私は処刑人
古くから最も重い刑罰として罪人に課せられる刑、死刑。現在では刑を行う人間が、罪人に直接その手に処刑器具を持ち、それを下すことはない。しかし、処刑のための機械や器具を介するだけで、誰かが処刑の最後の一手を下さなければならないことは変わらない。
私は、死刑執行人の仕事をする相良幸司という。死刑執行人が所属する「執行課」に所属するいわゆる処刑人である。我々は、「人民の総意に基づいた審判により罪人に罰を下す」という大義のもと、日々「執行」を行う者たちだ。この職につき、「執行」を行うことはとても名誉なことで、秩序を守り、人々が安全に暮らせる世の中を作るという重要な役割がある。私はこの職に就いてから、数々の最後に手を下し、そして見届けてきた。時代は人を生かし償わせるよりも、かけがえのない命を裁くことを選んだ。
世の中は、生きていてよい命と、悪い命とを区別する構造になってしまった。だが、誰しもが自らの手を下すことなく、悪い命が絶たれることを願った。「執行人」という職業が生まれたのは、人間社会の必然なのかもしれない。
先ほど、数々の最後を見届けてきた、といったが、たいていの人は人間の命の終わりに立ち会うことは強烈な印象を残すものなのではないかと思うだろう。それはもちろん合っている。しかし、多く命の最後に手を下す、あるいは見続けたことで、私の心は麻痺してしまっていたのだろう。自分に全く関係のない動物、蟻などの虫が死ぬこと、または遠く離れたどこか遠い地で行われた戦争で殉じた、無関係の人間の死と等しいものになってしまっていた。目の前で眼の光が消える瞬間を目の当たりにしても、何とも思わなくなってしまっていた。職に就いた当初、毎晩夢に見た、亡き者の影にうなされたことも、もはや懐かしくすらあった。
そして、変わらずこの国の世は平穏そのものであった。