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04

「ああ、いたいた。シスター・ルイネ」

 と、声をかけられた某司祭の専任係――ルイネは、またかと思いながら振り返った。あともう少しで、修道院の掃除が終わるというときに。

「なんでしょう?」

「まあ嫌そうな顔ね、ルイネ。心配せずともイグナート様のことじゃありませんよ」

 相当嫌な顔をしていたのか、彼女を呼びとめた修道女はおかしそうに笑った。

 ルイネは思わず、ばつの悪い顔になる。かの司祭の専任だというのに、ルイネがイグナートを苦手にしているのが、こんなに広まっているのだと知る羽目になる。

 そんなに分かりやすかっただろうかと、心のうちで反省しながら、ルイネは同僚の修道女に向き直った。

「ではカーラさん、どうしたのですか?」

「エミリオ様があなたを呼んでいるの。保管庫に居たと思うから、行ってあげてくれないかしら」

「先生が?」

 ルイネは目を瞬いた。

 エミリオというのは助祭のひとりの名前だった。

 彼が呼んでいるだなんて、いったい何の用事だろう。確かに、助祭の彼とは備品管理の関係で時々話す機会があったのだが、いまは不足しているものは何もなかった気がするのだけど。

 まったく心当たりがなかったが、わざわざ呼んでいるというのだから急ぎだろう。ルイネは手にしていた拭き布を置いて、その保管庫へと向かった。



  ◇



 大聖堂の保管庫というのは地下にあった。

 薄暗い石の階段を下りて行くと、ひんやりとした空気がルイネの体を冷やしていった。壁に灯された明かりがゆらゆらと影をつくり揺れている。

 なんとなく恐ろしい心地がしたが、その先で帳簿を開いているエミリオの姿を見つけて、ルイネはほっと息をついた。

「先生どうしたのですか。わざわざ呼び出しだなんて」

「ああ来たか、イグナーシャ」

 彼はルイネへと振り返った。

 壮年の理知的な男だった。茶色の髪と瞳をして、そこに眼鏡をかけたエミリオは、ルイネが孤児院に居たときに読み書きを教えた教師でもある。その頃からのくせで、ルイネは彼を『先生』と呼んでいた。

 エミリオは掛けた眼鏡を押さえながらルイネを見やる。

「今ちょうど人名鑑を紐といてね。少し気になることがあったから、君の耳にも入れようと思って」

「わたしにですか」

 ルイネは首をかしげた。

 人名鑑というのは、在籍した聖職者の歴代のリストのことだった。新しくイグナート神父が赴任したため、資料や備品関係を担当する彼がリストを書き直していたのだろう。

 だが、それがルイネと何の関係が?

「イグナート神父のことなんだ。君は確か、神父専任の補佐をしてたと思うが」

 やはりと思いつつも、その名前を聞いた途端、苦い顔になるルイネだった。

 そんな彼女の珍しい表情に、エミリオは思わず苦笑する。孤児院に居た頃は――いや、問題の神父が来るまでは、お人よしのルイネはこんな表情など浮かべることはなかったのだ。

