起の旋律-①
歌劇団の見習い楽師は、朝から晩まで様々なことを叩き込まれる。
見習い楽師の大半が歌、楽器、舞踏などの基本を卒なくこなすことができるが、後宮流を身に着けている人間はほとんどいない。
私が劇場でよく歌っていた歌は勿論だが、後宮では歌われることはない。
歌の種類だけではなく、舞踏もやはり数百年の歴史を持つ後宮流を覚えなければいけない。
二年見習い期間は「長すぎる」と後宮に来るまでは思っていたが、指一本動かし方を指導される講義を受けていると「短すぎる」と感じるようになっていた。
その日は、歌の授業だったが、講義の冒頭に現れた講師は厳粛な雰囲気と共にとんでもないことを発表した。
「今日は、光景明艶宴の配役の選抜試験について説明します」
驚いたのは私だけではなかった。
講堂の中が、ザワザワと途端に騒がしくなる。
「お静かに!」
講師の一言で、講堂内は一瞬にして静まり返る。
驚きの後は、講師の言葉を一言一句聞き逃してなるものかという殺気に似た緊張感が広がるのが分かった。
「まずは、光景明艶宴についてですが……」
講師は光景明艶宴について説明しようとし、けだるそうな表情を浮かべ近くの椅子にゆっくりと座った。
「そこのあなた」
そう言って、一番前に座る少女を指さした。
「光景明艶宴について説明してちょうだい」
どうやらイチから説明することを放棄することにしたのだろう。
「は、はい!」
講師に当てられた少女は慌てて立ち上がった。
「光景明艶宴は、新年を祝う宴で春夏秋冬の豊穣を願う舞や歌が奉納されます」
「だいぶ、ざっくりまとめたわね……。まぁ、いいわ。ありがとう」
少女に詳細な説明を期待していたのだろう。
期待を裏切られた講師は小さくため息をつくと、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
「光景明艶宴は、春夏秋冬の4部から成り立ちます。
組などに関わらずそれぞれ主演者から端役まで全て選抜試験が行われるのが慣習となっています」
「先生!」
講師の説明を遮るように、そう言って手を上げたのは、貴妃の妹である婉兒様の取り巻きの一人だった。
講師は一瞬、不機嫌そうな表情を浮かべたが、質問したのが有力貴族の娘であることに気づいたのだろう。小さくため息をつくと「どうぞ」と投げやりに発言を許した。
「本来は見習い楽師は選抜試験を受けられないはずですが、説明されているってことは見習い楽師の私たちも選抜試験を受けることができるんですか?」
「ええ、今年は特別に見習い楽師も選抜試験を受けられることになりました。
そのために歌唱講義は今日から選抜試験に向けた練習に入ります」
講師の言葉にワッと喜びの声が上がる。
見習い楽師になって早々に舞台に立つ機会を得れかもしれないのだ。確かに浮き立つ気持ちは分からなくない。だが、私はその厳しい現実に決して気持ちが明るくなることはなかった。
「課題曲を配るので取りに来てください」
講師は講堂内を静かにすることを諦め、譜面を一番前の見習い楽師に押し付けると気だるそうに琵琶を演奏する準備を始めた。
「華蓉、どうしたの? あんまり嬉しそうじゃないけど」
譜面を受け取るために列に並んでいると、私の後ろに立っていた花絲が、そう囁いた。
「う……ん。合格するの難しいだろうなって」
「え?」
花絲はびっくりしたような表情を浮かべて私を見つめる。
「いや、だってさ、私たちが試験を受けられるってことはさ、歌劇団の先輩たちも勿論、試験受けるわけでしょ?」
「あ……」
私の懸念点に気づいたのだろう。花絲は、言葉を飲み込んだ。
「出たい部を絞って練習するしかないのかな」
「私、得意な筝に練習を絞ろうかしら……」
