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03


「ああルイネ。待っていたよ」

 そう言って、やってきたルイネを満足気に迎え出たのは、今や見慣れてしまった司祭の姿だった。

 嬉しげに目を細める彼の、見事な金髪が淡い陽光にきらめいている。まるで天使のような姿だったが、ルイネは彼が悪魔にしか見えなかった。

 急ぎの書類があると言われてここまで小走りにやって来たルイネは、彼の『悩みなんて何もありません』という顔を見て、一気に疲れを覚えていた。

「あなた何故、部屋の前で待っているのです」

「きみに会いたくて仕方がなかった」

 平然とそういうことを言ってのけるのだから、困ってしまう。そんな暇があれば、さっさと書類仕事を片付けるか、礼拝の準備にでも取りかかって欲しいものだ。

 生真面目なルイネは、こちらに近づいてきた彼を無視して彼の執務机へと歩み寄る。そこにどさりと書類を置いて振り返った。そしてにっこりと笑った。

「追加の分です、神父さま。しっかりお仕事に励んでくださいませ」

「ルイネも手伝ってくれるのならね」

 彼は詰みあがった書類の山にひるむことなく、そう応えた。なかなか肝の据わった神父だった。

 内心むっとしたルイネは、書類をいくつかつかむと、

「わたしは手伝えませんよ、神父さま」とイグナートの胸に押しつけた。信徒たちから寄せられた相談ごとの類や、他の地域の教会からの報告書など。

「これはあなたの仕事です。そしてわたしにも、わたしの仕事があります」

「きみの仕事は僕を補佐することじゃないのかな」

 イグナートは穏やかに笑い、彼女に押し付けられた書類を受け取り――ながら、ルイネの手をそっと握った。それで一気に気分が悪くなるルイネだった。

「ええ、わたしはあなたの補佐係です。ですからあと四十五分後に」言いながら、ぎりりと彼の手をつねってやる。

「午前の礼拝の準備、お済ませになってお待ちくださいね。ちなみに午後からは聖歌隊との讃美歌の練習がありますから、必ずご出席くださいね。それと十四時からは午後の礼拝、そして十六時には隣街の司祭様が春の祭典についてご相談に来られますから、これも必ずお時間を空けておいてくださいますよう」

「みっちりだね。きみと居る時間も増える」

 ひと息に『本日の予定』を告げたルイネにも動じることなく、司祭はふざけたことを言ってのけた。あなたね、と突っかからなかっただけ、ルイネは実に真面目な修道女だと言えた。

「申し訳ありませんが、わたしが補佐につけるのは午前中だけです。午後からは孤児院に向かねばなりません」

「ええ、それはないよイグナーシャ」

「……ちょっと。洗礼名は呼ばないでくださいませ、神父さま」

 頼むからルイネと呼べと、そう言ったことを忘れているのかこの司祭は。

 いや、確信犯に違いなかった。口の端を引きつらせたルイネに構わず、イグナートは追い打ちをかける。

「イグナート神父って呼んで。ああ、でもそうするとなんだかペアルックみたいで恥ずかしいね」

 わたしはあなたの頭が恥ずかしいです。

 彼の相手をしていると、どっと疲れる。

 次こそは絶対に、彼の呼び出しを断って見せると心に誓うルイネだった。



  ◇



「しっかし、イグナート様って本当に仕事の出来るお方よね」

 ――バキッ。

 あの憎き名前を聞いて、ルイネは思わず手にしていた編み針をまっぷたつに折ってしまった。割れた編み針のところから、編んでいた靴下がほどけていく。

「イグナート……ですって……?」

「え、うん」

 低い声で某司祭の名を呟いたルイネに、何気ない表情で友人が応える。他意はないのだとルイネにも分かる。だけど、どいつもこいつも口を開けばイグナート、イグナートと……!

 ルイネは未だに黄色い声で色めきだっている修道女たちを思い浮かべた。

 まあ気持ちが分からないわけではない。確かに、イグナートは見た目が天使のように優れた容姿だ。ファルナスと並ぶ姿はそりゃあもう神々しいの一言だ。だが、そういうのは、ルイネにとって何の意味も持たないというだけで。

「あの方のお名前は、もう聞き飽きました」

 ルイネは彼女に向かって、にこりと笑った。

「ねえアニカ、わたしの前ではその名は口にしないでくださいね」

「え? あ、う、うん」

 これ以上なく怒り心頭のルイネを、戸惑いがちに見やるアニカだった。

「あんた、イ…………なにかあった?」

 思わず『イグナート様』と言いかけたアニカだが、すんでのところで言いとどめた。だが質問自体が地雷だったのか、ルイネは険を深めて二本目となる編み針を折ってしまった。

「何もありません。今のところは仕事も滞りなく大聖堂も安泰です」

「あんたの顔は安泰じゃないけどね」

「言わないでください」

 ルイネは息をついて、編みかけの靴下を放り出した。

 集中力が続かなかった。こんな状態では編み物なんてできそうにない。編み針がいくつあっても足りなさそうだ。

 それに、こんな邪心まみれで子どもたちに贈り物を編むなどというのはしたくなかった。

 やや途方に暮れながら部屋のなかに目をくばせると、瑞々しい花々の類がルイネの視界に飛び込んでくる。

 イグナートが毎日毎日、飽きもせずルイネに贈り続ける花々だった。

 最近は彼も思うところがあったのか、綺麗な桃色のガーベラを一輪だとか、窓辺に飾れる鉢植えだとか、色々と工夫をこらしてくる。その意欲をもっと、別のところに注いで欲しいと思うルイネだったが、実際のイグナートは友人のアニカが言うとおり、既に『仕事の出来る司祭』である。

 いっそのこと、もっと欠点だらけの人だったら良かったのに!

