起の旋律-②
課題曲が発表された日の夜、私は人気のない庭の隅で課題曲を口ずさんでいた。
消灯時間まで何度も練習していたが、いくら練習しても問題解決の糸口を掴むことができなかったので、こっそり部屋を抜け出してきたのだ。
一通り課題曲を歌い終わると、「上手いな」という声が背後から投げかけられた。
慌てて振り返ると、草陰から少し眠そうな表情を浮かべる煌が現れた。
「ありがとう」
本来は喜びながら返すべき言葉のはずだったが、私は思わず大きくため息をついてしまった。
「どうした? 虐められたのか?」
「何それ」
全く見当違いの心配をされ思わず私は苦笑してしまった。
確かに婉兒様の取り巻きは鬱陶しかったが、あんな嫌味だけなら別に可愛いものだ。
「虐められていたらいつでも俺に言え。絶対、俺が守ってやるから」
「それ、私の台詞だよ」
劇場時代、少女のように可愛らしい顔立ちをしていた煌は、よく虐められていた。そして、それを守っていたのが私だったのだ。
「今は違うだろ」
「まぁ、あんたの方が後宮では私より二年も先輩だもんね」
不服そうな表情を浮かべる煌が面白く、小さく笑いながら同意すると「そうじゃなくて」と勢いよく否定された。
「俺、実は――」
また、彼の口から嘘が出てきそうな予感がし、私は慌てて煌の言葉を遮ることにした。
「私の歌、上手かった?」
「うん。すごく上手い」
私の疑問に煌は、即座に被せるように肯定してくれた。
「高音、低音が連続しているのに、華蓉は正確に歌えていた。本当にすごいよ。さすがだ」
そんなに長い間、私の歌を物陰に隠れて聞いていたのかと思うと、こそばゆい気がしてきた。
「選抜試験の課題曲だろ。すごく難しいって、宦官楽師の間でも話題になっているんだ」
「そっか……。実は講師にも言われたんだ」
「やっぱり! さすが歌劇団の講師だ見る目があるなぁ~! 冬の部の主演者になれるって言われただろ?」
煌は、嬉しそうに私の手を取るとそう言った。
婉兒以上にとんでもないことを言う煌に、思わず笑ってしまった。
「講師からさ……」
その先の言葉を言おうかためらい言葉を止めた。
ここから先は、完全に愚痴でしかない。
それを煌に聞かせていいものか悩んだが、握られた手のひらの温かさが心地よく思わず言葉を続けてしまった。
「『初見で音を一個も外していないのは凄いけど、それだけね』って言われたんだ」
昼間、講師から言われた言葉を思い出し、私は思わずうつむいてしまう。
完璧に歌えたと思っていただけに、その言葉は今も私の胸の中に刺さり、時間と共にジワジワと私を苦しめた。
「は?」
叫ぶようにして聞き返した煌を見ると、明らかに怒りを露わにしているのが分かった。
「何、言ってんだ? そいつ」
先ほどまで絶賛していた煌が、アッサリと手のひらを返され、フッと気持ちが軽くなるような気がした。
「いやいや、煌もそう思ったでしょ? 難しい譜面を正確に歌えていることに驚いていたよね」
私の言葉に煌は、「あっ」と短くつぶやくと、言葉を失った。
「でもさ、これ恋の歌なんだよね。私のはさ……。聞いている人を泣かせるような感じじゃないでしょ?」
これは劇場に立っていた時も感じていたことだ。
私の超絶技巧に聞き惚れる人が多かったのは知っている。
さらに、男装して微笑むと黄色い声を上げる女性客も少なからずいた。
だが、誰かの心を震わせるような感動を与えることができていなかった。
「これじゃあ……。端役にもなれないよ……」
ずっと我慢していた恐怖が、言葉にすることであふれ出す。気づいた時には大粒の涙が頬を伝うのが分かった。
「私、歌姫になりたくて後宮に来たの」
「主席楽師のこと?」
煌に尋ねられ、私は静かにうなずく。
「母様がね、死ぬ間際に『後宮に行きなさい』って言ったの。
それってさ、自分がなれなかった歌劇団の歌姫になって欲しいってことだと思うんだよね。だから、死ぬほど歌も踊りも楽器だって練習したの」
言いながら自分の不甲斐なさと愚かさに涙が次から次へと流れてきた。
今日の今日まで自分が首席楽師になれると信じて疑っていなかったのだ。
心のどこかで『頑張れば冬の部の主演者になれる』と思っていた。
その自信が一日にして瓦解したのだ。
恥ずかしさで死んでしまいたかった。
声を上げて泣く私に、煌は静かに「うん」「うん」と頷きながら、私の手を強く握ってくれた。
「大丈夫。俺が何とかするから」
煌の実現しそうにもない嘘が、その時の私には何よりも心地がよく聞こえてしまった。




