あるいは嘘をつくったグレー
沈黙の部屋に雨音が降る。
それはあまりに乱雑で痛々しく、まったくもって規則性がなく、しとやかな水気もなかった。ついでに女のうめき声も伴っていた。柔らかなウェーブのかかった長い髪がばさばさと振り回される。ざらりざらりとギターのようにかき鳴らされる横で、
「お嬢様はそろばんをお習いで?」
ぴんと糊のきいたシャツを着た老紳士が尋ねた。
ざらざらとけたたましく木の粒を弾いていた女は彼の声に手を止めた。
「……いいえ、まったく」
港湾都市エリスはこの国第三の都市だ。古くから商人や船乗りが集まり発展した。彼らの護衛や客である魔法使いたちも。
金物の腐食が早いこの街では魔法のコートを掛けた鉄鍋が重宝されたし、潮風に褪せた服の色味を元通りにする術の得意な魔法使いの元に洒落者が列を作っていた。……少し前までは。
最近は魔法に頼らない技術の発展が目覚ましい。魔法を使えぬ人々の幸福度を考えれば好ましいことだが、彼らの小さな望みを叶えることで対価を得ていた魔法使いたちは商売上がったりである。
便利な生活を享受しながらも、彼らは苦境に陥っていた。
先程までそろばんをかき鳴らしていたこの女もその一人である。
「昨今の風潮もですが……やはり急にお母上から代表が変わられたとなると、戸惑う方も多いのかもしれませんねえ」
老紳士が困ったようにつぶやく。
「それはそうに決まってる、いきなりあたしじゃ」
女は口をつぐんだ。
大通りから少し入った、それでも一等地にあるこぢんまりとした一軒家。三角屋根の二階建て、海沿いで湿気の多いこの地域は靴を脱いで家に上がるので玄関には段差がある。
入り口には『魔法のご依頼お受けします クラカウアー事務所』の札。流麗な字が年代と風格を感じさせる。女がもう一度大きなため息をついた。
「やっぱりあたしじゃ駄目なのかも……」
この女が主に依頼を受けるようになってからおよそひと月、玄関の木札はまだ一度も他人の手で揺らされたことがないのだった。
部屋の中には飴色の床に敷かれたシンプルなカーペット、年代物のローテーブル。
「そんなに足りないわけ」
勝手知ったる顔しかいないのをいいことに来客用のソファで寛いでいた、ひょろ長い東洋系の男が後ろへと向き直った。それそれ、と机の上の帳簿を指す。
「金」
女がため息をついて樫の書類机に寄りかかる。指された帳簿を手慰みにぺらぺらとめくった。ちなみに先程かき鳴らされていたそろばんは祖母のものである。
「依頼自体が一件もありませんからねえ」
優しげな目が鳴らない電話を見やる。
「正直あんたの給料もない」
「えっ」
「ないものは出せないから……」
若い女はこわごわ話しかけた。
「じゃあシュテファンさんの給料は?」
と男。
「私の雇い賃はミランダ様(女の母のことだ)持ちですのでお気になさらず」
「マ……母の時ってこういうことは」
ううん、と老紳士は言葉を濁した。
「年末はそれはもう忙しゅうございましたが」
「知ってる……」
妙齢の女は小さな頃忙しすぎてかまってもらえずすねていたこともあったな、などと物思いに耽る。……しかし思い出で腹は膨れないのであった。
数分の後、ソファに座り直していた男がぴくりと体を起こして玄関を見やった。一拍おいて革靴の足音、古めかしいドアノック。
「ごめんください!」
室内の三人は目を見合わせた。カーペットに足を滑らせながら女が玄関へかけていく。何かを蹴飛ばしたらしくあいた! という大きな声がする。玄関の重い扉が開くと部屋は少し明るくなった。戸口で何やら話す声が聞こえる中、男二人の目があう。
「……来ましたかね?」
「俺の給料?」
「の、元の元といったところでしょうか」
老紳士は目配せをした。
「どうかお嬢様を頼みましたよ、ヨルダ殿」
私も彼女の活躍を祈っているのです。
