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短編・ショートショート

重力の囚人

作者: 葦沢かもめ

"7:00 AM いつものように目覚まし時計の音で起床し、朝食をとる"


ピ・ピ・ピ、ピ・ピ・ピ、ピ・ピ・ピ、ピッ


 四度目の「ピ・ピ・ピ」の「ピ」で止める。それが俺のいつもの朝だ。どうも今日は昨日よりも重力がでかくなっている気がするが、やはりそれは気がするだけなのだろう。夜が少し寒くなってきたから、と余計に被った掛け布団が案の定ベッドからずり落ちていたから、むしろ荷重は減っていた。そのお陰か、何となく喉が痛い気もするが、多分医者に行く必要はないだろう。

 瞼を擦りながらのっそりと階段を降り、右手に曲がって約5歩。そこがリビングだ。俺の頭上の爆発した寝癖を認めた妹は、齧り付きかけた食パンを置いて、今日も変わらない挨拶を投げかけた。

「早くしないと学校に遅れちゃうよ、お兄ちゃん」

 可愛い妹の笑顔--朝の爽やかさと共に--。こんな最高の朝食を食べられるなんて、俺はなんて幸せな人生を歩んでいるのだろう! なんとことはさておいて、さっさとおまけの栄養摂取でも済ませようか。

「ホラ、作っておいてあげたわよ」

 そう言って母が差し出したのはトーストに蜂蜜&マーガリン。香ばしく焼けたトーストは、耳の縁まで狐色がベスト。蜂蜜を右側に、マーガリンは左側に、それぞれ大さじ一杯を取って均等に塗りたくり、それを半分に折って喰む。朝の栄養摂取としては最上級に位置づけられる。もちろん最高の朝食は前述した通りだが。しかし、こんな朝食は最近全く食べていなかった。というか、食べさせてもらえなかった。栄養士である母上様が、カロリーだとか脂質だとか、そんな単語を並べ立ててバリケードを張ったのだ。俺は食べても太らないタイプだと言い張ろうが、お構いなし。おかげで最上級の朝食は、母が仕事の都合でいない朝のお楽しみだったのである。

 それが今日はどうしたことだろう。……なんて言っておいて、理由は何となく分かっているのだけれど。



"7:30 AM 家を出て、普段通り自転車に乗って学校へ向かう"


「行ってきま~す!」

 玄関から家の中に向かって叫ぶ。

「行ってらっしゃ~い」

 洗面所の方から、化粧に余念がない母の声が帰ってきた。これは期待していた返事ではない。ただ、何となく寂しげな余韻がそれに乗っている気がした。気がしただけだから間違いかもしれなかったが、今日くらいは母に感謝の言葉を返しておいても良いかもしれない。

「行ってらっしゃいっ、お兄ちゃんっ!」

 これだ、これ。これが無きゃ、生きてる心地がしないっての。でも今日ばかりは、つららが刺さったように心が痛い。

 さぁ、こっからが正念場だぜ、少年。

 俺は自分にそう言い聞かせて、自転車のハンドルを握った。家を出てすぐ、左へ方向転換。そこからは坂道になっている。俺の高校はこの坂道をずっと下った先にある。距離は遠いが、ただ直進すれば良いだけのお仕事だ。信号に引っかからなければ、ペダルを漕ぐ必要さえない。ここから、この自転車は位置エネルギーの操り人形だ。重力に逆らうこともできずに一直線。それでゴール。全く運命というやつは笑えない舞台を用意してくれたものである。



"7:42 AM 新田町交差点を通過しようとして、信号無視のトラックにはねられ即死する"


 自転車は動き出した。俺の終焉に向かって徐々にスピードが上がっていく。このくらいのスピードでなければ、7時42分に新田町の交差点には着かないだろう。昨日と変わらない登校風景が俺の後ろへと流れていく。それを見ているだけで腹の底からエメラルドの吐き気が這い上がってくる。最悪だ。

