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虚像に手を振って

作者: 海山 里志

 妻が亡くなった。流行病はやりやまいだった。最期はそばで泣きつくこともできず、冷たいガラス越しに、長く響く機械音を聴くことしかできなかった。


 その時は義実家の方々も総出で看取っていて、義母が私の背中をさすってくれていた。私はというと胸の内から溢れるものを整理することもできず、ただ目からそれを溢すことしかできなかった。


 それからというもの、毎週末の墓参が私の習慣となった。

 私は今日も妻の眠る墓に手を合わせる。


「今日も、いらしてたんですね、誠司せいじさん」

「みお……、いや、汐音しおんさん」


 妻海音(みおん)とよく似た声が耳に届く。顔をそちらに向けると、生前の妻と同じ姿をした、しかし妻とは別人として見なければいけない女性――妻の双子の妹――汐音が立っていた。


 海音と汐音は双子ということもあり、遠目から見たらよく似ている。でも確かに違う人なんだ。海音は右に泣きぼくろがあるが、汐音は左に泣きぼくろがある。海音は生前黒縁の眼鏡をかけていたが、汐音はコンタクトレンズを愛用している。海音はセミロングだが汐音はショートボブだ。海音の好きな色はエメラルドグリーンで汐音の好きな色はダークブルー。……そのはずだったのだが、今日目の前に現れた汐音は、エメラルドグリーンのコーデで現れた。


「あの、もし誠司さんがこのあとお時間よろしければ、一緒にお茶しませんか?」

「ああ。時間は問題ない」

「よかった! ちょうど近くに、雰囲気のいい喫茶店があるんです。そこに行きましょう」


 喫茶店か。たまに海音が連れていってくれたっけ――そんなことを考えながら、私は汐音についていった。


     *     *     *


 驚いたことに、汐音が案内してくれた喫茶店は、生前海音と通った喫茶店だった。


「ここは……」

「驚きましたか? ここは私と姉が高校時代から通ってた喫茶店なんです」

「その頃からアメリカンを?」

「まさか! 姉が本当に好きだったのはメロンフロートだったんですよ」


 愕然とした。海音は生前私の前ではアメリカンしか飲まなかった。しかし、言われてみれば確かに、角砂糖を五個も入れていた気がする。私の為に無理をさせていたとしたら申し訳ない。そして私は付き合う前の海音についてあまりにも知らなさすぎる。


「とりあえず入ろうか。昔の海音のことを知りたくなった」

「ええ。私も結婚してからの姉のこと、誠司さんから聞きたいです」


 汐音はアメリカンを、私はメロンフロートを注文した。運ばれてきたものの色のどぎつさに目を丸くし、甘ったるさに辟易したが、これが妻の本当に愛した味なのだと思うと我慢できた。それは汐音も同じようで、一口すすって顔をしかめたが、それでもカップを傾けるのをやめなかった。


「海音に無理をさせていたのかもしれない」


 言わずにはいられなかった。それを耳にした汐音は私をじっとみつめてカップを置いた。


「私は自分の好みも、生活習慣も、価値観も全て、海音に押し付けていたのかもしれない。妻が何を思い何を感じていたのか知ろうとせず、海音を縛っていたのかもしれない。我ながらひどい夫だ」

「誠司さん、それは違います。生前姉は言ってました。『私は幸せだ』って。『こんないいひとと巡り会えたんだから』って。姉の――あなたの奥さんの笑顔を思い出してあげてください。そこに嘘や隠し事なんてなかったはずです」

「でも、私は妻の病気に気付けなかった! 助けることさえできなかった!」


 思わずテーブルに拳を叩きつけ、大声を出してしまう。汐音はびくりと肩を震わせた。私は我に返り、水を飲みほした。


「すまない」

「いえ……。誠司さんは、『好き』と『愛してる』の違いって何だと思いますか?」


 随分と哲学的な問いだと思った。それでも私は真剣に考える。


「何だろう。『愛してる』の方が重い気がする」

「その”重い”が重要なんですよ。『好き』は別になくても困らないんです。例えば私はメロンフロートが好きですけど、なくても困りません。でも『愛してる』は、その対象が存在しない生活なんて考えられないんです。私は姉のことを愛しています。誠司さんもそうだと思います。だからこそ私たちは、今でも姉のことを考えずにはいられないんです」


