第12話 予兆Ⅱ
お待たせました。一か月ぶりですね
諒と咲耶が昼食を食べた桜の木の下へ戻ると、明美と共に逃げた敦や和樹に担任の綾子、寮長の葉子が逃げる支度を整えて二人を待っていた。その傍らでは、明美が幼い男の子の手当をしている。諒がみると、左腕に火傷の跡があるようだった。
「みんな、大丈夫?」
そう彼らに無事を確かめる咲耶は、万が一の自体に対応出来るように炎のマフラーを纏ったままの姿でいた。諒は奪った刀に纏わせていた炎を消して、刃先を彼らに向けないようにして構える。
彼女の問いに、綾子が答えた。
「こっちは大丈夫。今のところ、霊も襲ってきてないよ。私や葉子先生の方で、警察や消防署に連絡してあるから――あと1分くらいでくると思う。こっちに逃げてきた人も、あの橋にみんなで誘導したから――今のところ問題はないかな」
綾子が言う橋は、城跡の西に位置する朱色のコンクリート造りの橋のことだ。西は石垣が積まれており、そこから橋が伸びている。下は市役所の傍の交差点へ繋がる道路があり、その上をアーチ状に橋がかけられていた。その先には、大館城の三の丸跡があるが面影はなく、住宅街となっている。
「そう――よかった……」
咲耶は綾子の説明を聞くと、安堵の溜め息をついた。そしてふと、彼女の様子を窺っていた諒に顔を向け、百合のように白い頬を紅潮させて微笑む。
「咲耶――」
彼の頭の中に、先月の事件の際に咲耶が逢沢希に言ったことがよぎった。
「諒……。あたし、守れたんだよね。ここにいた人たち……」
紅潮した顔のまま、咲耶は明美が手当している男の子の方に視線を移しながら呟く。その言葉は、どこか噛み締めているようにも感じられる。
――諒と一緒にたくさんの人を助けたい、護りたい――
ひと月前のあの言葉を思い出しながら、諒は「ああ」と静かに頷いて咲耶の右肩に自身の左手をそっと置いた。
「――おい! 諒!! 危ないぞ!」
レジャー椅子を、松葉杖をつきながらたたんで二人の様子を横目で見ていた和樹が何かに気付き、諒たちに向かって声を上げる。
はっとして顔を上げると、先ほどとは違う瘴気を纏った犬の悪霊が左から二人に襲いかかろうとして、飛び上がっていた。
「くっ――!?」
とっさのことに肩から手を話して身をそちらに翻し、諒は炎を纏わせていないボロボロの刀で咲耶と自身を守るため防御の姿勢で受け止めようとする。今度の犬はよく見ると、がっしりとした体格の秋田犬の姿をしており、剥かれている牙は鋭利に尖っていた。
犬の牙が、諒の持つ刀の刃をがっしりと捉える。その瞬間、刃の全体に一気にヒビが伝わっていく。諒が思っていた以上の顎の力とそれを伝える牙による負荷に、男の悪霊から奪った古い刀が耐え切れなくなったらしい。次の瞬きを終えたころには、諒と咲耶の目の前で呆気なく砕け散っていた。
「――くそっ……!!」
眉間に皺を寄せて歯ぎしりをし、険しい顔つきになる諒のすぐ目の前に牙が迫る。犬の牙が諒の喉笛を捉えようとした瞬間、犬の身体が虚空に打ち上げられていた。
はっとして傍らを見ると、拳を真上に振り上げた咲耶の姿があった。炎のマフラーを纏った彼女の振り上げられた右手には、同じ炎が纏われて燃え盛っている。彼女の「ヒート・ハンマー」によるものだと諒が理解するのに、それほどの時間は必要なかった。
「ヒート・ブラスト!!」
振り上げた拳を開いてそのまま空中の秋田犬の悪霊へと向けると、咲耶の掌から32発の炎の弾丸が放たれる。
