その8
僕たちは、高橋家を通り過ぎ、ゴミの収集場所まで向かう事にした。こういった生活に必要な場所が自宅から遠いと、暮らすのも多少不便に思える。僕や国栖はともかく、普段歩き慣れていないのか二階堂は辛そうな顔を覗かせている。腕時計を確認すると、18時20分を指していた。
まだ明るいが、のんびりと調査をしていたら、あっという間に暗くなるような時間だ。
ゴミの収集場所は高橋家から真っ直ぐに、信号を3つ渡った所にあった。そこから先は更地が続いていて、行き止まりとなるフェンスが見えるまで1件も住宅が無い。道路もきれいなもので、恐らく新興住宅地なのだろう。
これから、この辺りに家を建てる住人達にとっては割と便利そうな場所だ。こういった立地に有りがちな、カラスの被害さえ無ければの話だが。
掲示物を確認すると――木曜日、つまり今日はカンとペットボトルの回収日だったらしく、ビンは金曜日で、水曜日と日曜日が所謂普通ゴミの収集日となっている。もしこの町で、これから国栖のボトルシップを処分するのならば、ビンを洗って金曜日に出し、粉々に砕いた中身を水曜日が日曜日に出せば良いわけだ。
「恐らく、警察は既に信秀が捨てたペットボトルとカンを回収しているのだろうね」
回収時間を確認すると午前8時回収となっている。僕は国栖に同意して頷いた。事件発覚から、どれだけモタついていたとしても流石にその時間までには手掛かりと成り得るゴミは、警察が無能でもない限り押収している事だろう。信秀を疑っているのなら尚更だ。
「この辺りを見ても、僕らが得られるものは無いのでは」
と、僕が言うと二階堂は、初日とはいえ何の収穫も得られない事に不満げな顔を覗かせて僕たちに言った。
「いや、ここより先へ進みましょう。少し気になる事があるんです」
「気になる事、ですか?」
僕は、警察署で信秀が言っていた、高橋家の方面から来て通り過ぎて行ったスクーターの事が気になっていた。
ここから先は更地や空き地しかないのは見れば分かる事なのだが、帰宅する家が無い方向で、出勤するにしても工事を始めるには早すぎる時間。
「明日葉、君は原付が気になるのかい?」
「ああ、この先に黒い原付に乗っていた人物が、目的とする〝何か〟が無い限り、その人物は何の為に、この付近を走っていたのか説明がつかないんだ。そして信秀さんに目撃されたのが偶然だったのかどうかも疑問に思えてくる」
僕の見立てでは、信秀がゴミの収集場所ですれ違ったスクーターに乗る人物が、もし事件に関わっているとすれば、それは高橋涼子を良く知る人物で、信秀と涼子の晩酌をする際、水曜日であればゴミ出しに行くことを知っている人間。その人物は信秀が家を出た直後に何食わぬ顔で涼子に挨拶でもしてジョッキに注がれたハイボールに毒物を混入させてから高橋家を出る。信秀がゴミを出している事を確認して、立ち去った後にでも信秀が出したごみの袋の中に、その毒物を保管していた容器を混ぜておいた可能性がある。
「つまり君は、その原付の人物が高橋涼子を殺害した真犯人の可能性があると、言いたいのかい?」
ミステリ小説を僕と一緒に読んでいる国栖は、僕の考えを察したようだ。「これから調べてみれば分かるさ」と、得意げな顔をして僕は国栖に言った。
「残念ながら、その可能性は元から殆ど在り得ないと見ているよ」
国栖は僕を哀れむような目で見ている。いつだったか、一緒にクイズ番組を見ていた時に僕がドヤ顔で不正解を連発していた時も、こんな表情だったのを思い出す。
「それは一体、どういう事だ?」
「まず、君自身も気付いているとは思うが、信秀は長くても往復6分で帰ってくる。わざわざ知り合いとはいえ深夜の来客が家まで上がっておいてから、そんな短時間で帰るほうが怪しいだろう?」
「怪しまれたとしても、それを怪しんだ涼子が死ねば犯行に支障はない」
「いや、それが在り得ないんだ。涼子は自分で通報するときに『夫に毒を盛られた』と言ったわけだろう? そんな不自然な来客が居たら、幾ら知り合いだったとしても、そんなメッセージを残すとはとても思えないね。それに、原付の人物の目的も何となく予想がついたよ」
