事故物件:中編
土曜日の朝。俺はアパートの管理人が住んでいる部屋を訪ねていた。
「朝早くにすいませーーーん!!102号室の女島ですーーー!!」
時間を空けてインターホンを数回鳴らし、ドアも数回ノックしたが出てくる気配は全くない。
こんな朝っぱらから大声で何度も叫ぶなんて傍から見れば近所迷惑な野郎であり俺自身もそれを自覚しているわけだが、一刻も早く恐怖から解放されたいという意思が俺を暴走させる。
開かずの扉は何十分経とうと開かずの扉のままだった。
流石に諦めがついた俺は、肩を落とし溜息を吐きながら悪夢の102号室へと戻って行く。
鍵を開けようと102号室の前に立ったその時、今まで訪ねようとしていた人物が不意に俺の視界に飛びこんできた。
この「コーポ山下」の管理人、山下通夫である。
「おはようございます!102号室の女島です!朝早くにすいません、ちょっと伺いたい事がありまして」
好青年らしくさわやかに声をかける俺に対して山下さんは「ああ」と一言だけ返す。
確かに朝早くから訪ねて申し訳ないとは思うが、それにしても無愛想な返答だ。「おはよう」とか「どうしたんだい?」とかもっと言う事が無いだろうか。
愛想の悪い対応に少しばかり憤りを感じつつも、俺は早速これまでの事を全て吐きだした。
全てを話し終えると、今までムスッとしていた彼の表情は異常に引き攣った作り笑いに変わり、挙動不審的動作をするようになった。
「そうだねぇ、君の部屋で人が死んだ事なんてないはずなんだけどなぁ・・・」
おでこに嘘を付いていると書いていますよなんて言ったら本気で焦りだしそうな程に彼の目は泳ぎ散らしている。恐らくこれ以上問い詰めると後々厄介な事になるだろう。
問い詰めてやりたいという気持ちを胸の中に押し込み、俺は飛びっ切りの引き攣った作り笑いで返してやった。
「俺の勘違いだったみたいですね、アハハ・・・」
これでいいハズがない。これで諦められるような生ぬるい事態では決してない。
という事はつまり、”あの場所”に頼るという最も不安な最終手段に頼るしかないという事なのか。
それは、さかのぼる事一週間と少し前の話。
中学校時代からの悪友であり現在においても最大の親友である谷垣政人はその日、俺に一枚のチラシ広告を見せた。それは一枚の安っぽいコピー用紙に怪しい宗教の広告みたいなものとその場所の地図がデカデカと印刷されたものだった。自称珍妙大博士の彼いわく霊能者が霊的現象を解決してくれる「お店」で、そこそこの実績があるんだとかなんだとか。
当時の俺は、いつもの珍妙自慢として彼の話を華麗にスルーしたのだが、今となってはこのタイミングで聞いた事が何かの悟しではないかとさえ思えてくる。
因みに、谷垣にはまだ心霊現象の事を言ってはいない。彼にこの事を言おうものなら、これもまた後々”厄介な事”になりかねないのだ。
―神崎死霊堂―
それがこの店の名前。
俺がこの場所に来るのを躊躇った理由の5割がこの妖怪が住んでいそうないかにも怪しい店名のせいだ。
そして今この店に入るのを躊躇っている理由の8割は、予想の斜め上を行く不気味な風貌のせいである。
まるで一般人が入る事を拒み、威圧する不気味な入り口。いや、入り口だけではない。窓から覗く店内の様子は薄暗く昭和の時代から時間が止まっているようなレトロな部屋だ。外装もボロボロで、側壁に張り付くシミや油で汚れた排気口がそうとう長い間手入れがされていない事を物語る。
この様子だと恐らく誰もいないだろう。むしろいない事を願いたい。
一部腐って崩壊寸前と思われた引き戸を、最大限の手加減で俺はノックした。
「ハーイ、どうぞー入ってくださーぃ」
数秒経った後、奥の方から店員と見られる者が返事をした。
現在全てが疑わしく思えていいる俺にとって、この声さえも本当に人間のものか疑わしく思える。
俺は言われるがまま妖怪屋敷へと入って行く。窓から入る光がそこら中に舞いあがるホコリを鮮明に映し出し、見ているだけで咽かえりそうなった。見渡す限り段ボールや古い家具、よくわからないこけしのような物体や木で作られた仏像等いろんな物でごった返している。荷物のビル群を縫うようにかわし、俺はやっとの思いで俺を呼んだ店員の元に辿り着いた。
そこにいたのは、袴にベレー帽という100年近く時代を間違えた格好の若い男だった。
男は俺の正面まで寄ってさらに俺の顔面の近くまで顔を寄せ、ニッと笑った。
「どんなご用件で?」
水も滴る良い男とはまさにこういう者の事を言うのだろうが、”そういう気”のない俺にとっては吐き気と過呼吸が一気に押し寄せてくる程の嫌がらせに近かった。
俺の顔面は一瞬硬直し背中には体に良くない電流が伝い走る。そして脊髄反射で一歩後ろに引いた。
「あ、あの・・・今日はその・・・」
「大丈夫、はじめてはみんな緊張するものだよ」
男はまたニヤっと笑う。
そして明らかに引いている俺を舐めるように見て何かを悟ったような風に何度か頷いた。