炎の弾が途切れるまで次々と犬の身体に打ち付けると、その身体は地面に向かって落下しながら消えていった。僅か20秒の出来事で、犬の悪霊はなす術もなかったようだ。最後は、完全に気を失った状態で咲耶によって撃破されたのだった。地面には、何かの燃えかすのような黒焦げのものがひらひらと舞い落ちる。
「はあっ、はぁっ……。だ、大丈夫? 諒」
悪霊を倒したことを確認すると、咲耶は吐き出すかのように膝に手を付いて肩で息をすながら無事を確認する。
「あ、ああ――」
諒の目の前で起こったことに呆気を取られ、彼は開いた口が塞がらなくなっていた。彼の近くにいた和樹たちも、驚いた表情を見せている。
咲耶が息を整えて身体を起こすと、諒たちの表情を見て不思議そうな顔になる。
「ど、どうしたの? みんな――」
「ああ、いや――。今まで見たことがないくらいの速さの『ヒート・ブラスト』だったからびっくりして……」
諒の言葉に咲耶ははっとしてつい先ほどのことを思い返すと、今度は彼女自身が驚いた表情を作っていた。
「あ、あたし――。つい夢中で……」
「契約する前ほどじゃなかったけど――それでも確実に速かった……」
戸惑う咲耶に、諒は初めて彼女の炎の弾を受けたときのことを思い返す。悪霊でオーバーSランクだった頃の彼女の弾は、一発一発が重い上に速いものだった。しかし、契約してからはランクが下がったこともあって、威力も弾速も以前より低下していたはずだった。先ほどのものは、威力自体は契約霊としてA+ランクになってから変わらないものの弾速については契約前に迫るものがあった。
「あっ――み、みんなもビックリさせてごめん――」
咲耶を見ていた和樹たちに気付き、彼女はそちらに対しても声をかける。慌てた様子の彼女に、和樹はひらひらと手を振って言葉を返した。
「大丈夫、大丈夫――。まぁ、俺も咲耶ちゃんの弾は見てるし……。綾ちゃんたちはどう?」
そう言って、和樹はぽかんと口を開けている綾子たちの方に顔を向けた。
パトロールカーや消防車、救急車のサイレン音が辺りに鳴り響いて諒たちのいる桂城公園に近づいてくる。
けたたましい音に、声が通らないと判断した綾子や明美たちは三者三様の反応で、苦笑いを交ぜつつも取りあえずのところは問題ないという意思表示をした。しかし、その表情にはどこか戸惑いのような色も見て取ることが出来た。
市役所がある方から公園内に救急車や消防車が乗り込むと、けが人運んだり消火作業が行われたりと、辺りは一層騒がしくなる。桂城公園周辺では警察が規制線を引き、敷地内では火災が起こっている場所を避けて対霊対策室の霊術師たちが、辺りの見回りを行っている。
明美は、彼女が手当てしていた男の子に付き添って救急車の方へと向かっていた。諒がその直前に男の子を見たときには、明美の回復霊術の効果もあって傷口はほとんど塞がっていた。どうやら、病院までは運ばれずにその場で簡単な手当てをすることになるらしい。
和樹や綾子などの他のメンバーは、警察や対策室に促される形で公園を後にすることとなる。
一方で、諒と咲耶は悪霊数体と直に戦ったこともあってか対策室による事情聴取がその場で行われることとなった。
「――まず、君たちの名前と住んでるところを教えてもらっていいかい?」
一人の若い男性の霊術師が二人の前にたち、メモ帳を片手に問いかけてくる。
「藤堂諒、霊術学院の大館分校第1学生寮に住んでいます」
「あたしは中島咲耶で、同じく第1学生寮です」
男性は聞きながら、すらすらとメモをとっていく。ふと、気がついたように顔を上げて再び質問をしてきた。
「――あそこの学生か――。何年生?」
「自分も咲耶も、3年生になります」
諒が答えると、男性はそのこともメモに追記した。