「えっ?」
国栖が、指を差した。その方向を見てみるとフェンスに囲まれた空き地に、ぽつん、と段ボールが置かれている。「何が入っているんだ」と僕たちが近づくと、その段ボールの中から何やらガサゴソと音が聞こえてくる。
僕はこの〝存在〟をよく知っている……。
目を合わせてしまうだけで、その場で身動きが取れなくなる程凄まじい眼力。不思議な動きで相手を翻弄し、その美しい雄叫びは、一度聞けば百戦錬磨の戦士達も、手を出す事を躊躇うであろう。究極の生物兵器、別名〝殺人毛玉〟……。
「猫ちゃんだー!」
小さめの黒猫で、大きさは生後6カ月といったところか。まん丸でフサフサとしたその毛玉のような仔猫は、まさしく由緒正しき雑種、ニホンネコ。僕は触りたくてうずうずしている。国栖だってそうに違いない。そうだろう? その筈だ! 猫が嫌いな人なんて居るわけが無い!
「かわいいでちゅねー。うーんかわいい!」
僕が我慢できずに頬っぺたを摩ると、仔猫は「ゴロゴロ」と喉を慣らし、「ニー」と愛くるしい声を出した。
「この猫の段ボールを見ると、数日間誰かが餌をやっていたんだと思う。敷いてある布もつい最近替えているな。段ボールの劣化具合とタオルの新しさが一致していない」
冷静に国栖は判断をする。この際そんな事はどうでも良い、この子の名前は一目見た瞬間に決めてある。〝アイリーン〟だ。
小説に登場する名探偵が、生涯唯一認めた女性の名を冠するに相応しい可愛さ。この子の名前はアイリーン以外に在り得ない!
「国栖、今すぐ事務所でアイリーンちゃんを飼う準備をしよう」
「アイリーン……? 明日葉、まさか君は、もう名前まで決めてしまったのか?」
国栖は豆鉄砲を喰らった鳩のような顔をして、僕を見る。
「当然だ。無責任な人間に見放され、幼くして外の世界に放り出されてしまったネコちゃんに、名前を付けてやらないだなんて失礼にも程があるぞ。こんな可愛らしいアイリーンを見捨てるだなんて、そんな奴はきっと、氷のように冷たい心を持った人間に違いない」
国栖の表情は半ば呆れたようなものに変わっていく。二階堂は、何故か先程から目を合わせてくれない。
漂うアウェーな空気に気付いた僕は、やっと当初の目的を思い出した。そうだ、ここに来た理由は信秀の無実を証明する手掛かりを探す為だったんだ。
しかし結果としては、何の手掛かりも得ることは出来なかった。そもそも、誰かが無罪である証拠を見つけ出すという事は、ミステリ小説の登場人物の中から犯人を見つけ出す事よりも難しいのだろう。
「弁護士であり、信秀の友人でもある私が言うのも何ですが、彼の外出後に侵入した人物が居ないとすれば、やはり信秀が……」
「いえ、もしかすると既に凶器が高橋家に持ち込まれていたのかも知れません。例えば前日にでもジョッキに毒を仕込んでおいたとか」
「そのジョッキを使う前に洗われたら、致死量の亜ヒ酸を経口摂取させるなんて出来ませんよ。底に結晶を仕込んでいたとしても、使う前のジョッキに粉があります、それを見落として注ぐのは明らかに不自然です。水溶液を予め入れていたとしても、普通これから使うジョッキに水が残っていれば洗うでしょう?」
僕の考えは、あっさりと二階堂に否定された。
確かに、事前に毒をジョッキに仕込むのは難しい。しかし、そうでもしなければ信秀以外の人物が涼子を殺害した可能性を肯定できない。ジョッキに仕込んでいなければ一体何に? 惣菜、酒、炭酸水、お菓子……。
酒以外は事件当日、コンビニで信秀が買ったものだ。となると、やはり酒か? 前日にでも、ウイスキーに毒を仕込んでおけば犯行は可能だが、今日はビンの回収日では無かった。つまりそのウイスキーが押収されていれば警察だって信秀の犯行だと頭ごなしに決め付けたりはしないだろう。
信秀が当日飲んだのはビール。涼子はハイボール……。
ビールにあって、ハイボールにない物……。
氷?
