その1
僕があの問題児と一緒に働き始めたのは去年の12月。この事務所はクーラーがガンガンに効いていて気持ちいいのだが、窓を突き抜けるセミの声が僕の考え事を邪魔する。3日前に浮気調査の報告を終えてからは何の依頼もなく、ホームページの代わりに使っている事務所のブログを更新しようとしているのだが、なかなかコレが進まないものだ。
ソファーに横たわる問題児は、僕の苦悩などお構いなしにミステリー小説を読んでいる。しかしながら国栖、お前が読んでるその小説は上下が逆さまだ。あえて指摘してやりはしないが。
彼の真っ黒な三つ揃いのスーツは、現代日本において真面目な印象を与える。正直、堅苦しいとすら思える迄だ。ベストに掛かっているチェーンは僕の趣味とは全く合わない。ただ、今やクールビズの世の中。あんな格好で真夏に仕事をする人間は珍しいと思う。ちなみに背広は皺になると言ってハンガーにかけてある。
「高橋さんの件、報酬は明後日までに振り込んでくれるって事だけど、また前回みたいに無駄遣いしないでくれよ」
僕は何度目になるか分からない釘を刺した。先月くらいだったか、国栖は次の依頼がいつ来るのかも分からないのにも関わらず、やったこともないギターを購入していた。それも高い物をわざわざ選んで。
そのギターが神棚に丁寧に飾ってある事から察するに腕前は一切上達していないのだろう。
ちなみに、その神棚も事務所を開いてから初めての依頼の報酬で、わざわざ職人さんに造って貰った特注品だ。
「そんなに心配するな。次はボトルシップだ」
「この事務所に作りかけのボトルシップが何隻あるのか、お前は数えたことはあるか?」
少なくとも僕の目に映る範囲で3隻あるそれを、1つずつ指さしながら僕は言い返した。
「明日葉、君は何か勘違いしている。私はボトルシップを作るのが好きなだけであってボトルシップを完成させる事が好きなのではない。完成されたラーメンには食べる楽しみしか残されていないだろう?」
この男を理解するのは難しい。
「どちらにせよ、あれらは私が作るのに飽きてしまった可哀想な船達だ。君が続きを作る気が無いのならば、今度ゴミにでも出しておいてくれたまえ」
どうやら余計な仕事が増えてしまったようだ。ボトルシップのゴミ……、ビンを割って燃えないゴミの日に出すか、船を棒で壊してから洗ったものをビンの日に出すべきか……。
余計な話をしすぎて、自分の指が完全に止まっている事に気が付いた。このブログも国栖が宣伝するなら手っ取り早いと始めた事なのに、いつの間にか僕1人で更新している状態だ。仕事が少なくてもライバルが多いこの業界では宣伝など欠かすことが出来ないから、仕方なく惰性で続けているようなものだが。
職務上知り得た他人の秘密を漏らすことは出来ない為、調査がてらに撮った鳥や野良猫や花、それと国栖がラーメンを美味しそうに食べている画像などを貼り付けているだけの内容ばかりになりつつあるのだが、今回はネタになるような物など何もなかったので、珍しく文章に頼るほかないのだ。丁度いい、国栖のボトルシップの話を面白おかしくネタにでもしてしまおう。書く内容をある程度決めたら筆も進む。
キーボードを叩く指が、だんだん良い調子になってきた頃、国栖が大きな欠伸をした。
「なかなか面白い小説だったよ明日葉君」
国栖が読んでいた小説は、新作が出るたびに僕が買っている人気探偵シリーズの最新作。その名も、〝まじ☆かる探偵ナツⅫ 忍び寄る影〟。本作では12作品目にちなんだのか、12の章で区切られている。
第1章 ナツはとってもお転婆娘
第2章 ライ麦畑で回収された古文書
第3章 テクニシャンな整体師
第4章 オマール海老の化石
第5章 ツメ、ちゃんと切ってる?
第6章 ジョークが通じないと割と会話が弾まない
第7章 ナンシー佐藤、故郷で死す!
