05
待っていてくれる? と、夢のなかの彼がささやく。
待っていると彼女は応える。
そして目覚める、いつもの夢。
◇
「……困りました」
ルイネは沈んだ気持ちで、胸もとのロザリオに目をおとしていた。中心に月のモチーフが飾られるそれは、セン・ルナーレ大聖堂が掲げるシェリフ教で使われるものだ。
困りました、そう、困っている。
イグナート神父は人ではないかもしれない。
そんな性質の悪い冗談が、未だに彼女を取り巻いている。
一度は『冗談だ』と一蹴できたはずなのに、どうしてまたこんな考えに囚われてしまったのか。
ルイネは鈍く光るそれを、そっと指でなぞった。金属製の十字架はひんやりと彼女の指を冷やすのだが、どうしたわけか今の彼女を責めているように思えてしまう。
貴女はそそのかされるのですか、と。
違う、とルイネは声なく呟く。
そそのかされたりしない。わたしは神に身を捧げると決めたのだから。そう思うこと事体が、彼女が心変わりしようとしていることを、ルイネは理解していなかった。
天使のような、全てを受け入れようとする美しい司祭。彼を人間だと思いつつも、ルイネは思う。
彼はきっと悪魔なのだ。だから、彼女が心を奪われかけたのも仕方がない。禍つ力がそうさせるのだと、ルイネは自分に言い聞かせる。
悪魔になんて魅入られてはいけない、もっとしっかり自分を持たなければ。だってルイネの心にあるのは、ただひとり――…
「ルイネ、どうしたの?」
「――え? あ、えっとすみません」
はっと我に返ったルイネは、慌てて呼びかける声に返事をした。すぐ間近に、不思議そうにこちらをのぞき込むイグナートの顔があって、ルイネは動揺して後ずさる。
そして彼がまだ普段着のスータンで居ることに気づいたルイネは、反射的に眉をひそめた。
「……神父さま、はやく着替えてくださいと申しましたのに。アルバ(祭服)はどこにやったのです?」
「ああ、そういえば忘れてきてしまったな」
顔を近づけただけで見事に狼狽えたルイネを見て、イグナートが楽しそうにくすくすと笑う。その背後では、助祭や他のシスター達が慌ただしく横切って行く。取りに行ってと頼める様子ではなさそうだった。
「ルイネが持ってきてくれると嬉しいな」
「あなた状況を見て言ってくださいな」
ルイネは伏し目がちに、呆れ返った。
いまは礼拝を控えた時間だった。
彼女たちが居る場所は、礼拝堂の横に設けられた控え室だ。
ルイネはつい先ほど、礼拝堂に蝋燭の火をともして戻ってきたところだったのだが、外にはいつも通り、大勢の信徒が集まっている。がやがやとした喧騒が扉一枚隔てた場所でもはっきりと聞こえてきた。
「まったく、予備を持ってきて正解でした」
子どもじゃないんだから、とルイネは暗に含ませた。
有能な司祭だというのに、彼はどこか抜けている。まさかワザとイグナートが祭服を忘れてきたのだとは思わない。
「きみなら持ってきてくれると思ったよ」
彼女の関心を引くことができ、イグナートは満足気に微笑んだ。
だが対するルイネは不機嫌だった。今日、彼が着る予定だった祭服は、新しく大聖堂に届いたばかりのものだったから。
アルバは形こそスータンによく似ているが、白を基調とした長い服。礼拝のときに着る、司祭の制服のようなものだ。
だが、今回イグナートが着るはずだったものは、その布地に金糸で刺繍が施される珍しい仕立てのものだった。予備の服をひろげたルイネは、ついあの見事な作りだった祭服を思い浮かべ、目の前の司祭に顔をしかめる。
「神父さま、次は必ずお忘れなきようお願いします。まったく、シェリフィーネさまのご厚意で贈られたものだと言いますのに」
最初に予定していた祭服は、シェリフ教の神子から贈られたものだった。
教会では階級によって使うことが許される色が決まっている。司祭のイグナートは黒。そして神子シェリフィーネの色は金。
金糸が施された祭服の価値を、イグナートは分かっているのかしら?
ルイネはどことなく乱暴な手つきで、祭服の上から黒のストールを首にかける。最後に首から十字架をかければ支度は整う。そこに居るのは、金糸のような髪の向こうで、空色の瞳に微笑みをたたえた司祭の姿。結局すべて彼女が、イグナートの準備をしてしまった。
「悪かったよルイネ。怒らないで」
そう言って少し反省したような顔になるイグナートだが、まったく悪いと思っていないのは見え見えだ。ルイネは微妙な顔で、司祭が掛ける十字架に目をおとした。
月の神ルナーレが彼女を見つめる。
ほら、そそのかされたりしない。この美しい神父を前にしても、ルイネは心ひとつ動かされない。そうでしょう?