「何か相当辛い目にあっているようだね。それに君は何かを我慢している。誰にも言えないならいっそここで吐き出してしまえばいいよ。ここに来る客はみんなそうしてるよ」
おおよそというかズバリ当たっていた。この男、見た目は怪しいが、目は確かなようだ。
掴むべき蜘蛛の糸は目の前にぶら下がっている。そう確信した俺はこの男に託す事を決心し、全てを打ち明けた。
「家に幽霊が出る、かぁ。なるほどなるほど」
「そうなんです。毎晩毎晩押し入れから激しい刺突音が聞こえるんです」
「隣の住人が激しく愛を語り合ってるわけではないのかな?」
「なわけありませんよ・・・そもそも隣には誰も住んでいませんし」
そう、隣には誰も住んでいないのだ。
音が聞こえ始めて間もない頃は、ただ隣の騒音がうるさい程度にしか思っていなかった。しかし3日も過ぎれば堪忍袋の緒も限界に達する程の激しい騒音となり、とうとう我慢できなくなった俺は隣の部屋を訪ねる事にした。そう、ここからが本当の地獄である。
その日、案の定怖くなって隣の103号室のインターホンを押すか押さないか迷っていた俺は、ある不自然な点に気がつく。
一階の端に設置された郵便受けの103号室と書かれた所。そこには溶接されたような跡があり、新聞やチラシが一切入らないようになっているのだ。
そんな事を思い出し何かとてつもなく嫌な予感がした俺は103号室のドアノブを握り、捻ってみようとした。
ドアノブ捻ったその瞬間、ドアノブが引きぬけてドアの向こう側で何か鉄の塊が落ちたような音が響いた。おそらく外側のドアノブを引き抜いた事によって内側のドアノブが落下したのだろう。
気が動顚していた俺は一瞬、外れたドアノブの穴を覗いてみようとしたが、電流の如く俺の体内を駆け巡る悪寒が全力でそれを引き止めたために中を見る事は無かった。
この事を話すと男は目をつぶってしみじみと頷き、頭を掻きながら「んー」と唸る。
「そのドアだけど他に変な所は無かったかい?」
「変わった所、ですか。そういや確かドアに備え付けられてる郵便受けがガッチガチに固定されて開かなかったような・・・」
「なるほど。多分それは”開かずの間”というやつだね」
「開かずの間?」
「そう、開かずの間。手の付けようがない悪霊が住んでるような部屋なんかを周りから隙間なく塞いでしまうんだ。そうする事によって封印する力がより一層強くなる、なんて言われているんだよ」
顎に親指と人差し指を当て、ニヤニヤと笑いながら男は横に目を逸らす。
すると、彼の目線の先にある古びた引き戸がガラガラと心地悪い音を響かせながら開いた。
戸の向こうから現れたのは少女だった。
見ず知らずの少女ではない。数時間前に一度会って、二度と会う事は無いだろうと思われたあの少女なのだ。
色々と言いたい事はあったが頭の中でごちゃごちゃになり、とにかく開いた口が塞がらない。鏡で今の自分を見ればきっとみっともなくアホな表情をしている事だろう。
見るからに重い戸を無理やり開けきった少女はすぐ横に積み上げられたダンボールの内一番上の大きな段ボールを抱え上げ、こちらに向かう。やがて俺の目の前まで来ると傍に置かれた机の上にそれを降ろした。
降ろすと同時に少女は俺の間抜け面を見てハッと驚いた表情を見せた。
「あのときの」
恥ずかしげに少し俯く彼女。
彼女側からは俺の事が見えなかったらしく、その時初めて数時間前に出会った俺だと認識したようだ。
言いたい事が喉に突っかかって声が出ないまま微妙な空気になりつつある二人の間に先ほどの男が頭を入れて割り込む。
「ほうほう、君たち顔見知り・・いや、もしくはそれ以上の仲ってわけかぁ」
男のニヤケ顔には計り知れない深さの悪意を感じたので、俺は心底嫌な顔で睨んでやった。対する男は、それを見事に受け入れてむしろ楽しんでいるような笑顔で俺を見ている。
「あの」
満面の笑みを浮かべる男とわざとらしい程の嫌な顔をする俺とで睨めっこする中、割り込んだのは少女だった。
見合っていた二人の注目はすぐに彼女へと移る。
「先程はありがとうございました。何かお礼がしたいです。私に出来る事があれば何でも言ってください」
アホ面を晒す俺に向かって彼女は深々と頭を下げた。
俺の記憶では確か生ぬるいお茶を渡しただけでそれ以外には何もしていない。赤の他人からもらったお茶一本でここまで感謝するのだろうか。
それを見た男はまた顎に親指と人差し指を当ててニヤケている。
「いや~、君も罪な男だねぇ」
「だからなんにもしてませんって」
「うん、じゃあ”開かずの間”の視察には咲君に行ってもらおうかな」
咲さんというのか、この少女の名前。
ふと気がつくと、その場にしゃがみ先程降ろした荷物に隠れて目から上だけを覗かせて頷く咲さん。
本当にこんな純情少女をあんな恐ろしい場所へ行かせて大丈夫なのだろうかと疑いの目を向ける俺に大丈夫大丈夫と言わんばかりの笑顔で、男もまた腕を組みながら頷いている。
なんだか今まで一人で抱え込んできた不安とはまた違った不安が胸につかえてますます具合が悪くなってきそうだ・・・