第8章 ベレー帽
第9章 レーシック手術を受けてた田中が犯人だったわ、あいつぜってー許さん
第10章 ケミカルウォッシュジーンズは蜂蜜の香り
第11章 ショック! 私の給料これだけ!?
第12章 インターネットで検索したら犯人分かった
こんなに魅力的な章題を、僕は今まで見たことが無かったのだが、正直言って内容の方は、まじ☆かる探偵ナツのシリーズ中で一番ガッカリした作品だ。連続キセル乗車魔を華麗な魔法推理で追及していくストーリーは僕好みなのだが、なんだか構成に面白みがない。それに、いつものようなスリルも感じられなかった。
普段、仕事の空き時間に読んでいるのだが、僕は国栖だけには先に読ませないように気を付けている。何故ならば彼は読み終えた途端ネタバレを始めて、僕の読書意欲を思い切り削いでいくからだ。
7作目はそのせいで思考を停止したまま推理小説を読む羽目になった。
「意外性も何もなかっただろう? 僕はシリーズ中で一番ガッカリしたよ。一体どこが面白かったんだい?」
タイピングを続けながらソファーの方に顔も向けず、国栖に聞いてみると、
「むしろ今までで一番凝った作品だと思えないのか? まあ、君ほどの読書家がつまらないと感じるのは池々囂々先生の才能がそれだけ素晴らしいという証拠でもあるということか。納得だ」
何か馬鹿にされている気がするような言葉が返って来た。続けて国栖が、
「犯人が田中だということを、あの時点で読者に勘付かせるのは秀逸だよ」
と言ったあと言い返したくなった僕はタイピングを止めてソファーに顔を向けて、強めの口調で
「でも結局、田中は冤罪で物語のクライマックスに捕まったのは後藤だったじゃないか」
セミの声とエアコンの音が響き渡る事務所に国栖の鼻で笑った声が加わった。
「あれのどこがクライマックスだよ。最後に捕まったのは田中だ」
国栖の、その一言は僕の想定しているものでは無かった。
まさか! 僕は、まじ☆かる探偵ナツシリーズは最低でも2回は読み直しているんだ。記憶違いなど起こすわけがない。
「ちゃんと君は読んだのか?」
国栖は含み笑いしながらテーブルに小説を置き、僕に問いかけた。心底腹が立つ。
「中盤で推理ミスをした探偵ナツのせいで田中が捕まって、最後は助手ワトソン太郎の推理で後藤が犯人であると暴かれたじゃないか! 大体ナツがミスをしたまま話が終わるだなんてシリーズでも――」
「ハハハハハ! 囂々先生は、やっぱり天才だなあああああ!」
国栖が大声で笑いながらソファーから転がり落ちる。
「今までこのシリーズは物語の時系列と作品の順番がバラバラだっただろう?」
「それがどうしたって言うんだ」
僕がムッとして言い返すと、スっと立ち上がった国栖が手のひらを天井に向けてやれやれ、といったポーズをとり鼻で笑う。心底むかつく。口をヒクつかせた僕の顔を見て、
「作品の順番を時系列順に直すんだ。そしてこの小説は12章まである。あとは判るね?」
国栖は含み笑いをしながらヤカンの置いてあるキッチンまでゆっくりと歩いて行きながら言った。僕はハッとなってポケットのメモ帳を取り出して左から4、2、7、5、12……、と数字を書き込む。テーブルに置かれた小説を手に取り、その数字の順に章を読むようにページをパラパラとめくる。
各章がどんな内容だったか、というのは覚えているので、解読に時間は掛からなかった。
「嘘、だろ?」
心の声で留めておくつもりだったが、つい声が出た。なんということだ……、普通にページを読み進めても盛り上がりには欠けるが推理小説として成立している。しかしその時系列を正しく入れ替えると真犯人と誤認逮捕が綺麗に置き換わり、尚且つ池々囂々らしい美しい構成になる。
これだけ不自然な点を作らずに、読者を欺き通すとは! 池々囂々、恐るべし!
