第一章 禁じられた調べ(2)
「こちらよ」
神経質そうにそう言いながら、私と花絲の前を足早に歩くのは歌劇団の講師・馮翠葉様だった。目元をハッキリと縁取った化粧に、おくれ毛など一つもないまとまった髪型は、彼女が後宮歌劇団の楽師だった過去を感じさせた。
おそらく四十前半だろう。
見た目に派手さはないが、その指の硬さやしなやかな足取りは、彼女が優秀な楽師だったことを物語っていた。この講師から見習い期間である2年間、色々なことを学べるのかと思うと、今から胸が高鳴るのを感じさせられた。
「初日から遅刻する見習い楽師なんて、あなたたちが初めてですよ」
「いえいえ、遅刻してませんよ。翠葉様がいらっしゃるのと同時だったじゃないですか」
私が慌てて弁解すると、翠葉様は勢いよく振り返り私を睨みつけた。
「それを遅刻というのです」
それは小さな声だったが、有無を言わせない響きがあった。
その緊張感のある声にさすがに『集合時間ぴったりでしたよ』という言葉は飲み込んだ。
「でも、それで、宝物庫の掃除担当って、ちょっと罰がひどすぎません?」
私は腕の中にある掃除道具を抱え直しながらそう尋ねた。
「宝物庫はわが国に代々伝わる楽器や絵画などが保管されている場所です。そんな宝物庫の掃除など、名誉なことではありませんか」
「宝物庫には、幽霊が出るって噂じゃないですか」
これは、婉兒様の取り巻きたちが、掃除当番が発表された後にわざわざ教えてくれた情報だ。「大変ね」「気を付けてね」と満面の笑みと共にだが。
「夜な夜な大瑟を弾く幽霊が出るって聞きましたよ」
「大瑟を? 何がいけないんですか? 筝を大きくしただけの楽器ですよね?」
私の言葉に疑問の声をあげたのは、花絲だった。
「後宮ではその演奏が禁止されている――んですよね?」
同意を求めるように尋ねると、翠葉様はようやく足を止めて振り返ってくれた。
「先の皇帝陛下がかつて寵愛された者が、大瑟の名手でね。その者が亡くなって以降、陛下は大瑟の音色を聞くのを嫌がられるようになったんです」
「そうだったんですね……」
思わず驚きの声を上げようとしたが、大瑟の名手について語る翠葉様の表情が思いのほか硬く、その言葉を素早く飲み込んだ。
私はてっきり「バカなことを言うんじゃない」と怒られると思っていたのだ。
「でも、それだと……。現皇帝陛下には関係ないことですよね?」
やはり不思議そうに尋ねた花絲に翠葉様は深くうなずいた。
現在の皇帝は、即位してから2年。
先帝に世継ぎとなる男児がいなかったことから、地方に住む先帝の従弟の子息が現皇帝として迎え入れられた。そんな現皇帝は皇帝として即位するまで、後宮に一歩も足を踏み入れたことはなかったに違いない。
おそらく、大瑟の名手とも面識はなかっただろう。
「あなたの言う通りかもしれません。ただ先帝時代に『大瑟を演奏することは皇帝への不敬にあたる』って決まってしまったんです」
その声には若干の口惜しさが滲んでいるようだった。
「現皇帝陛下は、先帝のことを大変尊敬していらっしゃります。ですから大瑟禁止令は現在も守れるようになりました」
『バカみたい』
私はその言葉を飲み込みながら、小さくため息をついた。
そんなバカげた理由で、バカみたいな決まりがバカみたいに守られているのが、信じられなかったのだ。
それと同時に、ここが憧れていた後宮だということも改めて認識させられた。
この決まりのように、馬鹿らしい決まりでも皇帝が決めてしまえば、絶対守らなければいけないのだ。
「もしかして……。大瑟を弾いている幽霊って、その陛下に寵愛されていた后妃なんじゃないですか? 大好きだった大瑟の音色が聞けないから呪っているとか……」
何かを考えるようにつぶやいた花絲の言葉を遮るように「そんなことありません!」と翠葉様は叫んだ。
「あの子が、人を呪うようなこと……。そんな悲しいこと、するはずありません!」
「し、失礼しました!」
これまで見たことがないような翠葉様の剣幕に花絲は持っている掃除道具を落とさんばかりに頭を下げた。
「私の部屋は宝物庫から最も近い場所にありますが、幽霊など見たことはありません。幽霊なんて、根も葉もない噂に惑わされず、掃除をしっかりするように」
そう言い放つと、翠葉様は私たちを宝物庫の扉の前に置き去り、そのまま足早に立ち去ってしまった。
「伝統を守るって大変ねぇ」
花絲を慰めるようにそう言いながら宝物庫の重い扉を開ける。
片手でようやく開いた扉の先から飛び込んできた景色に思わず驚きの声を上げてしまった。
「煌!」
私の叫び声に肩を小さく震わせたのは、入って直ぐの場所に置かれた机の上で何やら作業をしている男の肩だった。
「え……? う、嘘だろ……。なんで?」
私の姿を認識したのか、煌はそう小さくつぶやくと、目を白黒させた。私が後宮にいる可能性など全く考えていなかったといわんばかりの表情だ。
「嘘でしょ。3年前、突然いなくなったと思ったら、後宮にいるなんて!」
「彼、おそらく宦官楽師よ」
私にだけ聞こえるように花絲は、そう小さく囁いて私の着物の袖を小さく引いた。
宦官楽師とは、私のいる後宮歌劇団とは対になる存在だ。宦官だけで編成された楽師で公演を行っている。藍色一色の着物を着ており、通常の宦官とは区別されているのが特徴だ。
そして、彼らは女性だけの後宮歌劇団を目の敵にしているという。おそらく花絲は、目を付けられるなと耳打ちしてくれたのだろう。
「煌は、幼なじみなの!