黙した彼女の目の前に、ひょいと色鮮やかな黄色が飛び込む。
「――ッ!」
弾かれるように顔をあげると、黄のガーベラを一輪差し出すイグナートが居た。視線が合い、青の瞳が細められる。
「ようやく顔を見てくれた」
「ええと」
困惑ぎみに彼を見やるルイネに構わず、イグナートは彼女の手に花を握らせた。「やはり修道服には鮮やかな色がよく似合うね。とても可愛いよルイネ」
「あなた、花なんてどこから」
可愛いと言われて頬が熱くなるのを感じた。真っ赤な顔でルイネが言うと、イグナートは「魔法です」と、悪戯っぽく笑った。
「馬鹿いわないでください」
人間だ悪魔だと思った矢先に、冗談じゃない。
ルイネは受け取らされた花を見つめながら、そういえば今日は花束をもらっていなかったな、とも思っていた。いつの間にか、くだらないと思っていた司祭の行動が、ルイネのなかで“当たり前”になっている。彼はたやすくルイネの心に入り込む。
「……あなたが馬鹿な真似をなさるから」
わたしは悪魔に魅入られてしまう。
少しだけ泣きそうな気持ちになった。礼拝でイグナートの補佐をしなければいけないのに。
「アルバを忘れてきたことが?」
イグナートは吹き出すように言って、テーブルに置いてあった聖書をつかんだ。
「そんなに怒られるほどの大したことかな。どうせ普段着だってみな気にしないよ」
「神父さま、あなたの身なりは大聖堂そのものを表すのです」
やはり浮かない気分で、だがほんの少しだけ跳ねる鼓動を感じながら、ルイネは控え室と礼拝堂とを繋ぐ扉を静かに開いた。隔てをなくした彼女たちに、信徒たちのざわめきが押し寄せる。
「以前いらした教会とは違うことをご理解ください」
「確かに、前の教会はもっと小さかったからね」
「そうですか」
ルイネは短くそう応えて、手もとの花を握りしめた。
◇
「どうしたの、何だか元気がないわね」
顔を伏せがちにしているルイネをのぞき込んできたのは、アニカだった。ルイネはぎこちない動きで友人を見つめ返した。
「体調でも悪い? なんか顔が白いわよ。それにあんまり食べてないじゃない」
「ええ……」
ルイネはぼんやりと応えて、そっとスプーンを置いた。目の前には全く進まない夕食が置かれている。既に冷めかけてしまったスープも、パンも、いまは食べる気になれなかった。
もっと言うのなら、食事前の祈りの時間でさえ、ルイネは自分がどうしていたのか思い出せなかった。いつもならこんなふうに修道女としての習慣をないがしろにすることはありえない。そのことが少し、ショックでさえある。
でも、今は考えることがたくさんあった。こんなに落ち着かない気分になるのは初めてのことだ。
「あとで話があります、アニカ」
ルイネはようやくそれだけ言うと、修道女長に晩餐の退室を願い出た。
宿舎の自分のベッドに横になっていると、そっと扉が開かれる。アニカがこちらの様子を伺うように顔をのぞかせるのが見えた。
「そんなに警戒しなくても」と、思わずルイネは笑ってしまった。
「だってあんた、珍しく落ち込んでるんだもの」
彼女がそう言うのも無理はなかった。
ルイネは今どき真面目すぎる修道女と言えたが、めったに弱気になったことなどなかった。こうして友人を頼るのも、そういえばルイネとアニカが修道女になったばかりの頃以来だと、ルイネは思った。
「見てみて、ルイネ。こっそりパンをもらってきたわ」
そう言って部屋に入ってきたアニカが、得意げにハンカチから晩餐に出ていたパンをいくつか取り出した。
アニカがわざわざ残してきたものかと思ったが、どうやらルイネの様子に心配したらしい修道女たちが内緒で分けてくれたのだという。意外に周囲から気にかけられていることを知ったルイネだった。
「あんた、イグナート様が来てから頑張ってたものね。みんな分かってるのよ」
イグナート、その名前を聞いて胸のあたりがつきりと痛んだ。そんな自分の反応に驚き、ルイネは小さくかぶりを振った。
「明日、みなさんにお礼を言わなくては……でも修道女長にばれたら、怒られちゃいますね」
「馬鹿、あんたがちゃんと食べないからでしょ」アニカが笑う。「でもどきどきしたわ。孤児院からこっちに移ったばかりのころ、よくこんなふうにくすねてきたわよね」
「そういえばそうだったかも」
ルイネは懐かしい気分になる。
