消えた兵士
その日、西の最前線に一人の伝令が駆け込み、軍の大将に中央からの書簡が届けられた。それを見た大将は驚きに目を見開くが、何も言わずにその書簡を受け取る。
日が傾き、辺りが少しずつ暗くなる頃、各軍の隊長が大将のテントに集められる。そこで、大将は口を開いた。
「本日、中央より書簡が届いた。その内容について、周知しておきたい」
一同の顔を見回し、大将は懐から書簡を取り出すと、一番近くの隊長に手渡した。
「中央からの指令は一つ。明日中に、敵を討ち倒せ」
「な、何を無茶な!?そんなことできるわけがない!」
「えっ?でもこれは――」
書簡を受け取り、それを読んでいた隊長が口を開こうとしたが、大将はそれを手で制す。
「だが、やらなければ、我が国は終わる。だからこその、一か八かの賭けに出るのだ」
書簡を読み終わった隊長はそれを隣に回し、一人一人がその内容を把握していく。そこに書かれていた内容は、今大将が話している内容と余りにも違っており、やがてこの話自体が大がかりなブラフなのだと気づく。
「いいか。明日、日が昇り切った頃、我等は全兵力を持っての突撃を開始する。左翼はファンガス、お前に任せる」
「はっ!」
「右翼はケーロにディッグ、二人に任せる。両翼は敵を押し留め、中央突破の邪魔をさせるな」
「御意!」
「我が国の存亡は、この一戦に掛かっている。全員、本日は英気を養い、明日の突撃に備えよ。皆の奮闘を期待する」
「おう!」
大将の言葉に、一同は一際大きな声で答える。そして、各々自身を鼓舞するようなことを話しつつ、持ち場に戻って行った。
同時刻、ウィックス皇国側の本陣では、一人の男が目を瞑って両耳に手を添えていた。やがて静かに目を開けると、ニヤリとした笑みを浮かべる。
「やっこさん達、とうとう突撃してくるみたいですぜ。西からも東からも攻められてちゃ、そうするしかねえもんなあ」
「ご苦労、『聞き耳ダルガ』よ。して、いつ仕掛けると?」
「明日の日が昇った頃に、中央突破を仕掛けてくるそうですぜ。左翼は『突撃ランサー』のファンガス。右翼には手堅いケーロとディッグ。あとは中央って布陣みたいですぜ」
戦線が拮抗していた一因は、間違いなくこの男である。彼の『聞き耳』は意識を飛ばした先の音を拾うことができ、軍略会議など完全に筒抜けである。これによって、相手の夜襲も奇襲も防ぐことができていたのだ。寡兵が奇襲を使えなければ、あとは数で押し潰すだけである。いかに精強と言われるフォーヘイロ軍とて、倍の人数差を押し返すことは難しい。
「ならば、全軍に通達しろ。明日、我々は奴等を待ち受け、殲滅するとな。今夜のうちに、落とし穴や逆茂木を増やしておけ」
「承知しました。やれやれ、ようやくこの先へ進めますな。ここさえ乗り切れば、あとはもう空っぽの王都を落とすだけ。エイストには悪いですけど、一足先に占領させてもらいましょうか」
そして、ウィックス皇国の者達は、明日の勝利を確信して笑うのだった。
翌日、ウィックス皇国側は万全の準備を整え、フォーヘイロ軍の突撃を待ち構えていた。相手は突撃の前に腹ごしらえでもしているのか、いくつか煙が立っているのは見えるが突撃の気配はない。
日が昇って十分経ち、三十分経ち、ついに一時間が経過した頃、さすがに様子がおかしいと、ウィックス皇国軍に戸惑いが広がっていく。
「ダルガ、奴等は確かに、日が昇ったら突撃すると言っていたのだな?」
「ま、間違いないですぜ!中央から『明日中に敵を倒せ』って指令が来て、そのために全軍突撃するって……!」
「だが、全く動かないではないか。何か間違っていたということは?」
「あり得ねえ!俺は確実に聞いた!何で動かねえかは……わかんねえですけど」
このままでは埒が明かないということで、数人の偵察兵が敵本陣の偵察を命じられ、慎重に近づいていく。やがて、陣の各所を明確に目視できるようになったところで、明らかに様子がおかしいことに気付く。
「見張りすらいない……?それどころか、火の始末をしていないだと?」
煙の上がっているところでは、恐らく朝食にでもなるはずだったのだろう。鍋が火に掛けられたままになっており、中の食材が半分炭化している。テントの中を覗いてみれば、いくつかのテントでは食べかけの夜食が残されており、書きかけの家族への手紙すら見つかった。
しかし、おかしいのはそれだけではない。昨日まで確実にいたはずの兵士は誰一人として見当たらず、しかしながら馬などは何頭かが繋がれたままになっており、装備に至ってはほぼ手つかずの状態である。
食糧庫の中を覗いてみると、携帯食料が少なくなっているが、これは今日の決戦に備えて各々が持つ分を振り分けたためだろう。