 そうしたらルイネは心置きなくネチネチと嫌味のひとつぐらい言ってやれただろう。そこまで思って、ルイネは「うう……」と小さく呻いた。

 修道女らしからぬ自分に、ルイネは頭をかかえこむ。今の彼女は、まるで悪魔にそそのかされそうになっている愚かな小娘だ。

「どうしたら良いのでしょう、アニカ。わたしいつか、あの方をひっぱたいてしまいそうです」

「ひっぱたいたら、それはそれで喜びそうよね」

「それは困ります」

 ルイネは即答した。

「あの方の顔に跡が残ってしまえば、信徒の方々に何事かと思われるじゃありませんか。司祭の威厳は教会の威厳です。今や毎日のように、礼拝に出ているのですから、イ……神父さまには体裁を保っていただかないと」

 イグナート、とは決して口にしようとしない友人に、アニカは笑った。

「ファルナス様も仕事が減ってほっとしてるでしょうねえ」

 これまで、このセン・レナール大聖堂には司教と司祭がひとりずつしか居なかったのだから。

 助祭は二人そろっているが、助祭に礼拝は務まらない。そしてルイネたち修道女にも、実は教会の管理以外には出来ることは少なかった。

 そう考えるとイグナートは貴重な人員だとも言えたし、そしてそれ以上に彼は有能だった。赴任して間もないというにも関わらず、彼は信徒や同じ聖職者たちへの依頼や相談ごとにもきちんと対応している。

 あとは、ルイネへの執心さえなければ完璧だが。

 惜しい男だとアニカは内心苦笑していた。彼も不必要にルイネに構わなければ、ぞんざいにあしらわれることはないというのに。ルイネは基本的に、誰にでも親切丁寧なシスターなのだ。

 そしてその親切丁寧なシスターは、今は某司祭のことでひどく悩んだ顔をしている。

「ええ。ですから」

 言葉を切ったルイネを、アニカは不思議そうにのぞき込む。

「ですから?」

「あの方の顔を叩かない方法を、一緒に考えてください……」

 アニカが笑ったのも無理はなかった。




 司祭という身分は、修道女にとってははるか上の存在だ。

 さらにその上をいくのが司教だったが、ルイネにとっては司教のほうが親しみやすい。ファルナス司教も、彼女のことを特別に可愛がるふしがある。

 でも、だからといって司教や司祭を軽んじていいということには決してならない。

「そもそも、手をあげて良い相手ではないのです」

 ルイネは悩ましげに、こめかみを押さえながらそう言った。

 いまは消灯時間を終えて、各々あてがわれた寝室で就寝前の準備をしているところだ。すでに寝間着の貫頭衣に着替えたルイネは、同じ格好の同室者――アニカと、先輩修道女のクラリッサを前にしていた。

「いっそ担当を外してもらうのはどうなの?」

 そう訊ねたのは、クラリッサだった。

 司教、そして司祭の助けになるべく修道女が、彼らに逆らうなどもってのほか。

 それは神に仕える者として、という意味もあったが、社会的にみても教会の顔とも呼べる御方に歯向かえば、その身を潰すことになるだろう。だからそうなる前に、こちらから身を引くべきだ。

「シスター、それは何度も考えたのです」と、憂鬱な顔でルイネは返した。

 そう、何度も考えたのだ。そして何度もファルナスに嘆願した。

 だが一向にファルナスは首を縦にはふらず、せいぜい「私からも言っとくから」としか言われない。あの司祭が、言ってどうにかなるタマか!

 ルイネも、ファルナスが大聖堂の最高責任者として、“わざわざ来てもらった”有能司祭を前に強く出られないというのは分かっている。

 だが、それでも現状どうにかしてもらわなければルイネの身がもちそうにない。

「そもそも、何故わたしなのです?」

 自分を慰めるように、ルイネは呟く。

 もっと可愛らしい修道女も居れば、信徒も居る。何故、敢えてそこでルイネを選ぶのか。彼女には【氷のシスター】という皮肉めいた二つ名もあるというのに。

 そりゃあ、昔よりは規律もだいぶ緩くはなった。

 生涯独身でいなければいけないシスターも、可愛い恋愛ぐらいなら許しても良かろうという世の中だ。端正な顔立ちの彼には、応じる者も大勢いることだろう。

 だがルイネは神にこの身を捧げると決めたのだ。生涯、恋愛なんてするものか。なのに、あのふざけた司祭ときたら調子のいい。

「ルイネ、恐い顔になってるわよ」と、クラリッサが苦笑した。

「祈りの時間にそんな表情はもってのほかよ。ルナーレ神が驚くわ」

「そ、そうですね……」

 はっとしたルイネは、ばつの悪い気持ちになる。就寝前の祈りの時間だというのに、自分はいったい何を考えているの。肩をおとした後輩を見て、クラリッサは肩をすくめる。隣のアニカも小首をかしげた。

「まあ、そのうちなんとかなるわよ。神は私達を見ていらっしゃるわ」

「はい」

 ルイネは弱々しくうなずいた。

 そんな眉じりをさげた友人を見て、アニカは「神父とシスターか。神はどっちの味方をするのかしら」と小さく呟くのだった。




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