01
ずっと前から恋をしていた。
いつの間にか繰り返して見る、夢のなかの彼の姿に。
だから恋なんて絶対にしない。
だってわたしは、彼を愛しているのだから。
◇・◇・◇ 月の見える教会で ◇・◇・◇
こんなに大きな花束を渡されるのは、人生で初めてのことだった。
そしてそれを渡してきた人物が、見知らぬ初対面の神父だということも、ルイネにとっては生まれて初めてのことだった。なのに彼は、それを彼女が受け取るのが当然だと思っているような態度で、花束にのばされる手を待っている。
「何でしょうか、これ」
ルイネは思わず、怪訝な顔で訊ねていた。
自分の上半身よりも大きそうな花束を前に、彼女がそう言ってしまったのも無理はない。なんせルイネは、目の前の男とは全く面識がないのだから。
「花束です。きみに」
「そんなことは見れば分かります」
だからつい、声が冷たくなる。
その目の前には、余裕そうに笑みを浮かべた男がひとり。みごとな金髪を風に揺らした、碧眼の青年。顔立ちは整っていて、女の子にもてそうだ。
ただそれだけなら、男嫌いで通しているルイネは、彼をあっさりと無視して終わりだっただろう。だが、彼女は青年を無視することができなかった。
「まさか新しく赴任してくる神父が、あなたとは……」
ルイネは頭が痛かった。
セン・ルナーレ大聖堂に仕える修道女として、ファルナス司教から『イグナート神父を迎えに行って欲しい』と頼まれたのは記憶に新しい。今日から新しく、その神父は大聖堂の司祭として着任する手はずになっていた。神父はそれなりに有名で、有能な人だと聞いていたルイネは、てっきりそのイグナートというのは老年の司祭だと思っていたのだ。
だがまさか、こんなに若い青年だとは思ってもみない。あげく、こんなにふざけた神父だとは!
大聖堂の正門前で完全にしらけてしまったルイネは、大きな花束に顔をうずめて笑う神父をじろっと見やる。
「あ、うさんくさいって顔だね」
甘い顔立ちのきれいな顔がこちらを見かえす。
「でも僕はれっきとした司祭だよ。ジュスト・イグナート・ルビニエは間違いなく僕のことだ」
イグナートは黒のスータンを着こんでいる。
首から足もとまですっぽりと包みこむ修道服だ。これを着ることが許されるのは司祭だけ。だから確かに、彼は司祭なのだろうけれど。
「僕の名前が分かったところで、きみのも教えてほしいな」
「……ルイネです」
しぶしぶ名乗ってやると、イグナートは「名前だけ?」と小首をかしげる。
「そうですよ。わたしは元孤児なので、姓名がありません」
「いや、そうじゃなくって」
イグナートは青い瞳で彼女をじっと見つめる。
「洗礼名、あるでしょう。僕にも教えて」
「なんであなたに」
「だって僕、今日からきみの上司じゃないの?」
こ、この男……。
ルイネは眉間を押さえて考えこんだ。こんなやつに、洗礼名を教えたくない。
それは彼女が男嫌いで、なおかつこの神父が突拍子もない変人だというだけが理由ではない。
彼はイグナート神父。
そして彼女は、
「……イグナーシャです」
「なるほど、今はイグナ繋がりというわけだ」
案の定、ルイネの洗礼名を聞いたイグナートはおかしそうに笑った。だから言いたくなかったのに。
「お願いですから、ルイネと呼んでくださいね」
「ではルイネ。今日からよろしくお願いします」
イグナートはそう言うと、ルイネの腕に大きな花束を押しつけた。
◇
「どうしたの、その花。どこかで結婚式でもあった?」
修道院に戻るなり、友人にそう訊ねられたルイネはむっつりとした顔で花束をつきだした。
「アニカ。あなたにあげます、これ」
「要らないわよ。そんなどこやったら良いか分からないもの」
当然だが断られる。
そうだ、普通の反応はこれだ。なのにあの神父、こんなに派手な花束をルイネに押し付けて、さっさと司祭室に向かってしまうとは何事だ。
ルイネは、どうしようもなく腕にずっしりと重さを誇る花束に目をおとした。そうしながら不貞腐れていた。彼女が腕に抱える花束のことを、すれ違う修道女たちに何度も何度も訊かれ続けたせいというのもあるが。
「それよりルイネ、あなたイグナート様とは会えたの?」
仏頂面のルイネに、アニカが興味津々といった表情で詰めよった。イグナートのことを聞きたくて仕方がないといった様子だ。
こんなふうなのは、アニカだけではなかった。今日はこの大聖堂のみなが、新しい神父のことで色めきだっている。