僕はその瞬間、何か電撃のようなものが脳天を突き抜けていくのを感じた。閃いた!
「そうだ、もしかするとその人物は信秀が立ち去った後に、ゴミをあさっている人物を目撃しているのかもしれない。とは考えられないか?」
「それは先程、国栖さんが言ったように、信秀が家を出た後に侵入して毒物を入れるのは不可能に近く、高橋検事の通報内容とも食い違うと結論が出たばかりでは……」
二階堂が少し力の入った声で反論した。
「違うんだ。僕の考えが正しければ、毒は氷に入っていたんだよ! 犯人は、高橋夫妻の家に上げて貰えるほど親交の深い人物に限られてくるけどね」
「ほう、続けたまえ」
国栖がニヤニヤしながら腕を組んで促した。
「まず、真犯人は高橋家に訪問した際、製氷皿に亜ヒ酸の水溶液を仕込んでおいたんだ。1つだけ、毒氷が造られるようにね」
「なるほど、君の推理では毒入り氷でロシアンルーレットをさせるように真犯人が仕向けた、と言いたい訳だ」
「ああ、その通りだよ。涼子さんはハイボール、信秀さんはビール。この晩酌の習慣を知る人物が、信秀さんに罪を着せて涼子さんを殺害するのならば、高橋家の冷凍庫に毒入り氷を1個でも入れておけば、自分に容疑がかかる事も無く涼子さんを殺害できる。何せ氷が溶ければお酒に毒が入っている事実だけが証拠として残り、外部の人間には犯行が不可能であるという先入観を持たせることが出来るんだ。それに涼子さんも、信秀に毒を盛られたとしか思えなくなる筈だ」
「しかし、明日葉さん。それなら何故ゴミを漁る必要が出てくるのです?」
「二階堂さん、ポイントはそこにあるのですよ。犯人の目的は涼子さんを殺害した容疑を信秀さんに掛ける事なのです。自宅から毒物を保管した容器が見つからなければ警察も氷に毒を入れられた可能性があると考えるでしょう。しかし、その容器が信秀さんの出したゴミから発見されたらどうなります?」
二階堂は、ハッ、と両眼を開いた。「そうなれば信秀は言い逃れが出来なくなります!」
「そうなのです。だから、このアイリーンの世話をしていた人物の目撃証言さえ取れれば、警察から見ても、真犯人が存在するという可能性が浮上してくるんですよ。恐らく捜査方針も変わっていくでしょう」
「ニー! ニー!」
アイリーンも、僕の名推理に相槌を打つように可愛い鳴き声を出している。ミステリ小説のトリックを見破るのは国栖の方が上手くても、現実の事件においては何の役にも立たない事が証明されたな。
横目で国栖を見ると、先に推理を披露されたことに関して何も悔しい感情を持っていないかのような涼しい顔をしていた。正直、今までの事もあり彼の悔しそうな顔を拝んでみたかった所ではあるが、僕はそんな所に拘るような子供ではない。
「今日はもう、廻れる所は無さそうですね。また後日、コンビニの映像回収と合わせて、家の中を調査しましょう。その頃には警察の家探しも終わって、私たちも入れるようになっているでしょうし」
解決の糸口が見えてきたせいか、二階堂も少し嬉しそうな表情で先の話をする。
「そうだ、明日葉。現場に行けば案外面白い物が見られるかもしれない。楽しみにしておこう」
二階堂とは駅で別れ、僕たちは事務所へと向かった。
後部座席に、アイリーンと段ボールを乗せ……。