「ええっと――騒ぎが起こったときのことを聞かせてくれるかい?」
その質問に、諒は身振り手振りでその時の状況を説明する。悲鳴と共に火事が起こっていたことや燃えていた露店のこと、悪霊と戦ったことやなどを話した。その間、男性は黙って話を聞いて頷きながら、目を配らせつつメモをとっていった。
「うん――。それじゃあ、次。悪霊と戦ってたとき、何か変わったことはなかったかい?」
「変わったこと――」
男性の質問に、諒は何があったのだろうと考え込む。悪霊の気配は火事が起きる前には無かったように思われるが、一体どこから現れたのだろうかという疑問にたどり着く。しかし、戦っている途中でそれに関するようなことを諒は気付いていなかった。
「そういえば――」
彼の隣で、男性の質問を聞いていた咲耶が唐突に何か思い出したかのように声をあげる。先程まで考え込んでいた諒は、彼女の声に驚いて無意識にそちらを見やった。男性の霊術師も、咲耶の方に視線を変えてメモをとる準備をしている。
「さっき諒を助けて犬の霊を倒したときに、空中で消えたと思ったら何か燃えかすのような物が落ちてきたんです」
そう言って、咲耶は犬の霊を倒した場所に視線を見つめる。諒たちがいるところから、数歩程度のところだ。諒は、自分の身が危険に晒されていたことからそのような物があったことに気がついてさえいなかった。
「へぇ――?」
メモをとる彼を横目に、諒もそちらの方を見やる。
何かがその場所に落ちていることに気がつき、諒はそれに向かって目をよく凝らし見てみた。
視線の先には、何かが黒く焦げたような物が落ちていた。
「すみません、あれって何ですかね――?」
違和感を覚えて、諒は男性に声をかける。諒たちが居た場所は露店からそう遠く離れてはいないが、火事の被害は何とか免れている。彼らのいた所では燃えていた物はなかったにも関わらず、その黒焦げた何かだけが不自然にその場に落ちていた。
諒に言われてそちらを見てみた彼も違和感を覚えたらしく、メモ帳にしおりを挟んで一旦ポケットへしまうと、そちらの方へと近づいていく。諒と咲耶も、後から遅れて黒焦げた物に近づいてみる。
「これって――何かの札?」
黒焦げの物の傍に近づくと、咲耶はそれをみてポツリと呟く。諒もそれを見てみると、黒焦げになったそれは、札のような形をしている。焼けたためか、ところどころ欠けたり丸まっていたりしており、遠目には分り難い。
男性の霊術師はしゃがみ込むとポケットから白い手袋出してはめ、同じく取り出したチャック付きのポリ袋の封を開ける。慎重に黒く焦げた札のような物を右手の掌の上に乗せて観察するや否や、今度はポリ袋の中に入れて封を閉じた。
手袋を外してポケットにしまうと、男性はポリ袋を持ったまま諒と咲耶の前で立ち上がって、二人に視線を合わせた。
「これは――霊術札だね。ただ、これはちょっと見たことがないね――」
「――と言うと?」
首を捻って黒焦げの札を見つめる男性に、諒は尋ねてみる。
「この手の霊術札は見たことがないんだ。霊術師が使ってる霊術札よりも一回り大きいし――よく見ると、『召』って字が書かれているんだよ。ほら、この札の真ん中よりちょっと外れたとこに」
そう言って、男性はポリ袋越しにその札を二人に見せる。諒と咲耶は、促されるままに顔を札に近づけてよく観察してみる。
「ほんとに書いてある――」
彼の言う文字を見つけ、咲耶は驚きの声を漏らす。諒もよくよく見てみると、そこには確かに「召」の字が書いてあった。そして、確かに諒が知る限りの霊術札の中でも一回り大きいように思われる。
