方たち処罰されないです・・・・ただ証拠は残ってなくても・・・証拠はあります・・・見る限り・・貴方たちは・・・きっと言い訳をするタイプです・・・やっていたことを誰かに指摘されても・・・証拠を出せとのたうちまわるみたいな方たちでしょう・・・」
二人は息をのんだ。
悪戯をしたが、証拠はない。証拠がないのだから悪戯はない。痕跡がないのだから何もしていない。
たとえ、第三者が指摘したとしても、証拠を出せといって、なければ無実を主張する。落書きした、いじめをした。人に暴力を振るった。されど痕跡は残っていたとしても、証言があったとしても、その確たる証拠がなければ人は人を罰せられない。国は法治国家なのだ。法とは不確かなもので罰することを固く禁じている。
二人は、ぎりぎり罰せられないように悪戯をしたのだ。
だから、今回もそうしようとした。
だが人形は違う。
人の癖を、特徴を、まるで理解したように先回りしてくる。
その声は周りをゆったりと流れる。暗闇で見えなくても人形が周りを歩いている。実力は不明。されど不快さは、恐怖となりて二人を包む。貴族であろうと平民であろうと人形には関係が無い。学園の防衛戦力を排除し、ローランドを相手にし、学園の授業を冒涜し、何よりアーティクティカに呼ばれ、立場を補償された異常な平民。
平民が貴族に歯向かうことなどありえない。利点で平民を囲って、部下にするローレライの貴族にとって、貴族に逆らう平民が想像できないのだ。
明らかな平民による貴族への敵対意志。
「・・・・わからないとでも思っているですか?・・・証拠はない・・・でも証拠はあるんです・・・見せてあげます・・・いや・・・聞かせてあげましょう・・・貴方たちが知らなくても証拠は残せる術があることを教えてあげます」
そして、人形が言葉だけでもわかるように
「・・・あははは」
暗闇から人形の硬くなった笑い声だけが届く。人間の笑い方を模倣したような、片言の笑み。棒が演技する如く、酷い笑い声だった。常人であれば、慣れない演技と断定するものだ。だが暗闇を出し、悪戯を掻き消す人形の片言演技など、わざとでしか聞こえない。
そして証拠が流れた。
音だ。
「アーティクティカが悪いんだ・・・いつまでも上にたつから」
陰湿そうな生徒の声が響いた。感情にあるのは理不尽なまでの言いがかり。
「カルミア様を虐めるなんて最低だな。本当にやったかは知らないけどな」
ぎらつく男子生徒の声が響く。まるで真実かどうか疑うかのような発言だ。
音に多少の雑音が入れど、それは確かに二人の発言だ。机に落書きする前の他愛のない雑権。
「カルミア様が勝てば俺たちは階級を上げ、将来が補償される」
陰湿そうな男の声がまるで誰かに語り掛けるかのようである。そして対する片割れの男子生徒の発言も
否定的な空気はない。
「ああ」
肯定だ。
ただの声。
ただの二人の声。
それは悪戯開始前に流した発言である。ただ悪戯後に時間が立った後に聞かされる発言ではない。人は己の発言はわかっても、己の声の質がわかるものではない。自分で発現する声を自分で感じ取るのと、他人が聞くのでは大きく異なるのだ。
自分の声など、自分で聞いたとき幻滅するのが大半だ。
だから最初自分の声を聴いても理解はできなかった。
だが、友人たる他人の声を聴いたときに、いつも聞く声だと築き、先ほどの発言が、自分のものだと認識する。
「・・・先を聞きたいですか?・・・聞く必要がありますか?・・・それとも証拠がないとでもいいますか?・・・証拠はあります。・・・悪戯した証拠もあります・・・この場には残さないだけできちんとあります・・・嘘だと思いますか?・・・嘘だと思うならば発言してください・・・その発言の成否を確かめるために、後日、素敵なイベントを用意させていただきます」
そして口元に何かを咀嚼する音が響いた。
ぱきりぱきりと口元で砕いて、歯で噛む音がする。
ぎらついた男子生徒が再び片手に炎を灯す。その音めがけて解き放つ体制を整えるために、身をかがめていた。今すぐにでも証拠を隠滅か、人形の排除か。
だがそれを制するように冷めた声が届いた。
「・・・次に・・・その火を向けたら・・・さすがに我慢はしません・・・一応、大人なので。・・・・子供やることに対して・・・多少は余裕をもつようにしています・・・たとえ貴族様でも、平民様であっても、子供である以上は・・・多少は。・・・証拠は一つじゃない・・・貴方たちは幼稚すぎる・・・沢山証拠を残してくれました・・・嘘だと思います?・・・・声は聴かせました・・・次は何を知りたいですか?・・・全部、今のも・・・昔のも・・・ベラドンナ様に向けた全ての悪意は・・・証拠があるんです」