肉親に近い情で暗に告げる皺の奥の瞳に、ざっくりとした目礼で男は答え、相棒を追って玄関へと向かっていった。
*
「鍵を……開けてほしいんです」
若い男が言った。
ローテーブルの向かい側でようやくソファが本来の役目を果たしている。シュテファンの淹れた茶にありがとうございますと答えた後、彼は鞄に手を入れ、小さな箱を取り出した。
「これがどうしても開かなくて」
テーブルに置かれた木箱がコトリと音を立てた。
寄木細工の小箱だ。天辺をぱかりと開ける仕様だが、正面に小さな鍵穴がある。鍵を出してこなかったあたり付属の鍵はないか見つからないのだろう。ポツリと正解のない闇が開いていた。
「先日亡くなった祖父の遺品なのですが」
「それは、ご冥福をお祈りします」
「家族総出で頑張ってみてもわからないから、これはきっと魔法の品だろうと……。たしか祖父が昔依頼をしたと言っていたのが、クラカウアーという名字の魔法使いだと聞いたものですから」
「それはそれは……。祖母か母かもしれません」
若い女魔法使いとはたと目があって、はあ、と向かいの男はやや呆けた返事をした。
「……触ってもよろしいですか?」
「え、ええ、ああ……どうぞ」
女の白い指が木箱を持ち上げた。
その隣に座っているヨルダは向かいの来客を観察する。たしかヨーゼフといったか。気が弱そうだがどことなく品の良さを感じさせる。
「ヨーゼフさんは魔法使いですか?」
「僕ですか! ……いいえ。実はその、件の祖父までは少しだけ使えたようなのですが、父から先はさっぱりで」
隣の女の肩がぴくりと動く。
「はは。俺もさっぱり」
「そういったお宅は多いようですね」
とシュテファン。
「学校の魔法科も縮小傾向にあると聞きます」
「ゲルダ様の築かれた礎も今や苔むしておりますな……」
懐かしそうな目で老紳士はこの館のかつての主の名を出した。そういう一族なのだ、古から魔法使いの。
「神秘は失われつつあるからね……」
箱の裏を人差し指の爪でこつこつと叩きながら女が言った。
「そうなんですか」
目は箱に向けたまま頷く。
「だって、世の中はどんどん便利になるから。電話も照明も鉄道も、みんな魔法がなくたって今は使える」
手のひらに乗る程の箱をためつすがめつしながら黒髪の女はつぶやく。寄木細工の小箱は午後の光を受けてまろやかに光っている。彼女の長い髪は回された背を全て覆ってもあまりあるほどで、ときおり乱雑にばさりと掻き上げられていた。あまり丁寧に扱われているようではないが不思議と不潔感はない。聖堂の温かい光のような、それこそ神秘的なもののように青年には思えた。
「ええと、便利と不思議は相容れないってことですかね……」
「そうかも」
女ははっと顔を上げた。
「あ、ごめんなさい。初対面の方にいきなり馴れ馴れしく」
いえ、と青年が柔和な笑顔を見せる。
「なんだか魔法使いって感じで素敵です、そういったご意見」
少女のように女の頬が染まる。
「……見た目だけです」
「それでどうなの、それ」
ヨルダは女の脇腹をつつく。
「うん、そうだと思う」
女はヨーゼフを正面から見た。
「おそらくこの箱には魔法錠が設定されています。キーは場所と魔力……かな……」
「開くんですか!」
「はい。そのためにはそちらのお宅にお伺い……」
「お願いします!」
青年は勢いよく頭を下げた。
「僕は祖父に可愛がられて育ちました。両親の代わりにほとんど育ててもらったようなものだと思います。その祖父の部屋から僕宛に出てきたのがこれだったんです……。祖父の最後の言葉をどうしても聞きたい。どうか、お願いします」
あっけにとられていた女は、隣のヨルダに軽く頷くと青年……初めての客の手をとった。
「かしこまりました。このレイ=クリーグ・クラカウアーにおまかせを。祖母や母には……まだまだかないませんが、きっとあなたのお役に立ちましょう」