「国栖は一体、どこで気付いたんだい?」
僕はあっさりと囂々読者としての負けを認めて、国栖に聞いた。
「ナラテオツジナベレケシイ」
「なんだ? その呪文みたいな言葉は」
突然の意味不明な言葉に僕が質問すると、国栖は沸騰したヤカンの湯をカップに注ぎながら答えた。
「各章題の頭文字を1章から順番に言っただけさ。目次を読んでたら全部カタカナで始まっているのが気持ち悪くて気になったよ。頭文字を意味のある言葉に置き変えてみたらどうなるかを試してみたら、〝並べ直して時系列〟、若しくは〝時系列並べ直して〟、案の定こうなったわけ。ここで今までのシリーズの時系列と発表順に気付いたんだ。すると前者は見事にその入れ替えた順番と一致したんだよ。えっと、こういうのはアキハバラってやつだっけ?」
「アナグラム」
僕がすかさずツッコミのような訂正を入れると、
「そうそう! それそれ。その文になる順番通りに読めば、いつもの囂々先生を拝めることが出来るってワケさ。今まで作品の発表順と時系列がバラバラだったのも、この作品を読み解くヒントで、尚且つ囂々先生のシリーズ全体を活かした素晴らしい芸術だったんだよ」
楽しそうに国栖が言う。先を越されて悔しい気持ちはあったが感心してしまった。
僕が、まじ☆かる探偵ナツの華麗なる魔法に胸を撃ち抜かれて指が止まってしまっていることに気が付くと、ハッと我に返ってパソコンのモニタを見つめる。
全消しだ。
書き直そう。
この感動を世界に伝えよう。
ブログに掲載する文章もある程度纏まり、国栖の座っている向かいのソファーに腰掛け、ポケットから煙草を取り出してテレビを点けた。
『ヒルマタギー♪ ズンチャ、ズッズチャ♪ ヒールーマーターギー♪』
丁度、平日の11時から14時までという長い枠で放送されている番組のオープニングが流れた。この番組は芸人やモデル、学者や弁護士などの識者が出演して様々なニュースのコメントをしたりグルメリポートや全世界天気予報、他にも日替わりで面白い企画を放送していたりするワイドショーだ。
今日は木曜日なので、番組の初めにやる日替わり企画のコーナーは視聴者から寄せられた修羅場体験談の再現ビデオとトークだった。月曜日に浮気調査の仕事を終えたばかりの僕たちにとってはタイムリーな話題だ。
「僕たちの調査報告を受けて、高橋さんの家も修羅場になっちゃったりするのかな。物凄い夫婦喧嘩とか」
「依頼人の涼子はともかく、旦那の信秀は逆上できるようなタイプだとは思わないよ。切符売り場で並んでいる列に割り込まれても、何も言い返さないどころか睨みつける事も出来ない気弱なオヤジだからね」
フッと鼻で笑いながら国栖は言った。ちなみに、割り込んだのもこの男。トラブルにならずに済んで良かったものの、あの時僕は、これから尾行に電車を使う時は絶対に一人で行くと心に決めた。
「それよりも今思えば、突き止めた密会場所の喫茶店での事なんだけど、あの堅苦しいマスターが快く協力してくれて、すんなりと研修中の従業員として潜り込めたのが不思議で仕方ないのだが、彼とどうやって仲良くなったんだい?」
僕が素朴な疑問をぶつけると、国栖は口元に薄笑いを見せながら、
「マスターが浮気している現場の写真を見せたら、すんなりと要求を受け入れたよ」
と言い、しばしの沈黙の後フッフッ、と鼻から息が漏れるような音を出して笑った。いつか国栖に相応しい天罰が下りますように。
『ヒルマタギ・ニュースターーイム! えー、本日最初のニュースは、今日午前1時頃、美筑市阿笠町の住宅で発生した殺人事件のニュースです』
番組がニュースコーナーに変わって、中年のタレントが原稿を読み始めた。
「阿笠町だって?」