その3
「はい、プロボックス探偵事務所の明日葉です」
国栖は基本的に、事務所にかかってくる電話を自分で取ることは無い。探偵だというのに携帯電話の1つも持たないほどの電話嫌いだ。彼は僕が居なければどうやってこの仕事を続けていく気なのだろうか。
『国栖さんは、そこにいらっしゃいますか?』
電話の主は、低めの少し枯れたような声で言った。中年の男性だろうか。
「はい、お仕事の依頼でしょうか?」
僕が電話の声にそう伝えると、
『いらっしゃるのですね? では、今すぐそちらへ伺います。申し遅れました。私、二階堂と申します。それでは後ほど』
とだけ言って電話を切られた。
「仕事の依頼でも来たのか? 即収入にでも繋がらなければ、さっさと断ってくれ。そして君は今すぐ消費者金融に向かいたまえ」
ソファーで警戒心の解けた猫のように仰向けで寝そべる国栖が面倒くさそうな顔をしながら僕に言った。
「お前が事務所に居ると伝えたら電話を切られたよ。どうやら、これからすぐに来るらしい」
僕は受話器を元に戻すと、せっせとテーブルの上を片付け始めた。ヤカンに水を足し、もうひとつコーヒーカップを用意していると、ある事に気が付いた。
この事務所は、ブログにも新聞広告にも国栖の名前を出していない。事務所に足を運ぶ依頼人も、初めて国栖と会った時に、「国栖さんは、助手さんか何かですか?」等と聞いてくる事が良くある。何せ、受話器を自分で取る事など無いからだ。しかし電話の主は、国栖という人物がこの事務所に存在している事を前提に話しかけてきた事が気になる。
「電話の人、そういえば二階堂って言っていたが。知り合いか?」
気になった僕は、国栖に聞いてみた。これからその人が来るというのに、寝そべったままの彼が答える。
「二階堂? ああ、1月のスキー旅行ツアーで知り合ったオッサンだとすれば知っているよ。確か彼は――」
ガチャ――
チリンチリン――
事務所のドアが開き、鈴の音が鳴り響いた。恐らく二階堂という男だろう。
1月の中旬、突然事務所のテーブルに『4日ほどスキー旅行へ行ってくる。その間の仕事は任せた。――国栖』とだけ書かれた紙が置いてあった事は今でも覚えている。事務所を開いて1ヶ月ほどしか経ってもいないのにも関わらず、4日も事務所を放っておくとは思わなかった。二階堂は国栖に一体何の用があるのだろう。遊びであれば追い返してやる。今は、そんな暇など僕達には無いのだ。
そんな事を考えながら玄関へ向かうと、中肉中背に四角く大きい淵の厚い眼鏡、スーツ姿の見た目40代程の男がそこに立っていた。枯れた声からは、少し細めの体格を想像していたのだが。
「二階堂さんですね。こちらへ、どうぞ」
僕が彼をテーブルまで案内する。ソファーに寝そべっていた国栖も、流石にその頃には座っていた。
「国栖さん! お久しぶりです。あの時は本当に助かりましたよ」
二階堂は、ソファーに座る国栖を見てすぐに挨拶をした。一体この男と国栖はスキー旅行で何があったのだろうか? そんな疑問を浮かべながら彼をじっと見つめていると、
「あー、私は二階堂文明と申します。栄美市で弁護士事務所を開いております」
二階堂がスッ、と名刺を取り出しながら言う。僕が受け取った名刺には『弁護士法人 グロリア法律事務所』と書かれている。
「どうも、二階堂さん明日葉直人です」
僕は普段、依頼の際に名刺を渡すことはあまり無いのだが、どうしてもという依頼人の為に、一応作っておいた名刺を渡す。ちなみに、僕が渡した名刺には『有限会社 シャレード板金 営業部 明日葉直人』と書いてある。他にも化粧品販売会社であったり不動産屋であったりと、依頼人に合わせて渡す名刺をそれぞれ用意しているのだが、どうやら同業他社には普通に探偵社と書く所もあるらしい。
そんな事情など、弁護士をしている二階堂は名刺を見ただけですぐに理解してくれたのか、何も質問せずに僕の名刺を受け取った。探偵事務所で働いていると事務所に弁護士が訪れることがよくある。離婚調停や裁判に使う証拠収集が主な依頼だ。尾行や張り込みが必要となった時は探偵頼りという訳だ。