修道女になったのは、ルイネが七歳になったばかりのころ。
あの頃はまだ“見習い”という文字がひっついていたが、それでも他のシスターたちと同じような生活を送っていた。規則正しい敬虔な生活だったが、さすがに育ちざかりの身では質素な食事は足りなかった。
その度にアニカと厨房に忍び込んで、先輩シスターや助祭たちに見つかって怒られた気がする。そして彼女たちは小言をこぼしながらもパンの切れ端や小さな野菜を彼女たちに恵んでくれたのだ。
そしてその頃に、彼女は夢のなかの彼と――。
ルイネは彼女がもらってきたパンを手に、そんなことを思い出した。
「ずいぶんと昔のような気がします」
「あんたね。あんたも私も、まだ十七だっての」
呆れたようにアニカが言った。まだ十七歳、花も恥じらう乙女である。あの頃と比べて歳は重ねたが、ルイネもアニカも、今が一番美しい時期だ。
「それで、話って?」
こちらを見つめる友人の視線を見返し、ルイネは静かに切りだした。
「アニカ、神父は人ではないかもしれません」
「はあ?」
案の定、それを聞いたアニカは顔をしかめた。
「神父って……もしかして、イグナート様のことを言ってるの?」
ルイネは答える代わりに、手もとのパンを握りしめた。
パンは人の身体を表すもの。そしてその身に流れる血は真っ赤に滴る葡萄酒である。ルイネは人間。そして、きっとイグナートも人間に違いない。
「わたしだって、本気で信じたわけではありません。ですが、教会の聖職者名鑑に彼の名前がありました」
「そりゃあるでしょうよ」
「ですが三百年も前にです。普通ならありえません」
みょうに食い下がるルイネに、アニカが多少気圧され気味になる。そして少し案じるような顔で、彼女は言う。
「どうせ、同姓同名の司祭でしょうに」
呆れが混じった声。ルイネもそう思っている。
どうせ、ただの偶然だ。
そう思いたいのに、どうして自分はこんなにも頑なになっているのだろう。
「でももし、彼が悪魔か魔物だったらどうするのです? 取り返しがつきませんよ、神を愚弄することになります」
「ねえルイネ。あんたは頭が堅いのよ。あのイグナート様を見て、どこのだれが悪魔や魔物だって思うの」
アニカは苦笑した。
「それに、あのイグナート様が熱心に職務を果たしていらっしゃること……いちばん間近に見てるあんたが、よく分かってるんじゃない?」
「ええ」
分かっている。彼はひとりひとりに対し、熱心に耳を傾けるとても良い司祭だ。でも、ならばどうしてルイネは彼を悪魔だと思いたいのだろう。
その答えは簡単だ。
それが揺らぐ彼女に残された、予防線だから。
途方に暮れた様子の友人を見て、どうしたのかしらこの子は、とアニカが息をつくのがわかった。そしてしばらく考え込むような間があって、「あんた、もしかして」とアニカはぽつりと言った。
「あんたイグナート様のことが好きになった?」
「ええっ!?」
思っても見ない友人の言葉に、ルイネの声は裏返った。握っていたパンさえ放り出してしまうありさまに、アニカは一瞬面食らった後で笑い出した。
「ちょっと、ちょっと、あなた分かりやすすぎるわよ」
「ち、違います。わたしはそんなこと」
慌てて否定するルイネを前に、アニカは笑いすぎのせいで目じりに浮かんだ涙をぬぐった。「はいはい、悪かったって。私が悪うございました」
「もう、冗談ばっかり」
ルイネはふてくされた。そうして口をとがらせる友人に、アニカは聖母のような微笑みを浮かべる。
「ルイネ、あんたは氷のシスターなんかじゃないのよ。いい加減に分かってちょうだいな」
アニカは知っている。
彼女は男に興味がないのでも、男が嫌いなのでもない。すでに心のなかに誰かがいるのだ。
でも、一向に迎えに来ない相手を待っていてどうなるというの。
「嫌ってばかりいないで、あの方を信じてさしあげても良いんじゃない?」
贈られる花のように、素直に、純粋に。
アニカはちらりと窓辺に飾られた黄色の花に視線を向けた。いつもよりほんの少しだけ、大事そうに飾られた贈り物。
「それができたら……」ルイネはそっと窓辺をみやる。
大聖堂の尖閣から、ルナーレの像が彼女たちを見守っていた。
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