何しろイグナート神父という人物は、類まれなる聖術の使い手であり、そしてここに来る前は別の教会で司教として仕えていたというのだから。セン・レナール大聖堂は王都にあるため、彼も少し身分を落とさなくてはいけなかったのが残念なことだ。
「会えましたよ。ええ、会えましたとも」
「その割には苛々してるわね、ルイネ」不思議そうにアニカが言った。「あんた、今日からイグナート様付きの世話係になるんでしょう? そんなので大丈夫なの」
大丈夫じゃない、と言えたらどんなに良いか。
ルイネが不機嫌な理由はそこにあった。本日付けで、彼女はイグナート司祭専任の世話係となっていたのだ。この大聖堂に仕えて十年以上になるルイネである、この大聖堂のことならほとんどなんでも知っている。だから新しい司祭の専任になることは、みなが賛成したことだった。
今朝まではルイネも、自分もそこまでの仕事を任されるようになったのだと喜んでいたものだが、当の神父を見た今となっては、実に苦々しい話だった。
だが、この大聖堂のトップであるファルナス司教直々の命である。無下に断ることもできなかった。
ルイネは友人に返事をする代わりに、傍にあったテーブルに花束をばさりを置いた。いささか乱暴に扱われた花々から、その香りがふわりと広がる。
「しっかし、豪勢な花束ねえ」
置かれた花々を前に、アニカが感嘆の息をつく。
「マーガレットにチューリップ、ペチュニア、ゼラニウム、それからユリズイセン? あとは分かんないわ」
とにかく種類がいっぱいということだけは分かる。
ルイネは彼女の暗唱を聞きながら、乱暴に花のつつみを紐といた。いくら彼女がもらったからといって、自室に飾るのはしゃくなので、大聖堂のどこかにでも飾ろうと思ったのだ。
「ちなみにこれ、誰からもらったの?」
「教えません」
ルイネはきっぱりと言い切った。そのあまりの頑なさから、アニカは何か思い当たったようだ。
「もしかして、イグナート様から?」
「だ、だから教えないって!」
慌てた表情で振り返ったルイネに、アニカはにやりと笑みを浮かべる。
「ふむふむ、神父様もやるじゃない。赴任早々、【氷のシスター】を口説くだなんて」
「ちょっと、失礼なこと言わないでください。わたしは別に」
「あら、誰もあんたのことだって言ってないわよ、ねえシスター?」
アニカは得意げに言いながら、同じ部屋のなかにいた別の修道女に話しかける。そこに居たのは彼女たちの先輩にあたるクラリッサという女の人だ。彼女もトゥニカ(修道服)を身につけている。
クラリッサは窓枠を拭く手を止めると、あきれたようにルイネたちへと振りかえった。
「あなた達、いつまでもしゃべってないで掃除を再開しなさい。いま何時だと思ってるの?」
いまは大聖堂の掃除の時間だ。
ルイネたちの担当はこの修道院全体となっているが、ルイネは某神父のお迎えに使わされ、そしてアニカはルイネの帰りを今か今かと待っていた様子。然として掃除の進まない事実に、クラリッサもまた苛々としていた。
両腰に手をあてながら目をすがめるクラリッサに、アニカは首をすくめてみせる。
「だってシスター、彼女こんな大きな花束を持って帰ってきたのよ? しかもイグナート様にもらったって言うじゃない。気になりません?」
「だから、言ってないってば。勝手に決めないでください」
思わずルイネは口をはさむが、二人はまるで聞いていなかった。
「ふうん、氷のルイネを口説くとは相当なやり手ね」
「でしょう」
「ちょっとあなたたち……」ルイネは思わず脱力した。
氷のシスター。
まったく男になびかない、至極マジメな修道女。またの名をルイネ・イグナーシャともいう。
その不本意なあだ名は、ルイネが成人した頃からのものだった。いまは十七を迎えた彼女だったが、未だに恋のひとつもしたことがないのは周知の事実だ。
「修道女が、恋愛だなんてありえません!」
ルイネは力いっぱい、マーガレットの長すぎる茎を切り落とした。あまりに鬼気迫る顔をしているものだから、切りハサミが、まるで鋭い凶器のように見えてくる。そんな光景を前に、アニカとクラリッサはお互いに顔を見合わせた。
「今どき恋愛禁止だなんて、流行らないわよね」
「ね、シスター」
そんなぼやきも、ルイネの耳には届かなかった。
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