 気を紛らわせるために、俺は今日の"神託"を思い返すことにした。諦めがついていなかっただけかもしれないが、誰だってそうなるさ、と自分に言い訳する俺がいた。

 神託。俺がそう呼んでいるだけで、他の人は別の名前をつけているに違いない。それは朝の目覚めの前に、頭の中にやってくる。そして音でもなく、文字でもなく、言うならばテレパシーのように「今日の運命」を囁くのだ。こんなふうに。


和泉真いずみ・まことの今日の運命】

7:00 AM いつものように目覚まし時計の音で起床し、朝食をとる

7:30 AM 家を出て、普段通り自転車に乗って学校へ向かう

8:10 AM 学校に到着する

8:15 AM 教室で駒木竜史と何気なく雑談する

8:32 AM 職員会議のために、やや遅れて朝のホームルームが始まる

以下略。


 そして俺はその通りに行動する。いや、行動しなければならない。そうすることで社会が動き、秩序が保たれるのだそうだ。もしそれに反することをすれば、犯罪人として社会から消されるらしい。「らしい」というのは、今まで反したこともなかったし、反する人を見たことがなかったからだ。

 俺にとっては、"神託"の通りに行動することが物心付く前からの習慣だったし、疑問に思うこともなかった。その通りに行動しなければこの生活が無くなってしまうんだから当たり前だ。それで世界が平和なら、俺に文句はなかった。

 ただ"神託"のことを周りの人間が知っているのかどうかは、はっきりしない。"神託"のことを口外することが許されていないからだ。でも何となく分かることがある。今日、母は息子の最後の朝食を、最高の朝食にしてくれた。妹だって分かっていただろうに、終始変わらぬ笑顔で接してくれた。

 もし"神託"が無かったら、こんな最期の幸せもなく突然死んでしまうのだろう。それなら"神託"はあってもいいと、ちょっとは思う。

 何はともあれ、俺はあと数分でトラックの下敷きになることになっているのだ。気付けば眼からは大粒の涙が零れ、風に押されて顔を横に流れている。まるで今までの自分が煙になって頭の上から抜け出してしまうようだ。視界はボヤけて光が乱反射し、もう前がよく見えない。もう見えなくたって良いのだけれど。

 あぁ、全く何なんだ、これは。俺が何かしたか? 万引きなんてしてない。嘘だってそんなについてない。なのにどうして俺は死ななければならないんだ! 誰だ、こんな筋書きを書いた奴は!

「畜生」

 そんな言葉を呟いた。しかしそれは空気を震わせただけで、何も変えなかった。

 死ぬ。

 その時初めて頭の中に、生きていない状態の実感が湧き上がってきた。舌を噛み切って絶望を叫んでいるような気分だ。心臓が妙な拍動を繰り返しているのが分かる。喉元は石膏になってしまったようだ。体の芯は、いつの間にか鉛になっている。感覚は何処かへ行ってしまった。呼べば戻ってくるだろうか。息を吸って、止めて、ゆっくりと吐き出した。

 さぁ、そろそろ目的の交差点に到着だ。目を先に走らせて、信号を見る。今ちょうど青になった。そして交差点の右から、一台の紺のトラックがスピードを落とさずに走ってくるのが目に入る。あの運転手もきっと、今日俺を轢き殺すという"神託"を聞いているのだろう。徐々に近づくにつれ、運転手の表情が分かってくる。血走った眼、震える唇。無理やり覚悟を決めた顔だ。それは鏡に映したように俺の表情と同じなのだろう。そしてトラックのエンジンの音が耳元で聞こえた。

 あぁ、もう止まれない。





 天へとふんわり浮かんでいく感覚。それだ。それが今の俺を包んでいる。どうやら痛みを感じる間もなく逝けたらしい。これは不幸中の幸いというやつだろう。

 全身が重力から解放されて、雲より高い世界へ飛んでいけるような気がする。きっとその先は宇宙だ。俺は天国なんて信じちゃいない。死んだ俺は、重力なんて無視して火星を越えて、木星を越えて、冥王星だって越えて、ずっとずっと何億光年も遠くまで旅をするんだ。きっと。

「あの人、死んでないっ!!!」

"ん?"