「君が彼を嫌っているというのは本当だったか」

「そういうわけでは」

 また顔に出てしまった、とルイネは自分の顔を両手で押さえつけた。

 修道女はいついかなるときでも、穏やかに笑みをたたえるべきなのに。生真面目なルイネは、それがシスターとしての美徳だと信じている。

「僕の教え子たちも、みな神父のことで騒いでいるというのに、さすがは君だね。噂はかねがね聞いていたが、苦労して泣いてるんじゃないかと思ったけど逆に安心したよ」

「エミリオ先生」

 咎めるようにルイネは言った。昔、彼女が相当な泣き虫だったことを言っているのだ。

「わたしはもう、そんな小さな子どもじゃないんですよ」

「まあ、君もある日ぱったり泣かなくなったっけね」

 恥ずかしい過去の話に、ルイネは恨むような目でエミリオを見た。

「それで、イグナート神父がどうかなされました?」

「ああ」

 エミリオは短く返して、彼女に帳簿を手渡した。

「見てごらん。ここと、ここのページ」

 そうして指で示された箇所にルイネは視線をすべらせる。

 この大聖堂は歴史が深い。年代順にずらりと並んだ聖職者のリストを見ながら、ルイネはそこに見知った名前があることに気づき、小さく息をのんだ。

「イグナート……?」

 ルイネは小さく呟いた。

 ジュスト・イグナート・ルビニエ。

 あの神父と同じ名前が、百年前に該当するページに載っている。それどころか、そのまたさらに前の三百年前に当たるページにも。

 ルイネは帳簿から顔をあげてエミリオを見た。

「偶然なのでは」

 これだけリストが連なれば、同じ名前もあるだろう。それにイグナートなんて洗礼名は、とくに珍しいわけでもない。

 だが、ルイネの考えをよそにエミリオの表情は明るくなかった。

「ううむ、だが名前も肩書きも同じなのが引っかかる。おまけに年齢も全て一緒だ」

「そう言いましても」

 確かにどのページの『イグナート』も司祭で、そして二十二歳。いまのジュスト・イグナート・ルビニエと全く同じだ。

 容姿についてこそ書かれてはいないものの、言われてみれば不思議な合致だった。

 だが、この膨大なリストからよくぞエミリオは気づいたものだ。そう言ってみると、彼は顎に手をやってルイネを見た。

「僕の祖母が、昔ここの修道女をしていてね。最近新しい司祭が来たと話したら、過去にもそんな司祭が居たという話を聞いて」

 だから彼は、なんとなく人名鑑を繰ったのだろう。それで発覚というわけか。

「でも考えすぎです、先生」

 ルイネは小さくかぶりを振った。

「まさか、彼が人ではないと言いたいのですか?」

「そういう可能性もあるのではと……今のところ、一番親しい君なら何か知っているのではと思って」

「いえ、何も知りません」

 ルイネは何も知らない。

 そう言いながらも、彼女は体から血の気が引くような思いだった。



 ――名前も肩書きも同じなのが引っかかる。おまけに年齢も全て一緒だ。

 石造りの回廊を歩きながら、彼女は悶々と考えこんでいた。馬鹿ばかしいと思いつつも、エミリオの話が頭から離れない。

 だがイグナート神父が、魔物か何かの類だというふうにも思えない。

 あの司祭には腹が立つことも多いが、ルイネの目にはどう見ても人間だ。実際に彼が『人間じゃない』という場面を見たわけではないのだし、早合点にもほどがある。

 でももしエミリオの話が本当なら、とんでもない話になるとルイネは思っていた。

 人ならざる者を聖職者に迎え入れたというのもあるが、それ以上にここはセン・レナール大聖堂――シェリフ教の総本山とも呼べる場所なのだ。

 修道女のルイネは実際に見たことはなかったが、この教会の奥には『ルナーレ神の娘』と呼ばれる神子が住まうのだと聞いている。聖職に就く彼女にとって、神子というのは途方もなく尊い存在だ。

 そんな御方がおられる清らかな場所に、魔物を入れたとなっては。

 ぼんやりと歩くルイネは、回廊の角を曲がったところで、誰か人に出くわした。

「きゃっ」

「おっと」

 意図せずぶつかってしまい、誰か男の人の腕に受け止められたルイネは、慌てて相手の顔を見やった。

「申し訳ありません、ミスター。大変な失礼を――」

 そこでルイネは固まった。

 他でもない、彼女を受け止めた男というのが、あのイグナート神父だったからだ。ルイネはみぞおちの辺りがきゅっと縮んだような感じがした。

「なんだルイネじゃないか」

 体裁を取り戻したルイネは真っ青になって彼を見あげたが、対するイグナートときたら、例のきらきらとした金髪を揺らして満面の笑顔である。書類片手に居ることから、おそらく司教か助祭にでも会いにいく途中だったのだろう。

「こんなところできみに会うとは運命的なものを感じるね。今朝からずっと会いたいと思っていたんだ」

 そりゃあ同じ大聖堂に仕えるんだから、どこかで会うでしょうよ!

 思わず顔を引きつらせたルイネだったが、今は彼に乗ってやるどころではなかった。

 先ほどエミリオに言われた言葉が頭のなかに渦巻いている。彼が人ではないかもという、恐ろしい疑惑。

 だが実際に本人を目の当たりにすると、どうしようもなく嘘だと思える。あれはきっと地下室だったから、薄暗い雰囲気にのまれそうになっていただけだ。

「やはり冗談です」

「ん?」

 イグナートが不思議そうに小首をかしげる。

 天使のような甘い容貌。そして性格には難はあれど、確実に仕事をこなす有能な司祭。こんなに優秀な人物をルイネは他に見たことがない。

「どうかしたの、ルイネ」

「な、なんでもありません」

 ルイネははっと我に返る。そして今考えていたことを思うと、自分が思ったよりも彼を認めているのだと自覚せずにはいられなかった。

 そして、その有能な彼が執心する相手が自分だなどと。

「ああイグナート神父。こちらにおられましたか」

 信徒らしき男がふいに声をかけてくる。なんでしょう、とイグナートが振り返った隙を見て、ルイネは彼から身を離した。

「失礼します」

 先ほどとは別の意味で蒼白になりながら、ルイネはその場を足早に去った。



.

誤字修正。

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