第一章 禁じられた調べ(5)
まだ、人の姿がない早朝の講堂で、片手で抱えられる大きさの瑟の弦を調整していると、ゆっくりとした足取りが聞こえてきた。
「華蓉、昨晩のことですが……。
これは、瑟ではないですか!」
翠葉様は、まだにわかに信じられないといった表情を浮かべていた。
「無理なのは分かっています。だから、もう――」
翠葉様の言葉を遮るように私は、瑟を奏でることにした。
説明するよりも実際に再現する方が簡単だからだ。
弾くのは勿論、母が弾いてくれたあの曲だ。
夜の風に吹かれるように、白く長い母の指が弦を奏でていた光景が思い浮かぶようだった。
ゆっくりと、だが確実に弦を弾くとまるで母になったような気がしてくるから不思議だ。
その演奏は決して長い時間ではなかったが、私の心を満たしてくれるような気がした。
私の演奏が終わると、翠葉様は、私が弾いていた瑟を抱えるようにして、その場に座り込んだ。
「瑟で……なんて……、考えてもみなかったわ」
翠葉様の目からは大粒の涙が零れ落ちている。
さすが講師をするだけの人だ。私の細工をあっさりと見破ったのだろう。
街の劇場に親子で住み込んでいた私たちに当てがわれたのは、布団を二人分敷けば何も置けないような狭い寝所だった。
そんな狭い寝所、いや、そもそも劇場に私の身の丈ほどもある大瑟を持ち込むことはできなかった。だから、母は瑟の弦の幅を調整して、大瑟と同じ音を奏でていたのだ。
「私の母がよく瑟で同じ曲を弾いてくれたんです。
素敵な曲ですもんね。後宮で流行っていたって聞かされていました」
後宮でのことは、母はほとんど話さずに死んでいったが、この曲を弾く時だけは街の歌姫ではなく、後宮の楽師になっていた。
おそらく、母にとって唯一の栄光だったのかもしれない。
「この曲は、みんな好きだったのよ。皇帝陛下もよく所望されてね……」
翠葉様は、小さく「ありがとう」「ありがとう」と呟きながら、再び瑟を抱きしめた。
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「しかし、よく昔の曲、覚えていたな。
おばさんに、みっちりと教え込んでもらっていたのか?」
翠葉様が、講堂から立ち去るのを確認すると、柱の陰から現れた煌は、不思議そうにそう尋ねた。
「俺も聞き覚えはあったけど、弾けといわれたら無理だ」
「私も昔のことは忘れちゃったわよ」
子供の時に聞いた以来だ。
私も煌のように、節が似ていると感じたぐらいの記憶しか残っていなかった。
音よりも母との時間の印象の方が私には強く刻まれていた。
「じゃあ、何故、弾けたんだ?」
「昨夜、翠葉様が全部、弾いてくださったじゃない」
当たり前の答えだったが、煌は納得いっていないようだった。
「そ、それはそうだが……。あれだけで再現したのか?」
煌の質問の意図が分からず、今度は私が首を傾げる番だった。
「煌は、一度聴いたら弾けないの?」
「そんな哀れな生き物を見るような目で見るな!」
煌は、顔を真っ赤にしながら抗議の声をあげた。
「俺は普通だ。みんな、何度も何度も繰り返し聴いたり、譜面がなかったら弾けないんだよ!」
「それで楽師をするなんて、大変じゃない?」
歌劇団の楽師も宦官楽師も一年に何百という曲を奏でることになる。
何度も何度も繰り返し聴いたり、譜面を暗譜していては膨大な時間がかかるに違いない。
「だから、楽師は寝る間を惜しんで練習しているんだ」
「えぇ……?」
歌劇団の入団試験だけでも十数曲が、試験の一か月前に渡され、当日までに全て完璧にしあげなければいけなかった。
もし、煌の言い分が正しいならば、宦官楽師になるために数年は練習に費やすことになりそうだ。
どうやら、煌は三年会わないうちに平気で嘘をつくようになったらしい。
昨夜も皇帝陛下に直訴できるような口ぶりだった。いくら楽器の修繕が上手いからといって、陛下が一介の宦官楽師を目にかけるはずはない。
他の楽師が寝るまを惜しんで譜面を覚えているというのも、嘘に違いない。少なくとも私と同室の見習い楽師の少女は日が落ちると同時に寝ている。
だが、これも後宮で生き残るための彼なりの処世術なのかもしれない。
そう思うと、あまり深く追求するのも可哀そうになり、私は小さくため息をついて彼に早く帰れと合図を送ることにした。
「あんたは、もう見習いじゃないから仕事あるんでしょ?」
「当たり前だ」
「皇帝陛下によろしく伝えてね」
煌の嘘に付き合ってあげるつもりだったが、煌は悔しそうに「分かった」とだけ呟くと、足早に講堂から立ち去って行った。
「昔はもっと素直だったのになぁ」
後宮が彼を変えてしまったのかと思うと、大切にしていたガラクタを失くしてしまったような微かな喪失感が胸の中に広がった。