二階堂も、スキーで国栖と知り合って、偶然そんな仕事が出来たから足を運んだのではないのだろうか。
「ところで国栖さん、お願いがあるのですが」
「二階堂さん、刑事専門の君が私にお願いか。いつから探偵という職業は、小説の登場人物のような扱いを受けるようになったのかね?」
国栖は二階堂の事を、刑事専門と言った。一体彼はこの事務所に何の用があるのだろうか、ますます分からなくなってきた。二階堂が次に何かを言いかけた時、
ピーピー――
笛の音が鳴る。ヤカンの湯が沸騰したのだろう。
「あ、少しお待ちいただけますか? お飲み物をお持ちします」
と、僕がソファーから立ち上がると、隣に座っていた国栖が「今日は12個で宜しく」と呟いた。
僕はキッチンへ向かい、用意しておいたカップにお湯を入れる。国栖は最低でも角砂糖を8つも使う甘党だ。国栖のコーヒーを間違えて客に渡せば大惨事だろう。僕は皿に乗った3つのコーヒーカップをトレイに乗せ、零れ落ちない様に慎重に運んだ。
「どうぞ」
僕がコーヒーを配ると、二階堂は「ありがとうございます」と言って、スティックシュガーもフレッシュも入れずにそのまま口に運んだ。
「せっかく話し始めた途端に、うちの明日葉が失礼した。大変申し訳ない」
国栖が笑いながら言うと、二階堂も「いえいえ、とんでもない」と笑いながら答える。僕は何も悪くない。何も悪くないはずだ!
「話を元に戻しましょう」
二階堂のさっきまで三日月のように反っていた眼は、獲物を狙う狼のような鋭い目つきに変わった。
「お2人とも、ニュースはご覧になったと思います。検察官、高橋涼子殺害事件」
「ヒルマタギで見たよ。毒殺らしいね。夫が逮捕されたのだろう?」
国栖が答えると、「ええ、良くご存じで。亜ヒ酸によるものです」と二階堂が言う。僕たちがニュースで知り得たのはこのくらいだ。彼は、この話題を事務所に持ち込んで、一体何を依頼するつもりなのだろうか。
「逮捕された信秀さんは私と高校時代の同級生という間柄で、捕まってすぐ私に連絡を入れたのです。『俺は無実だ、家に帰ったら妻が死んでいたんだ!』とね。警察から聞き出した話を聞く限りでは、無実を証明することは難しいのですが、どうも彼を疑う事が出来ませんでしてね。弁護の依頼を引き受けることにしたのです」
「つまり、二階堂さんは信秀さんの私選弁護人という事ですね」
僕が彼の話を要約すると、「はい、そういう事です」と二階堂は相槌を打った。僕が隣に座る国栖と目を合わせると、
「明日葉、まだデータは消していないだろう? カメラを持って来てくれ」
と、国栖に言われ、僕は軽く頷いて立ち上がり、デジタルカメラのしまってあるデスクへ向かう。
もし信秀が本当に無実であれば、気は進まないが報酬の回収も、やりやすくなる。それに二階堂も同級生の為だ、それ相応の額を支払ってくれるに違いない。僕はソファーに座る二人の元にカメラを持って行った。
「お待たせしました」
カメラに記録された画像を、二階堂が確認をすると、両眼を見開き「どうして、この人の写真を持っているのです?」と慌てた様子で僕の方を見た。
「実は、被害者である高橋涼子さんに依頼されて、浮気調査を行っていたのです。そして、これらの写真を涼子さんに渡したのは3日前、月曜日の夜です。国栖は丁度ニュースを見ていて、写真を突きつけられたにしては準備が早すぎると言っていたのですが、信秀さんが捕まっている以上、彼に真相を聞くことも出来ず困っていたところなのです」
二階堂に、簡単な説明をした。こちらが調査した結果と、警察署に居る信秀と連絡が取れる二階堂が居れば、真相究明の糸口になるかもしれない。
「なるほど、信秀さんの浮気調査だったのですね」
二階堂は納得をすると、「タバコを吸ってもよろしいでしょうか?」と言って、ワイシャツの胸ポケットからタバコを取り出す。僕が「どうぞ」と言って彼の手元に灰皿を近づけた時、国栖の口が開いた。
「二階堂さんは、とても面白い事を言うね」