「これは、一体……ど、どうします?」
「……まずは、全員呼び寄せる。この陣地に何が起きたのか、調べる必要があるかもしれん」
少なくとも、伏兵などの心配はなさそうだったため、偵察部隊の隊長は鏡を使い、本陣へ集まるよう指示を送る。やがて、ウィックス皇国の全軍が進軍し、昨日までフォーヘイロ軍の本陣だった場所へと集まった。
「一体、何が起きたんだ?誰一人いないだと?」
「だが、一部はついさっきまで、誰かがいたような形跡が残っている。近くに潜んでいるかもしれん、引き続き警戒に当たる」
本陣の調査を本隊に任せると、偵察部隊はフォーヘイロ軍の痕跡を調べ始めた。と言っても、痕跡など足跡ぐらいしかないため、調査はかなり難航したが、やがてフォーヘイロの王都側へと続く、いくつかの足跡を発見した。
本隊にその報告を済ませ、偵察部隊は足跡を辿って歩き出す。何人かが慌てて走っていたようで、しかも時々後ろを振り返ったように、足跡が曲がっているときがある。
「なんか……気味悪いですね」
「魔物にでも追われたか?何にしろ、辿ってみれば何かわかるかもしれん」
そして、正午を少し過ぎた頃。偵察部隊はついに、足跡を辿り終えた。
「……どういう……ことだ?」
「……俺に聞くな」
目の前には切り立った崖がそびえており、足跡はその岩肌に向かって消えていた。登った痕跡はなく、迂回した様子もなく、しかも足跡の一つは、半ば岩の中にめり込むようにつけられていた。痕跡だけを辿るのなら、まるで岩肌の中に飲み込まれていったようにしか見えない。
「くそ、訳わかんねえ……!フォーヘイロの奴等はどこに消えたんだよ!?」
苛立ちのあまり、偵察兵の一人がつい叫んでしまう。普通ならば、即座に咎められるような行動だったが、今は誰もそれを咎めなかった。
「わからんものを考えても仕方ない。他の足跡を探そう。途中でどこかに逸れたものがあるかもしれん」
隊長はあくまでも冷静に言うが、内心では訳の分からぬ事態に激しく混乱していた。突撃してくるはずの軍が忽然と消え失せ、何かから逃げるような足跡は崖の中へと消えている。一体何が起きたのか、推測することすらできない。それでも、自分が動揺すれば、部下のみならず、全軍にそれが伝わってしまう。その責任感だけで、隊長は動揺を押し殺し、努めて冷静に振る舞っていた。
周辺を捜索していると、一つだけ違う場所へ向かう足跡があった。やはり先程の足跡は囮かと、改めて戦闘への心構えをしながら辿っていくと、今回も比較的すぐに辿り終えた。
「あ……あ、ああ…………あぁ……あ、あ……」
小さな声を上げ、蹲る男。フォーヘイロの兵ではあるようだったが、何もないところでガタガタ震えているその姿は、とてもあの精強を誇る兵には見えなかった。それでも、騙し討ちの可能性もある。
偵察部隊は戦闘態勢を整えると、震えるフォーヘイロ兵に声をかけた。
「おい、お前――」
「ひ、人っ!?ああっ、ああああああっ!!」
フォーヘイロ兵はガバリと顔を上げ、偵察兵に突っ込んだ。思わず武器を構えるが、フォーヘイロ兵は足をもつれさせて転び、そのまま先頭にいた偵察兵の足に縋りついた。
「あああああ……よ、夜……闇が……ひ、ひぃ、ひぃぃぃ……!」
「ぐっ……おい、離せ!何が起こった!?他の奴等はどこへ行った!?お前はここで何をしていた!?」
「夜が……夜、が……あぁぁ……闇、いやだ…………たすけて……たすけて……!」
フォーヘイロ兵は完全な錯乱状態になっており、とても話ができる状況ではなかった。足に縋りつく力も異常なほど強く、足を振って振り払おうとしているのだが、まったく離れる気配が無い。
「おい、離れろ!離れろって!クソ!た、隊長!こいつどうしますか!?」
「……落ち着けば、何か有益な情報を吐くかもしれん。とにかく一度、こいつを連れて本隊に戻るぞ」
何やら極度に闇を恐れている敵兵など、出来ればその場で殺して見なかったことにしてしまいたいのだが、フォーヘイロ軍が突如消え失せ、唯一見つかった兵士がこの有様である。この異常事態が自分達に起こらないとも限らず、偵察部隊は錯乱した兵士を自分達の本隊へと連れて帰った。
連れ帰ったフォーヘイロ兵に、水とパンを与えてみるが、食べる気配はない。次に尋問をしてみようと、それを専門にしている兵士を連れてくる。
「こいつだ。ただ怯えてるふりをしている可能性がある。頼めるか」
「任せろ。――おい、お前。俺の言っていることはわかるか?」
「あぁ……ああぁぁ…………闇、嫌だ……嫌だ……」
「おい、聞いているか?お前達に、何があった?」
