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07

 とても居心地が悪い。

 エラルドと別れた後、ルイネは内心そう思いながら足を進めていた。そのすぐ隣を歩くのは他でもない、イグナート司祭だ。しかもどうしたわけか、今日の彼はいつになく機嫌が悪そうに見えた。

 会話もほとんどと言っていいほどなかった。

 あまりに無言が続くと、いっそぎこちない会話でもあったほうがまだマシだと、ルイネは思う。

 会話がないせいか、イグナートの衣擦れや足音がやけに耳について、落ち着かないのだ。大聖堂へと戻る道はロイジェスの大通りをまっすぐに進んでいくため、周りの喧騒は決して小さな音ではなかったはずだが。

「…………」

 ルイネが盗み見るように隣を見やると、無表情な横顔がそこにあった。

 いつものあのうさんくさい笑みを浮かべない彼というのは、整いすぎた顔も相まってとても冷たい印象を受ける。

 イグナート司祭と知り合ってからはや十数日が過ぎて、少しは彼のことを分かったつもりだった。ルイネは彼の見たことのない表情に意外なものを感じながら、視線を戻した。

 イグナートはあまりにも人が良すぎる。

 笑う余裕がないほど疲れているのなら、用事など他の者に頼めば良かったのに。

 先ほど『ちょっとした用事』があって大聖堂からわざわざ降りてきたのだと言っていたが、彼には部下が大勢いるのだからなにも自ら動くことは無かったのだ。

 だがそう考えた途端、ルイネは何だかばつの悪い気分になっていた。

 彼には部下が大勢いるが、一番ものを頼みやすい人間は専任係のルイネだろう。

 出かける前に彼女が一言でも声をかけていれば、イグナートはここまで来る必要もなかったかもしれない。そして完全な休みとは呼べないものの、せっかくの非番とも言える日を無駄にすることもなかった。

 イグナートのことを苦手に思っているルイネでも、いちおう彼のことは、立派な司祭だと認めている。忙しい身の彼なのに、悪いことをしてしまったと後悔していた。

 だから“こんなこと”を思ったのだろうと、後にルイネは自分にそう言い聞かせる。もしくは騎士のエラルドがあんなことを言ったからだと。

 ルイネはその場に立ち止まった。数歩先を歩いたイグナートが、怪訝そうに振り返る。

「どうしたのルイネ」

「神父さま、ご用事はもうよろしいのですか」

「うん、心配はいらない。このまま大聖堂に戻ろうと思う」

「そうですか」

 少しだけ表情を和らげた彼を見て、ルイネは思わず言っていた。

「……少しだけお茶、しませんか?」

「え?」

 あまりに意外な申し出だったのか、イグナートは面食らったようだった。その表情を見て、少し選択を誤ったかもしれないとルイネは視線を泳がせた。




 先ほどとはべつの意味で、とても居心地が悪い。

 だが言い出したのは自分なのだから、今さらやめますだなんて言い出せない。

 ルイネはやや赤くなった顔で露店商へと硬貨を渡した。“顔見知り”の店主はわざとらしく小さく肩をすくめたが、ルイネは目を細めて彼を睨んだ。

「聖職者が買い食いとはね」

 隣のイグナートが小声でそう言うのを聞きながら、彼女が店主から交換するように受け取ったのは、焼きたてのパンにハムや野菜を挟んだものだ。

 それをひとつずつ両手に持ったルイネを見て、イグナートがまた小さく笑った。

「いまの格好、ファルナスにも見せてあげたいな」

「し、司教様は関係ないでしょう?」

 ルイネは恨むような目で彼を見やった。

「はやく受け取ってくださいな、神父さま」

 いまのイグナートはスータンを脱いで、ただのシャツとズボン姿だ。先ほど脱いでもらっていた。初春とも呼べるこの季節では彼の格好は少しだけ寒そうに見えたが、司祭服は市場をうろつくにはあまりにも目立ちすぎるのだ。

 それは彼女も同じことで、なるべく修道女に見えないように長い髪をゆったりとまとめている。肩掛けのような襟を取り払ってしまえば、地味なワンピースを着た娘に見えないこともない。

 ルイネから具を挟んだパンを受け取ったイグナートは、穏やかな顔をしていた。あんなに仏頂面だった司祭はどこにも居ない。

 あれは何だったのかと疑問に思いつつ、ルイネは「着いて来てください」と、前を歩いた。イグナートは一瞬だけ不思議そうな顔をしたが、すぐに後に続いた。

「いったいどこに連れて行ってくれるのかな」

「秘密の場所です」

 そう答えたルイネは亜麻色のやわらかな髪を風に遊ばせるせいか、普段の彼女よりもどこか幼く見えた。



   ◇



 ここです、と言って振りかえったルイネは入り口で固まっているイグナートをじっと見た。

「どうかしましたか?」

 どこか唖然とした様子のイグナートにルイネが少しだけ意地の悪い笑みを浮かべてやると、彼はたった今思い出したようになかへと進んだ。

 彼が戸惑うのも無理はなかった。ここは間違っても“お茶をする”場所ではなかったのだから。そこは森のような、それでいて普通の森ではない空間だった。あたりは不思議なほど静まりかえり、遠くのほうでかろうじて小鳥のさえずりが聴こえてくる。

 ルイネの秘密の場所だった。

「きみがこんな場所を知ってるだなんて、意外だね」

「そう仰るだろうと思っていました」

 苦笑したルイネは、躊躇いなくその場に座った。

 その背後には深く根付いた大樹が空に向かって枝葉を広げている。その隙間からこぼれた陽の光が彼女たちを淡く照らした。

 足もとを見おろしてみると、既に苔むしてしまっているが、地面に白い石肌のようなものが見え隠れする。もっとよく辺りを観察すれば、不自然に盛り上がった場所が倒れた石柱の跡だと分かるだろう。