ちらと男は雇い主の手を盗み見た。
――かっこつけたものの、少々震えているのだった。
*
「レク?」
ヨルダが振り返る。
数日後、レイ=クリーグ・クラカウアーことレクとヨルダは長い坂を登っていた。
ヨーゼフの家は山の上にあった。エリスは港湾部こそなだらかだが住宅街に近づくほど標高が上がる。高級住宅街であればあるほど坂を登ることになる。山が近いのだ。一昔前であれば自然の要塞として重宝された利点だが、比較的平和な現代となっては体力をいたずらに削るだけである。
「つ、つかれ……」
基本的に歩幅の狂いがほぼないヨルダに対してレクはよろよろとしている。
「あと角いっこ」
「休憩……」
「さっきしたじゃねえか」
「鍛えてる、あんたとは、レベルが違う……」
気持ちの良い晴天だ。この時期のエリスは気候が良い。観光客もよく訪れる。
大きな家屋敷が広い間隔で並ぶアスファルトの上で、魔法使いの黒いローブと黒い髪は太陽の光を存分に吸っている。
「……暑くねえ?」
「暑い」
「なんで着てきたわけ?」
現にヨルダは上着を脱いで手に持っている。護身用の銃は上着からズボンのポケットに移した。
「箔つけとこうと思って……」
ローブは一応クラカウアー家代々のものだそうだが、一つを着回しているわけではなく一人一枚ある。つまり服も今日が初仕事だ。
「まだなんもついてないだろ」
ほら脱げ脱げ。汗をかいている彼女から黒衣を剥ぎ取る。
「家の前で着ろ」
未来の箔はせめて持ってやることにした。
長い坂道を登りきると大きな屋敷が見えてきた。
「すげえな、俺の給料」
「言い方」
しかし一月分の収入にあまりある謝礼を出してくれそうな気配があるのは彼女も同感だったらしく、期待を込めてチャイムを押した。
ヨーゼフに直々に出迎えられ、ほどなくして屋敷に案内される。レクの家とは規模の違う邸宅だ。明るい色の調度品の揃った応接間には三人の女性がいた。
一人はヨーゼフより少し年を取った妙齢の女性。もうひとりは車椅子の老婦人。
もう一人は召使いのようで、レクたちがやってくると一礼して去っていった。
「ようこそお越し下さいました。こちらは姉と、母です」
女性たちはそれぞれ一礼した。
「……レイ=クリーグ・クラカウアーです。ご依頼いただきありがとうございます。
こちらはヨルダ・ラウ」
緊張した様子でレクが自身とヨルダを紹介する。
「……どうも」
レクに脇腹をつつかれた。
「しゃきっとする!」
「良いのよ」
ヨーゼフの姉が笑った。
「お祖父様も亡くなったし、礼儀に厳しいものはもういないから」
「はあ」
お疲れでしょうと召使いが紅茶とクッキーを持ってきた。促されて席につき、アイスティーと茶菓子をいただく。
さくさくとしてバター香る市松模様のクッキーを紅茶で流し込みながら見やると、ヨーゼフと姉は明るい栗色の髪をしている。よく見ると似た姉弟だ。母だという老婦人はいくぶんか暗い髪であった。白髪染めかもしれない。
「不躾ですが、お祖父様はいつなくなったんで?」
ヨーゼフに尋ねる。
あなた話してなかったの、と姉に聞かれて彼は頭をかく。
「はい、二月ほど前です。……一通り葬儀が終わった後に、祖父の部屋を掃除する機会がありまして」
それで件の箱が出てきたらしい。
「子どもたちの小さい頃に私が体を壊していたものですから、ヨーゼフはすっかりおじいちゃん子で」
老婦人が頬に手を当てる。
「ヨーゼフはいいわよ。私なんかほとんど寄宿舎で育ったようなものよ?」
と姉。
何度も聞かされているのか、ほんとに悪かったわよ、と答える母も笑っている。
ちょうどグラスが空になったところで、ヨーゼフがおもむろに席を立った。
「箱を取ってきますね。少しお待ち下さい」
青年が去っていったところで親子の目がぐりんとレクに向いた。
「ねえねえ、魔法ってどう使うの?」
と姉。
