表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
短篇おまとめぶくろ  作者: 未定


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/11

絵描きと霧のプリンセス

絵描きと霧のプリンセス


1

あるところに、貧しい絵描きがいた。彼の描く絵はときに難解で、ときにへんてこで、ときに物騒だったから、めったに買い手がつかなかった。絵描きは筆を持った乞食といってよく、ときおりにわか雨みたいに降ってくる他人のやさしさで生かされていた。だが彼は感謝など一度たりともしたことがなかった。


2

俺は偉大な絵描きになるのだから、他人が俺に施しをするのは当然のことなのだ――彼はそういうふうにしか考えられない人間だったのだ。彼がそんな人間になってしまったのは彼の生い立ちによるところであるが、彼は誰にもそのことを話さなかった。彼はいつもひとりだった。話し相手は地面の落ち葉だけ。


3

あるとき彼は絵の題材を求めて、都市から離れた、自然豊かな土地までやってきた。そしてそこの宿で知り合いになった男から、あるおかしな話を聞いた。なんでも出るんだそうだった。「なにが?」と絵描きはたずねた。「幽霊がさ」と男は脅かすような声で言った。気が合った二人は夜遅くまで酒を飲んだ。


4

絵描きは次の日の朝早くに、きのう男が話していた湖畔までやってきた。男の話では幽霊は数年前から現れだし、霧の立ち込める日に、この湖畔をまるで呪う相手を探しているかのようにさまよい歩いているのだという。ちょうどこのとき霧が濃く出ていた。しかし絵描きは恐れるどころか、わくわくしていた。


5

幽霊、それは絵のいい題材になりそうに思えた。幽霊の絵など売れそうにはないが、彼はいい絵が描ければそれで満足なのだ。名前が世に羽ばたけば逆に自分は鳥籠の鳥になる。財産を持たぬこと、それこそが何物にも代えがたい財産である。絵描きはそう信じてやまないのだった。そして突然、幽霊が現れた。


6

絵描きはさっそくその場に折り畳みの椅子を立て、それに座って筆をとった。よくよく見てみると、霧のなかに浮かぶ幽霊の顔は女であり、かつて見たことがないほど美しく、しかも品があり、そしてどこか悲しげだった。絵描きが黙って絵を描き始めると、幽霊はなぜだかとても驚いたようなようすを見せた。


7

「あなた、逃げないの?」と幽霊は言った。声まで顔のように美しかった。絵描きは何も答えず絵を描き続けた。しばらくすると幽霊はしくしく泣き始めた。女の泣き顔ほど美しいものはないと絵描きは思った。だが幽霊の泣き顔は次第にくしゃくしゃになっていき、鼻水まで垂らし始めた。鼻水は美しくない。


8

「泣くな」と絵描きは言った。すると幽霊はかなりびっくりして、次の瞬間にはとても嬉しそうな顔になった。絵描きは満足してまた絵を描き始めた。二人は長いあいだ、不思議な温かな感じのする沈黙を挟んで、お互いに向かい合っていた。二人は一言も交わさなかった。だが幽霊はずっとにこにこしていた。


9

そのまま数時間が経過して、あるとき絵描きがふと顔を上げると、幽霊は消えていた。霧が晴れたのだった。いま絵描きの目の前には、湖が陽の光を受けて黄金に輝いているのだけが見えた。普段なら美しく思うはずのその景色も、今の絵描きにはそう見えなかった。なんてつまらない景色なんだとさえ思った。


10

「幽霊には出会えたかい?」と宿で例の男が言った。「ああ、会えた」とだけ絵描きは答え、それ以上のことは言わなかった。幽霊のあのにこにこしたきれいな顔は自分だけのものとして胸に仕舞っておきたかったのだ。「あんたは運がいいな」と男が言った、「除霊される前の幽霊を最後に見られたんだから」


11

翌日は霧が立ち込めることもなく、朝から空は晴れ渡っていて、ゆるやかな風は暖かく、湖はやはり輝いていて、除霊の儀は何事もなく執り行われた。絵描きはそれから一週間、湖の近くの宿に逗留した。その間に三日ほど濃い霧が立ち込めた日があったのだが、しかし再びあの幽霊と会うことはできなかった。


12

幽霊を描いた絵は、意外なことに高く売れた。ただしそれは幽霊を描いた絵としては受け入れられず、恋人か、いとしい女性を描いたものであるとされた。絵描きは別段それを否定することもなかった。そうして絵が売れてから三日ほど経つと、絵描きのうちで妙な感情が膨らんだ。結局、彼は絵を買い戻した。


13

その夜、彼は幽霊の夢を見た。「私はずっとひとりだった。みんな私を見ると逃げ出したから。でも、あなたは違った。あなたが私に泣くなって言ったとき、ひさしぶりに人とお話しした気がしてすごく嬉しかったの。素敵な絵描きさん、私を描いてくれてありがとう。本当にありがとう。そして、さようなら」