「新しい霊術札――? さっきの悪霊と関係があるんでしょうか――」
諒は札から顔を放すと、それを持った男性に尋ねてみる。
「まぁ、そう考えた方が自然だろうね――。これは、対策室の方で預からせてもらうよ。何か分かれば、寮の方に連絡を入れさせてもらうけど――いいかな?」
「お願いします」
男性の確認に、諒は一も二もなく頷く。「召」の字がどことなく心の中で引っかかっていたが、それが何に関係するのか今の諒には答えの出しようが無かった。この文字を実際に見たわけではないが、それに関わることを何らかの形で見たことがあったかのようにも思われたが、それが何かは思い出せない。
一通り事情聴取を終えると諒と咲耶も変えることとなり、二人は男性に一礼すると火事の現場を避けて、市民体育館の方から桂城公園を出ることにした。
歩いている途中、対策室の霊術師によって諒と同年代くらいの少年少女が6人ほど連行されていく様子が見える。別れ際に先ほどの男性の霊術師から受けた説明によると、不審な行動をしていたことや今回の事件に何らかの関わりがあると見られているためとのことだった。
「それにしても、何でこんな所で――」
彼らの様子を見ながら諒の傍らを歩く咲耶は、疑問を口にする。この桂城公園は、大館市役所の裏手に位置する。おまけに、その近くには対霊対策室の大館管区庁舎が置かれている。もし彼らが今回の事を起こしたのなら、何故すぐに対策室に駆けつけられるこの場所なのか、不思議に思うのも当然のことだった。
「これは多分だけど――この場所に関係があるんじゃないかな」
諒は、先ほど倒した悪霊たちを思い返しながら呟いた。咲耶は無言のまま、その先を促
「昔のこの土地には大館城があったんだけど、明治時代の初めごろの戊辰戦争のときにこの一帯は戦場になってたんだ。大館城はその頃に消失したらしくって――その時死んだ人や動物の霊が集まりやすいっていうのを聞いたことがあるな。多分、そのあたりに関係してるんじゃないかと思う」
「ふぅん……。それじゃあ、あのでっかい獲物振り回してたアレも?」
分かったような分からなかったようなという曖昧な表情で頷きながら、咲耶は諒に尋ねてみた。
「ははは――。流石に、あんな得物を振り回す人が当時いたとは思えないな――」
あの霊の姿を思い出し、背筋が凍るような思いになりつつも諒は苦い笑いを浮かべていた。
考えられるとするならば、恨みを募らせた悪霊が想いの強さから新たな力を身に着けたり姿かたちが変わったりしたことによるものだろう。そういった例は、決して少なくはない。そのことを話すと、咲耶は納得した顔になる。
「そういえば、あたしも死んじゃう前はこんな力は使えなかったっけ」
そう言って、彼女は自分の手のひらをまじまじと眺める。彼女の言っている力とは、炎を操る術のことだろう。話を聞いたせいか、その顔はどこか悲しみを帯びているように諒には見えた。
諒は彼女の頭に手を置き、そっと髪の流れに沿うように撫でながら励ましの言葉をかけた。
「気にすることないさ。それが今の咲耶なんだし、こうして俺の契約霊をやってるんだからさ」
彼に撫でられながら、咲耶は手を下して諒の方に視線を向ける。彼女は百合のように白い肌をほんのりと赤くしながら、ぽかんと口を開けて彼を見つめている。
肩が触れ合いそうな距離で二人の視線が交わると、咲耶は顔を赤くしたまま歩いている方向の地面へと視線を移してぽつりとつぶやいた。
「バッカじゃないの――」
その言葉に苦笑いを浮かべる諒には、咲耶が言葉とは裏腹に嬉しさを覚えていたことに気が付けるはずもなかった。