 ルイネは足もとの石肌を軽くなぞりながら、隣に腰をおろした彼を見あげた。

「神父さまはご存じですか? ここは昔、遺跡の一部だったと記録にあります」

「リャジケイル」

「そうです」

 遺跡の名前をあっさりと言い当てたイグナートは、ここを知っているようだった。

 余所の都市から来たという彼だが、なぜここを知っているのだろう。それを疑問に思わないわけではなかったが、彼はきっと悪魔だから、知っていてもおかしくないものなのだ。言葉にはしないが、彼女はそう自分を納得させた。

 では、なぜ自分はその悪魔とこうして二人で居るのだろう。

 彼は立派な司祭だから。

 そう言い聞かせて誤魔化そうとしている自分に、ルイネは気づいていた。

「ここはわたしが小さな頃、よく友人と抜け出して来た場所なんです。リャジケイルは大陸に大きく広がる遺跡なので、こんな末端の場所は見向きもされないんですよ」

 そう言いながら、ルイネは先ほど買ったパンの端にかじりついた。あの店主は黙っていてくれたが、ルイネがかつてあの店の常連だったことは間違っても大聖堂の者には言えない。

 そして同じぐらい、彼女はこの場所の常連だった。

 ここには遺跡の謎を紐解くようなものは何もない。残っているのは風雨にさらされてかろうじて残った石柱と、そこに深く根を生やした大樹だけだった。

 幼い頃、よくひとりで孤児院や修道院を抜け出してはここに来た。

 この場所は人から忘れられた場所で、ここを訪れる者を出迎えるのは静かに木の葉が揺れる音だけだ。友人のアニカも何度かここに連れてきたことはあるが、本当のところ数えるほどしかない。

「なるほど、辛いときの逃げ場所だったわけか」

 イグナートが含んだような声音で言った。

「よく分かりましたね。同僚たちはみな、わたしが教会が好きで好きでたまらないと思っているようなのに」

 敬虔なるシスター。周囲の同僚からの評価はそのようなものだった。

 だがルイネ自身と、そして友人だけは知っている。ルイネは真面目な性格だと言えるが、決して我慢強いわけでもなく、弱音を吐かない人間ではないのだと。

「昔は相当な泣き虫だったんだってね」

「……さてはエミリオ先生ですね」

 苦い顔で言い返すと、イグナートがおかしそうに笑った。

 彼を人間じゃないのではと怪しむくせに、エミリオ先生ったら彼とそんな他愛ない会話はするのね、とルイネは内心ふて腐れた。後でエミリオに会ったら文句のひとつでも言わなければ気が済まない。彼の発言がどれほど彼女を振り回したのか、ぜひとも知ってもらわなくては。

 ひとり考え込んでしまったルイネを観察しながら、イグナートがふと口を開いた。

「ねえルイネ、どうして僕をここに連れてきたの?」

 視線をあげたルイネが見たのは、行儀悪くその場にあぐらをかいて、穏やかに微笑む彼だった。ルイネは一瞬どう応えていいのかと悩んでしまった。

「それはあなたが……」

 ……悪魔なのに。

 どうして放っておけないと思うのだろう。

「とても息苦しそうに見えたから」

 さあっと髪をさらう小さな風の向こうで、彼の青い瞳が意外そうに見開かれるのを見た。それを目の当たりにした途端、ルイネは自分は何を言っているのだと赤面することになった。

 息苦しそうで疲れているように見えたから、神聖なる職務を放りださせて彼をここまで連れてきた?

 それではまるで、自分のほうが彼をそそのかす悪魔のようではないか。

 顔を真っ赤にしたルイネは、慌ててイグナートに背を向けた。

 とてもじゃないが、まともに彼を見られる気がしない。ここが薄暗い場所で良かったと彼女は思った。きっと赤くなった顔を見られずに済んだだろう。

 背中のほうから、小さなため息を聞いた。

「よく分かったよ。きみは危機感どころか自分の価値も分かっていないんだとね」

「……エラルドのことを仰っているのですか、神父さま。あの騎士は特別です」

 特別おかしな男。

 エラルドは毎回、ルイネの冷たい反応を見て楽しんでいるだけなのだ。

 そういう意味で言ったつもりでも、イグナートに正しく伝わらなかったようだ。彼の声にはどこか刺々しいものが含まれていた。

「へえ、彼は特別なのか。彼のことは名前で呼ぶのに、未だに僕のことは“神父さま”だしね」

「それはだから」

 穏やかではない雰囲気に、ルイネは慌てた。

 まさか呼び方を咎められるとは思ってもみない。おかしな騎士と、有能な司祭を同列に並べることなんてできやしないのだから、年上の彼は察してくれるものだと思っていた。

 振りかえろうと身じろいだルイネだったが、ふいに彼女を包みこんだ何かに遮られる。驚きに脈がとんだ彼女が見たのは、間近に迫る艶やかな金髪と、晴れ渡る空のように青い瞳。

「せっかく探し当てても、きみはちっとも僕の思い通りにならないな」

「え?」

 それってどういう……。

 だがその思考の先は遮られた。

 ――え?

 驚いたルイネは瞬きをする。そうするうちに、今、彼が自分になにをしたのかすとんと心に落ちてくる。

 イグナートが。

 ルイネの頬に、くちづけた。

「な、な、」

 ルイネは顔を真っ赤にしながら、口もとをわななかせる。そして、

「――なにしてくれるんですかッ!?」

 乾いた小気味いい音が、あたりに響いた。




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