「義父が使えるというのは聞いていたけれど……私、こんなにお若い魔女さんを見るの初めてよ」
と母。
「え、あ、あの」
「空とか飛べるの?」
「もしかしてお掃除もすぐ終わるのかしら。この足だと面倒なのよ」
「そ、そんなに、大それたことは……」
魔法の定義は色々あるが、すくなくともこの現代エリス市においては『人智の及ばない』もしくは『人間にやってできないことはないが手間がかかる』ことについてそう呼ばれることが多い。前者を行えるのは限られたもので、レクが扱えるのも主に後者だった。それこそ、『床の上の埃をかき集めて圧縮する』ことで掃除を一瞬で終わらせたりだとか。
「……掃除は、定義によります」
まあ! と目を見合わせる親子の向かいでヨルダは行儀悪く肘をつく。
「つってもこいつは整理整頓得意じゃないほう……いって」
レクは隣の男の肘をつねった。
「給料欲しかったら黙ってて」
「おまたせしました」
ヨーゼフが戻ってきた。クッキーの器の隣に先日の木箱がちょこんと乗る。
黒髪の女が白い指でそれを手に取った。
「……せっかくですので、少しお見せします」
緊張をふっと吐き出すと、小さな寄木細工の箱を手のひらに載せ、魔法使いは囁いた。
『あらわれよ』
水に薄墨を落としたように、手の上に靄がかかる。箱を洗うように包んだ靄はしばらく箱の回りでくるくると踊り、かき混ぜられるように軌跡を残し、雫を四滴天辺に落とすと、空気に溶けて消えていった。
――箱の天辺には、黒い文字が刻まれていた。
『ヨーゼフへ』
そして箱は昼間でもひときわわかる光を三方向へ放っていた。
「ヨーゼフさん、この場所からみて光の方角には何かありますか」
彼はぐるりと部屋を見渡して思案した。
「……はい。庭と、祖父の部屋と、僕の部屋だと思います」
「わかりました。
……おそらく鍵は四つあります。そのうち三つは指定の場所でキーワードを口にすれば開くもの。三つの鍵を解除すると四つ目が開く仕組みでしょう。……案内をお願いできますか?」
*
最初に向かったのは庭だった。
景観を模していて小さな池がある。のぞくと鯉がのんびり泳いでいた。意外と底は浅く揺れる藻がよく見える。
「祖父は東洋趣味がありまして。……小さい頃、ここでよく遊んでもらいました」
青年は目を細める。
「ニホンテイエンてやつ?」
ぱしゃりと跳ねる鯉を目で追う。
「もしかしてヨルダさんはそちらのご出身ですか?」
「あー……俺はヤーパンじゃなくて中華で」
といっても生まれも育ちもこの国だけど。ヨルダは答える。
東の大陸には広い国土を持つ商人の国がある。ヨルダのルーツはそこにあるらしいのだが、足を踏み入れたことはなかった。
「あ、すみません」
「いやいや。東洋系ってわかんねえよな」
「ヨーゼフさん」
レクが口を開いた。
「お祖父様の口癖とかってわかりますか? もしくは、ご自身がよく言われていた言葉とか」
「あ、はい、ええと……」
ヨーゼフがしばし考える。いくつかの単語を口にした後、最後にひねり出した言葉に女は、
「あ、それ」
と言った。
池が静まる。
いいですね? とレクは依頼人に目で聞いた。
ヨーゼフが頷く。
女が箱に語りかけた。
『天に愛されし道を行け』
水面に映し出されたのは、幼い頃のヨーゼフだった。
無邪気に遊ぶ子供は足を取られて池に落ちてしまう。慌ててやってきた白髪の男が大声で何かを唱える。水浸しの子供が池から救い出された。何が起こったのかわからない様子でぽかんとしていた子供は、祖父の顔を見ると一拍おいて泣き出した……。
「お祖父ちゃん」
ヨーゼフが顔を覆う。
「忘れられなかったんでしょうね」
レクがぼそりとつぶやく。
「あたしもよく言われます、幼少期のこの手の話」
「あー」
ヨルダも自身の祖父に耳にタコができるほど聞かされたエピソードを思い出す。保育園を抜け出したのだが、最後にいた店の店員より警察より祖父が一番怖かった。