二人は大館市民体育館前の駐車場に差し掛かる。丸みを帯びた屋根を持ち、幅の広い玄関が公園の方に向いているその建物は所々外装が剥がれており、建物全体を眺めても何年も使われた形跡がない。
駐車場は砂利が剥き出しになっており、事件が起こる前には花見客の車で埋まっていたが今はなく、代わりに警察の車両が置かれているが人気はなかった。
咲耶は古い体育館の建物を見上げ、小首を傾げながら諒に尋ねた。
「ねぇ、諒――。この体育館、かなりボロボロだけど……市民体育館なんだよね?」
「ああ、これか。11年前に老朽化が原因で閉鎖されたって聞いたな。かなり傷みが激しくて修理が追いつかないんだってさ。当時は建て替える費用も無くて、そのまま放置されてるみたいだよ。最近やっと目途がついて、建て替えの計画があるとは聞いてるけど――」
諒は咲耶の質問に答えながら、何気なく玄関の扉の方を見やる。ふと、引き戸のガラス窓の向こうに誰か人が身動きしている様子が目に入った。思いがけず立ち止まり、そちらの方を目を凝らして見る。その人影は、何かに驚くように玄関の奥の方へと入っていく。
「――って。どうしたの? 諒」
急に足を止めた諒に咲耶は眉を潜めながら、先に進んでいた歩みを止めて諒の方へと振り返る。
「いや――。なんか、動く人影が見えたもんだから」
「気のせいじゃないの。体育館は誰もいないはずでしょ?」
咲耶の声に耳を傾けながら、諒は肯定の頷きをした。
「そうだけど――あれは確かに人だったな……。ちょっと様子を見に行ってもいいか?」
先ほど見た人影がどうしても気になり、諒は咲耶に視線を合わせる。
彼の真剣な顔つきに、咲耶はやれやれとため息をついて言葉を返す。
「ちょっとだけだよ? 誰もいなかったら、すぐに帰ろう。寮の皆を心配させたらいけないし」
そう言う彼女の目は、自分も気になるといった色を帯びているように諒には見えた。
市民体育館の引き戸の一つに手をかけると、鍵がかかっている様子もなく簡単に開けることが出来た。経年劣化による軋んだ音を発しながら、引き戸が諒によって開かれる。
「げほっ――。埃っぽいな……」
戸を開けた際に舞い上がった埃に、諒は咽びながら中の様子を確かめるために足を踏み入れる。咲耶も後に続き、鼻を手で押さえながら建物の中に入った。
昼の日の光が入り込み、諒たちのいる玄関を明るく照らし出す。一段高くせり上がった、メインアリーナに続く埃の積もった床には、立ち入り禁止と書かれた看板が立てられていた。
看板の置かれた床の辺りを見ると、積もった埃の中に不自然な足跡のようなものがあることに諒は気が付いた。近づいて見てみると、それは靴の跡のように見える。誰かが土足でこの建物に入っていることは火を見るよりも明らかであった。
諒と咲耶は頷きあい、靴の土を払ってからそのままアリーナに向かって忍び足で玄関ホールを歩き始めた。諒は自身のズボンのポケットに右手を添え、いつでも霊術札が取り出せるように備える。先の戦闘では使わなかったが、念のためにほんの数枚だけがポケットの中に仕舞われていた。
アリーナと玄関を隔てる扉に近寄ると、人ひとりが通り抜けられる程度に開けたままになっていた。諒は微かに霊の気配を感じ、無言のまま咲耶にいつでも戦えるように合図を送る。咲耶が了解の頷きをすると、二人は物音を最小限に止めてアリーナに足を一人ずつ踏み入れた。
(あの足跡に、霊の気配……。ここに間違いなくいるはずだろうけど――)
南のキャットウォークにある窓から日の光が入り、アリーナ全体を照らし出す。微かに空中に埃が舞っている中、諒は所々床に穴の開いているアリーナを見渡した。床を踏み抜かないように気を付けながら、二人は奥に見えるステージの方へと向かって歩き出す。彼は霊の気配に警戒し、霊術札を一枚だけ取り出して右手に構えた。