 群衆の声が耳に入って、ふと気付く。俺が死んでいない? 確かに俺は現在進行形で天に召されているはずである。しかしながら、右手が引っ張り上げられているような気がしないでもない。

 目を開けて、右手の先を見上げてみる。そしてこの目を疑った。そこには釣り針が制服に食い込んでいる。宇宙から垂らされた釣り針が俺を釣り上げてくれているような、不思議で馬鹿げた光景がそこにあった。

「やった、一本釣り成功!」

 その威勢の良い声のする方に視線を向ければ、民家の屋根の上に少女が立っていた。嬉々とした表情は全くの子供だが、実際年齢は俺と同じくらいだろう。所々擦れた学校指定のジャージを上下に纏い、長い黒髪を後ろで束ねた姿は、それだけならただの体育会系女子といった雰囲気である。ジャージを捲った腕は細いが、それは得体のしれない力強さを帯びている。その手で握っている細長い物体が釣り竿だと分かった瞬間、漆黒のポニーテールが、はさっと揺れた。と同時に、俺の体は空中をピーターパンのように飛び、彼女の元へと吸い寄せられていった。

 ぐいぐいと、彼女との距離は縮まっていく。それなのに、その女子は微動だにしない。

「危ないって!」

 このままでは彼女に体当たりだ。いくらなんでも女子に受け止められるとは思えない。それにこの速さである。今までこんな経験はないが、本能が叫んでいる。これは無理だ。

 しかし彼女は向かってくる俺に対して両手を差し伸べ、そして言葉をかけた。

「ようこそ! 重力から解き放たれた、自由の世界へ!」

 すると衝突する間際、それもほんの僅かな瞬間だったが、その場面は本当に時が止まったように現れた。重力からも、時間からも、俺の感覚は切り離されて、まるで何かを超えたような、そんな体感。彼女の微笑は、俺の答えを待っているかのようだった。

 だがそれは本当に一瞬で、ほぼ同時に俺の体は彼女に衝突し、上下が分からないくらいに転がり回った。それにしても硬い屋根の上で転がるものじゃない。少なくとも漫画の主人公以外は。体の動きが止まった頃にはもう、肘やら肩やらが痛み出していた。

「イッテェ~」

 肘をさすりながら起き上がり、彼女の姿を探そうとしたが、それはどうやら遅かったらしい。彼女はすでに立ち上がって、朝陽をバックに俺を見下ろしていたのだ。値踏みするような眼が、俺の体のそこかしこに向けられた。卑下するようなものではなかったけれど、それとはまた違う威圧感を感じて、俺は動くことを忘れてしまった。

「タイミングが良かったから助けてはみたが、」

 そこで区切ると、彼女は首を傾げて何か考えているようだったが、妥協したようにフゥ、と溜息をつくと投げやりに言葉を続けた。

「後は自分で決めろ」

 彼女の口元がすっと緩んだように見えたが、すぐに彼女は振り返って身軽に屋根の上を歩いて、さっきまで俺がいた交差点を眺めに行ってしまった。さっきの衝撃のせいか頭が上手く回らないが、想像はつく。

 俺は"神託"の通りにならなかった訳だから、下では大変なことになっているはずなのだ。なぜならトラックの運転手は轢いた後に俺に駆け寄るはずだったし、通行人の一人は病院に電話するはずだった。ある人は携帯で写真を撮って、後でそれを学校で見せて回るはずだったし、ある人は悲鳴を上げてその場に座り込み、イケメンに手を差し伸べられるはずだった。そんな"予定"が全て台無しになったのだ。

 それなのに、台無しにした張本人である釣竿の彼女を捕まえようなんて、誰も思いやしない。だってそれは与えられていた"神託"には書かれていないからだ。誰もが次に何をすればいいのか分からず、右往左往しているのは見なくても分かる。