「……はい、僕もよく聞きました。死ぬところだったんだぞと。……この池が浅いのはこのせいです」
懐かしそうな目でしばらく庭を見つめると、彼は振り返った。
「次に行きましょう」
*
主を失った部屋はそれでも誇り高くあった。
分厚い本が並び、手に取りやすいところにアルバムも入っている。
「お祖父様はどんな仕事をされていたんでしたっけ」
「貿易商です。……魔法が少し使えたと言ったでしょう。一番は魔道具に目が利いたんです」
もしかしたらその関係でクラカウアーさんのお祖母様と取引があったのかも。
青年は笑った。
ヨルダは今はレクの手にある箱を見る。
「それって、俺が持ってさっきのやつを言っても開くわけ」
レクは首を横に振った。
「これは一定以上の魔力の持ち主が唱えないと……」
この世界の人間は基本的に大なり小なり魔力を持つが、レクの母のような強い魔法使いの力を百としたらヨーゼフはせいぜい一か二だろう。
「開けますか?」
才を持たぬ孫は頷いた。
……母や祖母を百としたら、レクの魔力はおよそ五十ほどであった。
『天に愛されし道を行け』
本棚をスクリーンに映し出されたのは親子三代の姿だ。
幼子を抱く明るい栗色の髪の男はヨーゼフによく似ている。
冬のような瞳を持つ老人が男から幼子を受け取った。
栗色の髪の男がなにか聞かれて首を横に振る。それはそれは、悲しそうに。
老人は頷いた。……それから、額に口づけた。
「……祖父は、父に魔法の才がないことがわかって、取り扱いの品を変えたそうです。僕にも姉にもなくて……。
祖父は古き良き風習や時代に哀愁を感じる人でしたから、父や僕たちを残念に思ったかもしれませんね」
女はただ口をつぐんだ。
ヨルダは頭をかく。
「……まあ、んなこといっても人は死ぬしないもんはないし」
「言い方!」
「いって」
どつかれながらも彼は続ける。
「俺たちは生きているし、あるもので食ってくしかないんだから、ほんとにお祖父さんがそう思ってたとしても、その『残念』は受け取り拒否でもいいんじゃないすか」
「そもそも受け取るかどうかもヨーゼフさんの意思だし気軽なジャブ的身の上話かもしれないでしょ」
慌てて揺さぶってくるレクの横でヨーゼフは困ったように微笑んでいる。
「ごめんなさい今のは忘れてください。お祖父様の気持ちも好きに考えて」
彼女は二人を押して部屋を出る。
ヨルダを押している時、ぼそりと言ったのが聞こえた。
「それって、持ってるもの視点の傲慢じゃない?」
*
ヨーゼフの部屋は日当たりがよく、午後の光が白い埃をきらきらと輝かせていた。初心者向けの財務や商取引の本が並んでいる。
「今は父が一手に引き受けていますが、やっぱり僕も家業を継ぎたいんです。……簡単なことじゃないのはわかってるんですけど……」
「いつか取引相手になれたら嬉しいです」
レクが笑って言った。
ヨーゼフは一瞬頬を赤くする。が、
「……はい。ぜひ」
先程の映像の父にそっくりな顔で頷いた。
『天に愛されし道を行け』
小箱が開く。
囁きに答えたのは、杖をついた老人の姿であった。
「おじいちゃん!」
ヨーゼフが駆け寄るが故人は腕をすり抜ける。
「映像です」
無情な声が言った。
ヨルダはうなだれた孫の肩を叩く。
「まあ、聞こう」
『……ヨーゼフ』
しわがれた声が暖かな部屋に響いた。
『わしのおらん世界はどうかの』
祖父と孫は柔らかな言葉をかわしていた。
二人はそっと距離を取り、ほほえみ合う孫と子を見守った。
故人が静かに消えていく。
『もしどうしても辛ければ、箱をもう一度開くといい。お前の助けになろう』
ヨーゼフは頷いている。
レクがおもむろに箱を覗き込み、
「あ」
と小さく声を上げた。
「なにかあるんですか?」
ヨーゼフが聞いてくる。
「いえ……」