暗闇が二人を覆う。
二人の視界にうつるのは己の範囲のみ。
片割れも関係が無い。
ただ一人だけが見えて、音だけが片割れの息遣いを感じさせる。
その瞬間、陰湿そうな男の悲鳴が上がった。別に危害を加えられているわけじゃない。己の範囲しか見えない中で、自分の足元が床から離れているからだ。空を浮かび、ただ勢いよく飛ばされる。その慣れない感覚と、閉ざされた視界からくる焦りが悲鳴となって表れた。
そして、悲鳴が止んだ。暗闇の中、床面にそっと着地させられた。先ほどの浮遊も着地も誰かに体を捕まれた感覚だった。だが己の範囲しか見えない陰湿そうな男にとって関係が無い。
背後から肩口を触る感触がした。
握りしめるかのように肩口を掴む感触。背後からくる吐息の熱。背後に迫り、耳口にかかる吐息の熱。されど、そこまでされても気配がない。人がいる気配よりも何もないように感じる空間。
確かに人はいる。暗闇で見えないだけでいる。なのに感じられない。わざとらしい人間らしさを強調しただけの呼吸。
「・・・悪戯した証拠がないと言い訳しても・・・証拠はあります・・・ちゃんとあります・・・貴方たちがしたこと全部ね・・・僕が赴任してから・・・貴方たちが陰でこそこそしていた悪戯の証拠もね・・・言い訳してくれても結構です」
暗闇で、気配のない人形からの吐息の感触。
そしてわかるだろうか。強者はこういうやり方をしない。影に紛れて人を脅すなどしない。強さを誇る者は名声にて立ち向かう。暗殺者は己の技術をいかし、陰で生かす。だが影にて人を脅し、されど表にて証拠をもって立ち向かうのは、常人ではない。
悪人のやり口だ。
相手の手口を理解したうえで、その手口をやれという。その対策をしていることをあからさまにし、きちんと証拠を残したことを言ったうえで脅しこむ。嘘ではない。先ほどの声が証拠だ。嘘ではない。
なぜなら。
「・・・取引しましょう・・・協力してほしいんです・・・今後、ベラドンナ様の物に悪戯をしないという条件の元、僕は貴方たちの不利なことはいたしません・・・協力です・・・難しいことなんかしなくていい・・・お金もかかりません・・・わずかな苦労だけでいんです」
「認めなかったら?」
陰湿そうな男は中途半端に知恵が回る。言葉に出さずとも態度には震えが見えている。恐怖や不可解な化け物にあったかのような命の危機を感じている。それを声に出さないように、気をつけている。
「・・・・実は、・・・あの机、・・・カルミア様のものなんです・・・いまも残っています・・・悪戯・・・僕が事前にカルミア様の机を綺麗にし・・・アーティクティカ様の机の場所に入れ替えるようにおいといたんです・・・アーティクティカ様の机はカルミア様の机の位置においてあるので・・・無事・・・でもカルミア様の机は?・・・安心してください・・・悪戯・・・消してないので・・・ちゃんと残っているので・・・貴方たちが協力を約束し、実行するまで・・・ちゃんと保管しておきます・・・お願いなんてすぐにできます・・・・それを確認次第僕の方で証拠隠滅しておきます・・・」
吐息が耳に掛かる。
「・・・ただ、貴方たちの友達に・・・・実はベラドンナ様は・・・悪くなかったと。・・・噂とは違うんだということを適当に流してくれればいいんです・・・この教室は二人が協力を約束し、実行するまでそのままです。・・・約束を果たさず・・・証拠隠滅を頑張ってくれてもいいですが・・・約束果たした方がはるかに楽です・・・約束を果たしてくれるならば、・・・ね。・・・貴方たちの秘密は守ります・・・約束を守るのが大人の役目ですから・・・」
肩口を掴む手はそのままに、陰湿そうな男の口元に何かが接触した。大したことのない人形の提案、嘘をつかれる可能性。されどつく意味のない可能性。証拠もあるだろうが、ないかもしれない。
悪戯した証拠もあるだろうが、ないかもしれない。
その確定されない事実の虚無さより、ただ人の神経を、精神を手のひらで転がすような態度に恐れていた。
「平民が・・・貴族を脅迫するのか?」
陰湿そうな男の問いに。
「・・・貴族様が階級の高い貴族様に悪戯することが脅迫ですか?・・・」