私、もともと都のある劇団で働いていたんだけど、そん時に煌は楽器の修理師として出入りしていたの」
「なるほど……」
まだ納得がいっていないという風だが、花絲は小さく頷いた。後宮で生活するということは、彼女のような警戒感が必要に違いない。
「毎日のように遊んだり、舞の練習を手伝ったりしてもらったの」
後宮程ではないが、一つの役をめぐって数人の役者がしのぎを削っていた。
修理師である煌以外に心を許せる人はいなかった。
「でも、3年前、突然、一家全員で姿を消してさ……。何があったかと思っていたんだけど、そういうことか」
私は、3年前から抱えていた大きな疑惑が晴れ、嬉しさのあまり大きく頷いた。
「宦官になるためだったら、言ってくれればいいのに。死んだかと思っていたよ」
「ち、違う!」
煌は、勢いよく机から立ち上がり私の言葉を否定した。
煌のあまりの慌てように、自分が昔の感覚で彼の人生に踏み込み過ぎてしまったことに気づかされた。
改めて煌を見ると、三年前と何も変わっていなかった。
スラリとした長身に銀髪の長い髪。劇団に出入りしていた時から目を引く存在だったが、地味な宦官の着物に身を包んでも、その美しさはなお健在だった。
「で、煌も宝物庫掃除をさせられてたの? 何か悪いことしたの?」
「それも違う! 大瑟の修理をしていたんだ」
「大瑟?」
先ほど話題に上がっていた大瑟の存在に私と花絲は思わず、煌の手元をのぞき込んでしまった。
そこには私の身の丈ほどある大瑟が置かれていた。
非常に大きく、弦の本数の数十本はあるだろう。
「これが弾くことを禁じられた大瑟なのね」
「先帝が定めた禁のことを聞いたのか」
「さっきね」
私は、そう言って既に翠葉様が、消えた扉の先を顎で指した。
「華蓉のことだ、きっとバカげた法だと思っているのだろう?」
密閉された宝物庫だからだろうか。決して低すぎない煌の声は、よく響いた。
「さすが、分かっているじゃない」
何年も一緒にいた友人だ。
私の考えそうなことは分かるといわれても違和感はない。
「だがな、現帝といえど、先帝時代の法律を変えられないんだ」
「陛下はそんなバカげた法をご存じなの?」
てっきり知らないと思っていたので、私は思わず呆れたようにそう言ってしまった。
「当たり前だろ」
間髪入れず肯定され、思わず私は眉間に皺を寄せてしまった。
「そりゃ……、幽霊だって出るわよ」
私の言葉に煌は、私の肩を勢いよく掴んだ。
「幽霊の呪いを解けるのか」
掴まれた手を振り払いながら、私は煌にニヤリと笑って見せる。
「あんた、大瑟の音色、聞いたことがあるのね」
図星だったのだろう。
自信に満ちあふれていた煌の視線がとたんに弱くなった。
「数か月前から大瑟の音色が聞こえてくるという噂が流れ始めたんだ。最初は性質の悪い噂だろうと思ったんだが、実際に夜中、宝物庫に行くと大瑟を奏でる音が聞こえてきたんだ」
当時の様子を思いだしているのだろう。
煌の表情には微かな恐怖の色が写っていた。
「幽霊はどんな姿だったの?」
「いや、私たちが宝物庫に駆け付けると、音は途端に止み宝物庫の中には人一人いなかったんだ」
「勝手に演奏していたってことですか?!」
私の後ろで悲鳴をあげたのは花絲だった。そう言った彼女はジリジリと宝物庫から抜け出そうと後ずさっていた。
「本当だ! 宝物庫を管理されている翠葉殿も後から駆けつけてこられたんだが、やはり彼女も犯人の姿を見ていない」
「なるほど……」
私は、大瑟の弦を鳴らさないようにゆっくり触りながら、思案を巡らせることにした。