「でも今」
「いいえ」
彼女は一瞬目を箱に戻すと、
「……お辛い時に、見てみてください」
とだけ言って、笑った。
灰色の虹彩が赤い火花をちらす。
ヨーゼフは祖父の影に向き直った。
魔法使いは箱から小さな紙をつまみだすと、その手でぐしゃりと握りつぶした。
*
「ありがとうございました」
ヨーゼフに深々とお辞儀をされ、レクとヨルダは恐縮した。
隣で彼の姉も玄関まで見送りに来てくれている。母とは先程応接間で別れた。
「最後にもうひと目祖父に会えて、本当に嬉しかった。
……不思議の力がなくても、生きていこうと思います。父さんもそうして頑張っているんだから、僕だって」
「きっとできますよ」
魔法使いは微笑む。
「庭も祖父の部屋も最近入れていなかったんです。寂しくて。……部屋にも愛着が湧きそうです」
姉が指折り数える。
「あれ、そういえば鍵は四つって言ってなかった?」
「……ごめんなさい、鍵は三つだったみたいです。あたしの見当違いでした」
申し訳無さそうな顔をしてレクが頭を下げた。
「ですので解除の料金は三つ分でかまいません」
横でヨルダは頬をかいている。
「承知しました。料金はのちほど口座に振り込みますので」
夕焼けに見送られ、二人は玄関を出た。
「またね、魔法使いさん!」
姉の言葉にレクは照れくさそうに笑った。
「またのご依頼、お待ちしております」
*
「なあ、それ何」
夕暮れの山の端を背にして、ヨルダはレクのローブのポケットを指差した。
中には箱に入っていた何かがあるはずである。
若い女は逡巡ののち答えた。
「『呪い』」
「……呪い?」
一拍おいてヨルダが飛び退く。
レクがポケットから白い紙を出す。
「これは『吸着紙』っていわれていて、陣を描いたり罠を仕掛ける時に余計な魔力を吸うためのもの。切れ端だからそんなにたくさんは吸えないけど」
魔道具の貿易商だったら売り物にならない端っこを持ってても不思議はないよ。
淡々とした灰色の瞳は吹けば飛ぶような紙を見つめる。
ヨルダはそろそろと戻ってきた。
「……その説明だと何も怖くないように見えるんだけど?」
「『魔力を吸う』って言ったでしょ。
魔法を使えないくらい魔力のない人が素手でうかつに触ると手持ちの魔力全部取られて気を失う」
頭打ったら下手すると死ぬでしょ。
レクは言った。どこか傷ついた瞳をしていた。
魔力はこの世界の人間誰もに流れている。魔力が尽きると気を失うのは、意識を保つ際わずかに使われているからだ……という研究結果もあるが、詳細はまだわかっていない。
「もしあたしがおばあちゃんにこれを渡されたら最悪首を吊る」
「どうして」
「『あんたの魔力はこいつで吸い付くせるほどしかない』って古い罵倒の表現があるの」
「……」
祖母は世紀の大魔法使いと言われた五賢人の一人にして中興の祖。
母は彼女を凌ぐとも言われる強い力を持つクラカウアー家の現当主。
その娘である凡庸な魔法使いが彼女だった。
「……吊るなよ?」
「大丈夫」
手の内の紙がぐしゃりと潰れる。
『クリーグ』とはこの国の古語で灰色の意だ。かつてその色は「聡明」のたとえであった。転じて『曖昧な角を立てない受け答え』としても使われた。
レクに名前をつけたのは祖母であった。
本当の、あるいは嘘を作った、灰色の目の女は笑った。
「あたしはまだ立ってる」
幸いにも不幸にも、滴るほどの魔力を吸い込んだ小さな白い紙は、薄墨のような不思議の力に塗りつぶされ、いつの間にか役目を終えて溶けていった。
作中タイトルはお題をお借りしました。
https://slot-maker.com/slot/eYDnKpDjGwuiekwZFaaa/
BGMはだいたいヒゲダンです。
十年くらい前に考えた話なので雰囲気とかたぶん今どきの流行りじゃないと思いますが、自分で読みたかったので書きました。