眠り姫の目覚め、そして涙


1

数年前に不運な事故にあって以来ずっと寝たきりの状態だったカミーユ姫が、ある日の朝、まるできのう眠ったばかりといったような具合に大あくびをして健康的な目覚めを迎えたというので、その知らせはたちまち国中にあまねく広まって、国民は愛する人の誕生日を祝うがごとくあちらこちらで宴を始めた。


2

しかしカミーユ姫は目覚めから数時間が経って、医師からも健康そのものの太鼓判をもらったあとで、王宮の庭にある小さな池の周りを散歩していたときに、突然にぽろぽろと大粒の涙をその桃のような血色のいい頬に滑らせ、しゃがみこんでわんわん泣き出してしまった。御付きの女官たちは慌てふためいた。


3

彼女の友達でもあった女官は、彼女の肩を抱き寄せて「池に映った自分の顔が、あのころの自分でないみたいで怖いのね」と言った。カミーユ姫は「違うの」と首を振った。「じゃあ、どこか痛むの?」と女官は言った。カミーユ姫はうなずいた。「どこが痛む?」と女官は言った。カミーユ姫は胸を押さえた。


4

「心が痛い。でも、それがどうしてだか自分でもわからない。さっきまでそんなことなかったのに、この池の周りを一周したときに、とてつもない孤独を感じて、眠っていたあいだずっとみんなが私を避けていたような気がして……それに私は、自分自身のことよりも大切な誰かのことを忘れている気がするの」


5

悪い夢でも見ていたんだろうと誰もがカミーユ姫を憐れんだ。だが彼女自身には何か確信めいたものがあった。自分はただ眠っていただけじゃない。自分は夢のなかでたくさんの黒い悲しみに出会い、そして一つの黄金の喜びと出会ったのだ。その喜びをくれた人とも出会ったはず。そしてその人物の顔は……。


6

何日か経ったある日、隣国の第二王子がカミーユ姫に会いに国を訪ねてきた。二人は幼馴染で、カミーユ姫の心は知れないが、王子のほうはひそかに彼女に心を寄せていた。ひさしぶりのカミーユ姫の姿は、火が吹き消された蝋燭みたいだった。それで王子は自国から持参した何本ものマッチに次々火をつけた。


7

つい先日森で狩りを行ったとき転んでしまいその拍子に自分の頭を撃ち抜きそうになった話、十六にもなってまだ子供じみたいたずらで使用人を困らせているおてんばな妹の話、最近頭がさみしくなってきたのを本気で気にしてかつらの装着を検討している父親の話。王子は面白おかしく手ぶりを加えて語った。


8

だがどのマッチもカミーユ姫の蝋燭に火をつけることはできなかった。カミーユ姫は王子が話している最中、何度も口角を上げて、軍隊みたいに整列したきれいな白い歯を王子に見せた。だが王子にはわかっていた。それは単なる礼節に過ぎないのであって、カミーユ姫は一度たりとも笑ってなどいないのだと。


9

王子はカミーユ姫を苦しめるものが何であるのか知りたいと思い、自国に帰ってから、彼が信を置いている占い師に助言を求めた。占い師は三十秒ほど目の前の水晶玉に手をかざしていたが、そのさらに三秒後に「ああこれは……さぞお辛いことじゃろう」と言って、同情の涙を一筋、その年老いた頬に流した。


10

「カミーユ姫の患いは、この世でもっともたちの悪い患いじゃ」と占い師は言った。王子は占い師に掴みかからん勢いで「それはいったい……肺患いか? 心臓の患いか? それとも、その両方か?」とたずねた。占い師は言った。「カミーユ姫の患い、それは恋じゃ。恋の別れで、姫様の胸は裂けようとしている」


11

王子はもちろんショックを受けたが、すぐに「その相手は?」と言った。占い師は答えた。「クロードという名の画家じゃが、それを知って主様はどうなさる」すると王子は決然と「探し出す、世界中のどこにいようとも。そしてその人をカミーユのところまで連れていく」と言った。だが占い師は首を振った。


12

「それは無駄じゃ。それより主様にはやらねばならんことがある」と占い師は王子に助言した。それから一週間もしないうちに、王子はまたカミーユ姫のところを訪ねた。手には筆と絵の具、わきには画板と紙を抱えていた。「宮廷画家から描き方を教わったんだ。まだ下手だけどね」と王子は微笑んで言った。


13

王子が描き始めるとカミーユ姫は滝のような涙を流した。なぜそれほど涙が出るのかは彼女自身にもわからなかった。わかるのは王子が自分を愛してくれているということだけ。それがなぜわかるのかもわからなかった。カミーユ姫はただ泣き続け、王子はそれを見守り続けた。二人は長いあいだそうしていた。





アリス嬢は海が見たい


1

この星において海の占める割合は七割以上である、アリス嬢はそのことが不満でならなかった。アリス嬢からすればどんな広い大陸も所詮は絶海の孤島であった。アリス嬢は世界地図を見るたびに思った。この青い部分が私の祖国であればどんなに誇らしいだろう。もしかして海って必要ないんじゃないかしら?