「なに、が……あ、あ、あああぁぁぁ!嫌だ!夜、闇、いやだ!夜が、夜がぁぁぁ!!」
突然興奮状態になった兵士を、周りの者が即座に押さえつける。それを見ながら、尋問していた兵士は難しい顔をしている。
「どうだった?こいつのこれは、演技か?」
「……判定不能、だ」
その言葉に、偵察兵の隊長は目を見開く。
「は!?何だそれは!?『真偽鑑定』で判別不能!?まさか、スキルを欺くスキルでも持っているのか!?」
「わからん。わからん、が、真でも偽でもないのだ。つまり、判定が出ない。もしかしたらこいつは、本格的に狂っていて、質問に答えるとか、そういった概念が消えているのかもしれん」
「概念が消える?すると……どうなると言うんだ?」
「たとえるなら……そうだな。目の前にパンとパスタがある。どっちが逞しいと思う?」
「はあ?お前、頭イカレてるのか?どっちも逞しい訳があるか」
「そういうことだ。それが、真でも偽でもない状態、つまり答えられないんだ。この錯乱状態が落ち着けば、少しは反応があるかもしれんが……」
「だが、こいつにいつまでもかかずらっている訳にもいかん。場合によっては、捨てていくことも検討しよう……逞しいパスタとパン……」
結局、尋問でも男からは何の情報も引き出せず、偵察隊長の頭に余計な情報が残るだけの結果となった。
突然消え失せた軍勢に、岩肌へ消える足跡。そして闇を恐れる兵士。何とも言えぬ気味の悪さを感じながらも、ウィックス皇国軍はひとまずその場で野営をすることに決めるのだった。
極度の錯乱状態だったフォーヘイロ兵、アスターは錯乱状態を演じつつ、昨夜のことを思い返していた。
『で、なぜ俺なんかが隊長クラスの集まりに呼ばれたんですか?そして、なぜ俺だけ残されたんですか?』
隊長達が帰った後、唯一残るように指示を受けていたアスターは、大将に筆談でそう尋ねた。
『例の作戦は、たまたま王都にいた冒険者が考えたそうだ。それを、軍師ジェイコヴが他の軍師とも協力し、作戦と言える形まで整えたそうだ』
『ああ、なるほど。道理でぶっ飛んだ作戦だ』
王都からの指示は、夜陰に紛れて敵兵に気付かれず退却しろ。その際、荷物はすべてその場に投棄。やりかけている仕事もすべてそのままにしろ。タイミングは隊長ごとに自由に設定しろ。そして可及的速やかに東のエイスト軍との戦闘に加われ、というとんでもない内容であった。王都に来れば一日の休憩と装備の支給を行う、という部分に、一欠片の優しさは感じるが。
『一夜にして軍勢がいなくなり、何もかもがそのままであれば、敵兵は何が起きたかわからず、警戒を強いられ、追撃の足が遅れる。それがこの作戦の肝だ。しかし、それだけでは良くて二日、最悪一日しか稼げないと軍師は判断した』
そう書き綴る大将の顔には、何ともいえない表情が浮かんでいた。
『アスター、お前のスキルは『演技』で間違いなかったな?本当は兵士ではなく、役者になりたかったのだと聞いている』
『よくもまあ、こんな木端兵士の一人のスキルをご存じで。間違いないですよ』
『出来れば一週間、最悪でも三日は、時間を稼ぎたい。そのために、お前のスキルと』
そこまで書いて、大将は一度手を止め、そして深呼吸をしてから続きを書いた。
『お前の命を、使ってくれ』
それを読んだ瞬間、アスターはまるで頭をメイスでぶん殴られたように感じた。
死の覚悟はしている。いつだって、今日こそ死ぬかもしれないと思いつつ戦闘に参加している。だから、死ぬことの覚悟はできているつもりだった。
だが、戦闘であれば、敵を殺すことで、攻撃を防ぐことで、その運命から逃れることができる。しかし、明確に『死ね』という命令を受けたということは、戦闘と違って逃れることができない。つまり、今ここに、自分の命運が決まったのだ。
アスターが答えられずにいると、大将は表情を顔に出さないよう努力しつつ、続きを書き始める。
『兵士ではなく、役者になってほしい。この国を救うには、この作戦を成功させるしかない。兵士としてではなく、役者として、救国の英雄になってくれないか』
ああ、ずるいなあと、アスターはどこか他人事のように思う。
ずっと、役者になりたかった。四歳の時にはこのスキルを覚え、ずっと役者になるつもりだった。
しかし、体格の良さを買われてしまい、兵士として生きる以外の道が無くなった。夢を諦めつつも、たまに物真似や一人芝居で仲間を楽しませ、役者というものに縋りついていた。
そこに、役者としての任務が来た。確実に命を失い、その代わりに国を救う、救国の英雄。それをできるのは、自分をおいて他にいない。何をどう考えたって、答えなど決まっている。