アリーナの中央部分まで歩を進めると、頭上の方から何かがぶつかる音が鳴った。乾いた音がアリーナ中に響き渡り、諒と咲耶ははっとして上を見上げる。
「なっ――!」
天井を見上げた諒の視線の先には、天井を支える錆びた鉄骨にぶら下がる素槍を構えた男の霊がいた。布きれ同然の着物を身に着けて髪は肩まで届く長さで全体としてみすぼらしい印象を与える。柄に短い刃を括り付けた槍を右手に構えながら、残りの左手と両足を器用に鉄骨へ引っ掛け、胡乱な目で二人を見下ろしていた。
「デテ――イケ――」
諒たちと視線が合うと、槍を構えた霊は唸り声と同時に何事か呟きながら二人を睨む。そして槍を構えなおすと膝を折り、今まさに天井を蹴りだそうとせんとしていた。
「咲耶! 下がって! 我が炎の盾をもって――」
「ウウウウウ――!」
諒が咲耶の前に出て霊術札をかざして属性付加の呪文を唱え始めると同時に、男の霊は天井を蹴り、頭から落下しながら素槍を彼らに向けて強烈な刺突攻撃を彼らに繰り出して突っ込んで来る。
「――我らを守らん! 炎熱盾!!」
その瞬間に諒と咲耶の頭上で通常の霊盾に炎を纏った盾が形成され、槍の刃が届く寸前に何とか凌ぐ。属性が付加されたことにより、若干の耐久性能が上がったその盾は刃を受け止め、纏った炎の一部が男の霊の目の前で燃え盛る。
「ヒート・ハンマー!」
たまらず霊が槍を盾に突き立てるようにしながら弾みをつけ、飛び退こうとしたところに側面から回り込んだ咲耶の炎を纏った拳がさく裂した。首回りに炎のマフラーを現出させて戦闘態勢になっていた彼女の拳は霊の脇腹深くに入り、何かが折れる音と同時に男の着物の一部を焦がしてステージの方へと吹き飛ばしていた。
男の霊が飛び退いた際に反動で諒の霊盾は壊れ、瞬時に二枚目の霊術札を取り出して追撃の霊術を発動させる。
「我が札よ。我が手において炎の弾となり、敵を撃ち抜け! 火炎弾!!」
諒が呪文を唱えると、ステージに打ち付けられた男の霊に向かってかざされていた霊術札が彼の手を離れ、加速しながら炎を纏って直進していく。霊術弾に炎の属性を付加されたそれは霊に直撃し、火柱と共に小規模の爆発を起こしながら目標をそのまま焼き尽くしていった。
「諒、今のって――」
霊を倒したことを確認し、咲耶が声をかける。
「ああ。A-ランクの悪霊だった――。それより、他に何かいないか警戒しよう。さっきの人影からして、多分誰かいる」
諒は言いながら、アリーナを見回す。一瞬気が緩みかけていた咲耶も切り替え、彼と同じようにあたりを見回しはじめた。
耳と目で辺りに意識を集中させていると、南のキャットウォークの方から微かな物音が聞こえる。素早くそちらに視線を向けると、今まさにキャットウォークの上で窓を開けようとしている、諒とそう変わらない年頃に見える少年がいた。こちらに見つからないように、息を潜めていたらしい。
諒たちに見つかったことに気が付いていないのか、音を立てないように少しずつ窓を開けている。様子を見るに、窓から飛び降りて逃げようと気を取られているようだ。
「咲耶――」
彼に聞こえない小声で諒が合図すると、咲耶はひとつ頷いてから物音を立てずにその場で浮遊し、ゆっくりと少年の背後に近づいていく。諒の方は、アリーナの玄関ホール方面にある壁に備え付けられた鋼鉄の梯子に忍び足で向かって行った。
諒が梯子を上り切った時には、咲耶は少年のすぐ後ろまで近づいていた。少年の方は、思いのほか窓が開きにくくなっているためか、四苦八苦した様子になっている。