2

ところが実際、アリス嬢は海というものを見たことがなかった。ときどき彼女の父親の友人の船乗りがお屋敷にやってきて、まるで自分の所有物かのように自慢げに海について語るので、またその船乗りは少々野暮ったいところがあるので、アリス嬢は彼の話の何もかもが不快で、ただただ海を毛嫌いしていた。


3

それである日、彼女はお屋敷を抜け出すことにした。彼女は自由になるための作法をわきまえていた。何のためにあの退屈な習字の授業をまじめに受けてきたのか。この日のためだ。アリス嬢の姉は字がうまかった。アリス嬢はやっと習字の腕前が姉に追いついたのをいいことに、両親にこんな書置きを残した。


4

『昨日話した隣町へのお出掛けの件、アリスがどうしても同伴したいというので、一緒に連れていくことにしました。だからお父様、お母様、アリスがお屋敷にいなくても心配しないでくださいね』姉は予定通り隣町へ出掛けていった。アリス嬢は姉と同じ時分にこっそりお屋敷を出て、一人で街へ繰り出した。


5

お目付け役も連れずたった一人でお屋敷の外に出るのは初めてのことだった。アリス嬢はしばし歩いた。長い距離を歩きなれていない彼女の足はすぐに疲れてきて、そのときちょうど雰囲気のよさそうな店を見つけたので、何の迷いもなくそこに入った。カウンターのスツールに座ると、アリス嬢はこう言った。


6

「なんでもいいわ。飲み物をちょうだい」すると隣に座っていた一人の男が鼻で笑って「足が床に届かないお嬢ちゃんにはまだこの店は早いな」と言った。背の高いスツールに座ったアリス嬢の足はぶらぶらと宙に揺れていた。むかついたアリス嬢は「あらそう、ここは飲んだくれのお店ってわけね」と言った。


7

「そうだよ」と男はあっさり言った。その横顔がどこか悲しげに見えた。アリス嬢はちょっと悪いことをした気になって「あなた、海を見たことがある?」と別の話題を出した。「ああ、あるよ」と男は答えた。「私はないの。だからこれから見に行こうと思ったんだけど、どっちに行けばいいかわからなくて」


8

男は言った。「俺が連れていってやろうか? この近くにきれいな海があるんだ」しかしアリス嬢は「嘘よ、近くに海があるなんて聞いたことがないわ。それにそこまでしてもらう恩義だってないはずよ」すると男は「君は俺のむかしの知り合いに似てるんだ。俺はその人に感謝してる。それが恩義だ」と言った。


9

アリス嬢が男に連れられてきたのは、大規模な個展会場だった。そこにはいろいろな絵が飾られていたが、なかでもひときわ目を引いたのが、壁一面を使って描かれた温かな感じのする海の絵だった。絵なので動くはずはないのだが、描かれた夕陽が実際に水平線へと沈んでいくかのようにアリス嬢には見えた。


10

「これが海……」とアリス嬢は感激して、それ以上の言葉をなくした。男は微笑んで言った。「さっき話した知り合いが俺にこの絵を描かせたんだ。彼女に出会わなければ俺は道端の石ころと何も変わらない人生を送っていただろう。描いてくれてありがとう、彼女はそう言った。その言葉で俺は変わったんだ」


11

アリス嬢はほかの絵も見て回った。ある絵は難解で、ある絵はへんてこで、ある絵は物騒ではあったが、しかしどれも鑑賞者の心をのぞき込んでくるような迫力を有していた。男は言った。「俺のなかで何かが変わったとするなら、それは描く理由だ。自分のためだけに描くような虚しいまねはもうやめたんだ」


12

ふいにアリス嬢はある絵の前で立ち止まった。その絵には美しい女性の姿が描かれていたが、題名がつけられていなかった。「その女性を描いたのは十何年も前だが、肝心の名前を聞きそびれたんだ」と男は言った。するとアリス嬢は「私にはわかる気がするわ」と言った。「へえ、なんだ?」と男はたずねた。


13

「カミーユよ。私のひいおばあちゃん」すると男は驚いて「カミーユってもしかしてあの?」「そうよ。ひいおじいちゃんはミシェル、かつてこの国の第二王子だったの」そしてアリス嬢は絵を眺め「この絵はなんとなくだけど、ひいおばあちゃんの感じがするわ。ひいおじいちゃんととても仲が良かったのよ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