その言葉の前では陰湿そうな生徒も言葉をのんだ。人形は人の心を掌握し、その先を読む。手口もまるで人の恐怖をあおるかのようだ。人は視界が奪われたとき、弱点を掌握されたとき、途端に弱くなる。
それを実行している時点で人形は危険なのだ。
「・・・タイムリミットは明日まで・・・いや・・・明日はお休みでした・・・きっと、お休み日のなかでお友達に・・・ベラドンナ様が実は悪くない・・・まるで衝撃の真実みたいな声が伝わるのは・・・良いことでしょう・・・お休み開けの早朝まで・・・それまでに伝えてください・・・誰でもいい・・・仲良い人・・・仲が多少良い人でもいい・・・面識がある人で・・・貴方の立場が悪くならない、貴方の利益が守られる関係の中で・・広げてください・・・僕は貴方がひどい目にあうことを望まない・・・」
「お前の目的を・・・」
「・・・貴方たちの利益と・・・ベラドンナ様の利益と・・・僕の利益を・・・嚙合わせること・・・。約束を果たしてくれるなら・・・必ず僕の手で証拠は消します・・・その証拠をもとに脅すなどいたしません・・・ただし、約束を果たさず・・・証拠だけを消すならば・・・その限りじゃない・・・・大人もたまには本気を出さないと…子供に甘く見られてしまうので・・・多少は頑張ります」
人形の言葉には証拠はない。感情が無いのに、信じろというのが無理だ。だが嘘もない。命令をこなすだけの人形に命令違反などといったものは感じ取られない。陰湿そうな生徒にとって、貴族でもない大人の命令など聞く価値はない。だが己の立場と、人形の不気味さ。平民や貴族の立場を抜いたうえで、大人の指示を聞く利点。
殺すことなどいつでもできる。
人形は貴族なんて気にしない。
貴族が歯向かおうにも、いまだ立場のあるアーティクティカ。アーティクティカが本気になれば子爵の二人など簡単に消せる。文句を言わさず家ごと取り潰せる。アーティクティカが予備、補償された立場の人形は、恐れることなどないのだ。
たとえ補償されなくても、人形が必ず牙をむく。
「・・・わかった」
裏切ることはできる。それをしたときのデメリットが多すぎるためできない。約束を果たしても守られるかは不明。だが、もし破られれば信用ならないだけだ。その含みをついでに約束の話とともに流すだけだ。
人形の話は極力もらさず、約束だけを果たす。そしてその中に含みを入れる。
陰湿そうな口元に先ほどからつつく感触がある。暗闇のため見えないが、甘い香りが鼻を突き、食欲をそそる。
「・・・約束の証拠に食べてください」
「食べたら?」
「・・・毒が入ってます・・・」
人形が淡々と毒を物言い。
「毒を入っているものを食べさせるのか」
陰湿そうな生徒が声を荒げかけるが、この暗闇の中立場は人形が上。だから歯向かわず、かといって食べることを拒否したそうなそぶりはみせていた 。
「・・・本人の意思なく食べさせる薬は・・・毒だと思っています・・・なので・・毒です・・・実態は・・・精神を安定させます・・・余計な心配から・・・余計なことをされても困るので・・・嘘だと思うなら・・・約束を破ってもいいです・・・ね」
その言葉を人形から言われれば、食わざるをえず。
そして食わされた。
正直、美味しかったといえる。
陰湿そうな男子生徒が話を飲み、ぎらついた生徒が今度は被害にあう。先ほどよりも簡単に話はまとまった。二人はそのまま教室から追い出されるように、空中を飛び廊下へそっと下された。二人が目にしたのは廊下に下された後、扉の向こうが暗闇で支配されていたことだけだ。
それも扉が勢いよく、誰もいないのに閉まれば恐怖に代わる。
見えない何かの襲撃者。
その事実が二人を裏切らせなかった。
二人は快く承諾し、そして約束が果たされた。
休みあけ、ベラドンナは実は悪くないという話が広まった。ただしじわりじわりとである。だが休みの影響力と学園の生徒は学園から離れられないというルール上、広がるしかない。ベラドンナの立場とカルミアの確執は学園でも話に上がらないけど、熱いネタである。
ベラドンナが悪いという表向きの真実の裏に、実は悪くないという真実が付与された。アーティクティカに逆らいたくないから表に出さなくても、きちんと裏では悪女説があったのだ。それを否定するかのような第三の説。自分だけは真実をしっている。少数人数であることを誇るタイプの生徒たちがそれに上手く便乗していった。
そして、休み明けカルミアの机は綺麗であったし、ベラドンナの机も綺麗であった