二人は視線を交わして互いに合図をすると、咲耶がそっとキャットウォークに着地して少年の肩を叩く。
「こんな所で、何してるのかな?」
「わっ!?」
不意に真後ろからかけられた咲耶の声に、少年は驚いて声を上げながら振り向く。咲耶は手を後ろに組み、彼を微笑でのぞき込むようにしながら屋根と壁を支える鉄骨の柱に徐々に追い詰めていく。
「べ、べ……別に、何も……」
首に炎のマフラーを纏わせたまま威圧感のある笑顔を浮かべる咲耶の前で、少年は唾を飲み下しながら視線を右往左往させる。額には脂汗が浮かべられ、その表情は明らかに落ち着きがないといった様子になっていた。
「何もしてないなら、何でこんな高いところにある窓から外に出ようとしてるんだ?」
キャットウォークに上った諒は問い詰めるように言いながら、退路を断つように少年に近づいていった。
少年は逃げ場を失い、じりじりと詰め寄ってくる諒と咲耶に怯えた色の目を向ける。しかしその瞳は焦点が合っておらず、二人を正確に視界に捕えきれていない。明らかに動揺しているのは、誰の目にも明らかだった。
「くそっ――!」
退路を断たれ、少年は他に逃げ道を探して辺りに目を走らせている。
「逃げようと思わない方がいいよ。さっきの、見てなかったわけじゃないだろ?」
そんな少年に対して、諒は諦めるように促す。
市民体育館の玄関の方からは、先ほどの爆発音を聞いたのか警察か対策室かのどちらかの大人たちがこちらを目指してやってきているようだった。
「そ、そんな――」
完全に退路を断たれたことを悟ったらしい少年は、愕然とした表情になって虚空を見つめている。ふと、諒は少年が自らのズボンのポケットに右手を伸ばして何か取り出そうとしていることに気が付いた。
彼が何をしようとしているのかを察し、その右の手首を掴んで諒は彼の行動を阻む。
「さっきの悪霊――。君、何か知ってるな?」
少年の手首を掴んだ右手をそのまま上に挙げてポケットから引きはがし、諒は先の男の霊についての事を尋ねる。
「し、知らないっ――! 志島さんに頼まれただけだっ……!」
「志島――?」
焦るあまりに少年は悪あがきをしようとして話はじめ、諒の呟きによってはたと表情を固めてしまう。どうやら、口を滑らせたらしいと推測しながら諒は自身が引っかかったことについて、少年に尋ねる。
「志島って――どっかで聞いたことがある気がするけど……。一体、誰のことだい?」
「なな、何のこと? し、知らないなぁ――。ぼ、僕はたまたまさっきの君らが戦ってるところを見ただけで――」
彼の問いかけに少年は、今度は先ほどと矛盾する答えを口にして顔を強張らせる。その様子は、意地でも他人に知られたくないという頑ななものだった。
「たまたま見かけただけだったなら、あたしたちが戦ってるとこを見ても窓から外に出てこうなんて思うの?」
「――っ!」
一定の距離を保ったまま少年に詰め寄る咲耶は、彼の行動と言っていることの辻褄が合っていない事を指摘する。本当にそうなのなら、わざわざ慎重に足を忍ばせて外に飛び降りようとする真似はしないはずだ。二人を襲った霊も、彼らがアリーナに入る前に少年を襲っているはずだろう。
その事を指摘されて、少年はしまったという表情になって歯ぎしりをする。
「君たち!! 何をしている!?」
対霊対策室の霊術師の一人が踏み込んでキャットウォークの上の三人に呼び掛けるのと、追い詰められていたはずの少年が諒たちを押しのけてアリーナの方に飛び降りるタイミングはほぼ同じだった。
続く