「それが、いいかもしれないね」
花絲の提案に私は苦い思いをしながら頷く。
私は、歌も楽器も舞踊も一通り問題なくできる自信がある。街の劇場では、誰よりも上手かったという自信はあるが、逆に特別得意なものがあるわけではないのだ。
「花絲様の筝の音色は美しくて、私、好きですわ」
突然、そう話しかけられ慌てて振り返るとそこには、優雅に微笑む婉兒とニヤニヤと底意地の悪そうな笑みを浮かべる取り巻き達の姿があった。
「あ、ありがとうございます!」
婉兒の存在に気付いた花絲は、慌ててそう言って頭を下げた。
「華蓉様は、お決まりですの?」
「いえ、まだ……」
痛いところを突かれたような気がして思わず笑顔がこわばるのを感じた。
「そうなんですね。それでしたら、華蓉様は背丈がおありだから、冬部の主演者のお相手役なんてピッタリなんじゃないかしら?」
心から嬉しそうにそう言われて、先ほどまでの警戒心が微かに緩まるのを感じた。
「冬の部?」
私がそう尋ねると、婉兒の後ろにいた取り巻きが嬉しそうに一歩前に進み出た。
「平民のあなたは知らないのも当然だから、教えてあげるわ」
婉兒は、取り巻きの言葉にゆっくりと横に少し避ける。
「冬の部は4つの部の中で最も注目される部なの。なんたって主演者は、皇帝陛下と舞を踊ることができるからね」
「それは凄いわね」
心から驚いていると、取り巻きは今にも吹き出しそうになるのを堪えるようにしながら、説明を続けた。
「ところが、皇帝陛下は舞がお好きじゃなくね。即位されてから二年。まだ、光景明艶宴で踊られたことがないの」
「あぁ、だから主演者の相手役がいるのね」
婉兒の言葉の意味を理解し感心していると、「そうなんです」と婉兒が嬉しそうに微笑んだ。
「そうなんです。きっと、華蓉様にお似合いだと思うんですの」
その笑顔に何の悪意も感じられず、意外に婉兒はいいやつなのかもしれないと思いなおさせられた。
「婉兒様、今年は陛下が舞われるんですよ」
笑いながらそう言った取り巻きの言葉に、全てを理解した。
どうやら、婉兒は私に存在しない役が似合うと満面の笑顔で言っていたのだ。
「そ、そうなんですの?」
婉兒は、少し驚いたように取り巻き達に振り替える。
なかなか手の込んだ嫌味に一気に疲れが押し寄せてきた。
「えぇ、実は貴妃様から今朝伺ったんです。見習い楽師に選抜試験を受けさせるのは異例なんです。でも、それが通ったのは実は皇帝陛下からの直々のお達しなんですって」
「歌劇団の楽師の中から后妃様を迎えるためじゃないかって、後宮は大騒ぎみたいですよ」
「舞の相手を后妃に?」
にわかに信じられず取り巻きに尋ねると、取り巻きの一人が嬉しそうにうなずいた。
「もともと歌劇団の楽師は、后妃選びの側面もあるのよ。まぁ、平民のあんたには関係ない話だけどね」
后妃選びの一環だからこそ、貴族出身の娘だけを集めた桜花組があるのだろう。
后妃候補となる貴族の娘とひとり一人面談するよりも舞台で躍らせれば、一瞬で見目を確認することができる。そう考えると、確かに合理的な制度かもしれない。
「きっと今年の見習い楽師に婉兒様がいるから、皇帝陛下も舞を踊られることを決意されたんですよ」
「婉兒様、冬の部の試験を受けられれば絶対、合格ですわ」
自分のことのように嬉しそうにはしゃいでいる取り巻き二人だったが、次の瞬間、婉兒は「お止めなさい」と酷く冷たく言い放った。
「陛下の御心を邪推するなど不敬です」
有無を言わせない迫力に、取り巻き達は一瞬にして借りてきた猫のように小さくなる。
流石、上に立つ人間だと感心していると、婉兒は小さく「失礼いたしました」と私に頭を下げ、自分の席に戻っていった。