 なるほどと思いながらメロンフロートを口に含む。相変わらず甘ったるいが、そこに優しさが浮かんだ気がした。

 それから私は結婚してからの海音のことを汐音に語り、汐音は結婚する前の海音のことを聞かせてくれた。中には初めて聞く話も多かった。例えば、彼女が同人小説を書いていたこと――これは汐音との二人だけの秘密だったらしい。それから実は料理が苦手なこと――全くそれを感じさせなかったので花嫁修業には大層力を入れたのだろうと思うと微笑ましくなった。あとは、恋愛経験が全くなかったこと――だから付き合いたての頃妙に奥手だったのかと納得させられた。

 愛する人についての話題というのは尽きないもので、あっという間に閉店の時刻となった。帰り際汐音はこんな提案をしてきた。


「誠司さん、もしよろしければ、また会えませんか? 姉のこと、もっと聞きたいですし、もっと語りたいです」

「同感だ。土日は基本的に空いてるから」

「では、来週の土曜日にしましょう」

 私たちはそう約束を交わし、それぞれの帰路へと就いた。


     *     *     *


 それからというもの、私と汐音は毎週のように会うようになった。初めに断っておくと、互いに恋愛感情なんて存在しない。私たちの関係は言うなれば遺族の会――海音を喪った悲しみを互いに分かち合うだけの関係だ。

 会うのを重ねるごとに、汐音の見た目は海音に近づいていった。エメラルドグリーンのコーデに始まり、まつ毛の長さ、眉の濃さ、口紅の色……。次第に記憶の中の海音と汐音が混ざり始めた。

 しかしそれを止めるのも酷な話だった。ある時汐音に尋ねたのだ。


「汐音さん、最近海音に似たコーデをするようになったみたいだけど、何か理由があるの?」

「この格好をすると、鏡を見ればいつでも姉に会えるんです。ほら、私たち双子でよく似てるじゃないですか。泣きぼくろも、姉は右で私は左。鏡の世界は反転するから、ちょうど姉と同じになるんです。でも、眼鏡を注文しないといけないですね。姉は黒縁の眼鏡を愛用してましたから」


 汐音が眼鏡をかけたとき、私の中の大切な何かが失われる――そんな予感めいたものが渦巻いた。しかしそれをどうして止めることができようか。それを止めてしまったら、きっと汐音は壊れてしまう。心の天秤はゆらゆらと揺れていた。


     *     *     *


 その時はなんの心の準備もできてないままやってきた。いつもの喫茶店の前で汐音を待つ。


「お待たせしました!」


 声のした方に顔を向ける。その瞬間、私の記憶の中の海音の像が歪み始めた。泣きぼくろが右になり、表情が物憂げになり、そして眼鏡の色が赤になった……。


「やめてくれ!!!」


 思わず汐音の眼鏡を叩き落としていた。直後、しまったと思ったがもう遅い。


「あ、ご、ごめんなさい」

「いや、こちらこそごめん。手を出すつもりはなかったんだ」

「いえ、私が悪いんです。姉の面影を追い続ける、結局は私のエゴなんです」


 返す言葉が見つからなかった。汐音は目を潤ませて、しかしはっきりと口にした。


「私たち、もう会わない方がいいでしょう。これ以上はきっと、お互いの為になりません。今までありがとうございました。さよなら」


 汐音は踵を返し駆けだしていった。私はその様子を、ただ茫然と見送ることしかできなかった。


     *     *     *


 翌週汐音から小包が届いた。中を開けると、女性もののエメラルドグリーンの衣類が入っていた。中には手紙も入っていた。私は早速読んでみる。


 誠司様

 生前は姉と仲良くしてくださりありがとうございました。また、私のエゴに付き合わせてしまい申し訳ありませんでした。

 人は二度死ぬと言います。一回目はその生を終えたとき、二回目は忘れ去られた時です。私は姉を天国に送ろうと思います。

 でも誠司さんには、姉のことをいつでも思い出してほしいと思います。誠司さんと将来を誓った姉も同じ思いでいると思います。

 姉の結婚前の衣装を送ります。この衣装を見ながら、私の話を思い出し、結婚する前の姉に思いを馳せてください。

 それでは、さようなら

 汐音


 目から熱いものが零れた。それを拭い、私は出かける支度を始める。行先はあの喫茶店。メロンフロートとアメリカンを飲みたくなった。

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