 そしてそれは、残念ながら今の俺にも当てはまる。死ぬはずだった。だが生きている。しかも予定は何も無い。何一つ行動の指針が頭から流れてこないのだ。今まではどうすればいいかなんて、すぐに分かったのに。彼女は「自分で決めろ」と言った。でも決め方さえ分からない。もどかしい。

 一方の彼女はというと、人々を上から覗き込んで楽しんでいるようだ。こっちから見ると、顔を動かすたびにポニーテールがサラっと揺れて、まるで喜んでいる小動物の尻尾のように見える。よほど、そんな人間を見ているのが面白いに違いない。

 しかしそんな彼女を眺めて時間潰しができたとしても、何かが解決するはずはない。ひとまず今の俺に考えうる選択肢は一つしか無いことを、納得するまで何度も頭の中で反芻した。それを確認した上で必死に知っている言葉を繋ぎ合わせ、恐る恐る日本語を発した。言葉がこれほど難しいものだと感じたのは、初めてだった。

「あの、一体俺はどうすればいいんですか?」

「私は知らない」

 こちらを振り向いてはくれない。興味がないといった風だ。

「でも、俺を助けたのはあなただ。あなたに責任がある」

「『助けた』?」

 何が彼女の思考に引っかかったのだろう。どうやら興味の対象が俺にシフトしたらしい。彼女は人間観察をやめて、俺の所へと戻ってくると、しゃがみ込んで目線を合わせた。さっきまでの威圧感が、無くなった。

「お前、今までの生活が嫌だったんだな?」

 それは面白がっているのではなく、確認のような声だった。

「そんなはずはない! 断じてない!」

「どうしてそう言える?」

「俺は十分に幸せな生活を送っていたんだ。優しい母親と、可愛い妹がいた。毎日が楽しかった。嫌だなんて思ったことはない!」

 俺は真実を口にした。心で思っていることそのままだ。でも彼女は何か特殊な能力でもあるに違いない。真実で隠した真実を、無駄な動きを排して見事に突いてきたのだ。

「父親は?」

 その問いに、なぜか返事が出てこない。答える気はあるのにそれを紡ぐための言葉が見つからない。空気を掴むように何度も思考がループした。結果、答えは単純なものとなってしまった。

「父親は……、死んだ」

「そうなると知っていたにも関わらず」

「……余計な付け足しは要らない」

「そしてそれを乗り越えることも、運命だった」

 彼女がさらりと口にしたその一言を耐えるには、俺の器が足りなかった。

「うるさいっ!!! 蛇足なんだよ、あんたの一言は!!!」

「でも、その経験はお前にとって蛇足ではないはずだ」

「っ……」

「父の死があったからこそ、お前はこの世界に疑問を持った。果たしてこんな世界があっていいものなのか、と」

 俺の眼を捉えるその眼に悪意は見えない。でも心を見透かされているのは何となく腹が立つ。そう、この感じは運命が決められてしまっているのに、似ている。

「そして私の気まぐれで死ぬことが回避された。普通なら、そこで彷徨っている人間たちと同じように、運命が書き換えられてしまったことを怒るはずだ。社会の秩序が乱されたのだからな。でもお前は『助けた』と言った。本当は--」

「そうだよ、助けて欲しかったんだよ! 悪かったな!」

 言われてしまうなら、自分から言ってしまった方がマシだった。でも言ってから後悔していない訳でもない。

「フッ。そんなカッコ悪いこと、自分から言うものではないだろう?」

「何をどうすればいいのか分かってねぇんだ。俺の言動にいちいちつっこまないでくれ。疲れる」

 そこで彼女はおもむろに立ち上がった。ふと風が吹いて、ポニーテールが舞った。

「そうか。なら、休んでいいぞ」

 その思いやり溢れる言葉は、信じられないことに確かに彼女の言葉だった。その表情に映っているのは、優しさ以外の何者でもない。

「休んで、それから考えればいいさ。もう重力なんて関係ないんだから」

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