終章 星降る宮廷の歌姫(1)
天幕の隙間から覗く月が、真珠のように目の前に広がる舞台に淡く光りを落としていた。先ほどまでの華やかな秋の演出の余韻に、後宮中が包まれる中、舞台の上には静かな緊張が流れていた。
これから、四季の舞の再終幕である『冬の舞』が始まるからだ。
私は、あの事件のあと受けた試験で、無事に『冬の舞』の主演を勝ち取ることができた。それは奇跡にも近い偶然の連続で、いまだに本当に私が役をもらえたのか不思議でたまらない。
「こちらへ」
楽師の一人がそう言って、舞台袖から私の手を引いて地下へ続く道へと案内してくれる。薄明りがついた舞台の地下には薄衣で覆われた空間があった。
「この中へ。出番がきたら舞台上に上がるから、じっとしてなさい」
私は、静かに頷き、薄衣の中央で息をひそめることにした。視界は暗く、手元の衣の白さが浮き上がるようだった。冬の厳しさを思わせるような白一色の着物は、非常に簡素な意匠だった。被肩や玉もないからこそ、舞をごまかせない。
背筋に妙な汗が伝うのを感じた。 衣の枚数は薄く、舞台の袖にいる時は寒かったぐらいだ。おそらく、緊張の汗だろう。
これまで、舞台には何度も立っていた。人前で歌うのも踊るのも慣れているはずだったが、今回の舞台は初めて味わう緊張感だった。
後宮歌劇団の長い歴史の中で、見習い楽師が冬の舞を踊るのは、今回が初めということもあり、私だけではなく周囲の楽師たちからも冷ややかな視線と共に確かな不安が伝わってくるのが痛いほどわかる。
観客席に座する高貴な人々の視線は見えなかったが、突き刺さるような気がした。おそらく、彼女たちは私の噂は嫌というほど聞いているのだろう。
「どうせ庶民の舞よ」
「見習い楽師を躍らせるなんて……」
そんな嘲笑ともとれる囁きが聞こえてくるようだった。
まさか、本当に自分が選ばれるとは思わなかったけど……。
けれど思い返してみれば、あの夜、明珂の死を経て私は『舞う』ことを選んだのだ。
それは、他の楽師達にはない大きな決意だったと思う。
舞であれ、碁であれ、言葉にならないものを届ける手段が私には残されている。その幸せをかみしめて踊った足は、経験したことがないような軽さだった。楽師長に後から「満場一致であなたに決まったわ」と言ってもらえたほどだ。
頭上で『冬の舞』の音楽が流れ始めた瞬間、私の中で先ほどまでの迷いや不安が、一気に消え去るのを感じた。ゆっくりと足元の舞台が上昇し、少しすると扇のように開いた薄衣の幕の向こうには千の灯りが輝いていた。金の燭台が照らす舞台の上に、一歩踏み出した時、私の心臓が大きく音を立てたような気がしたが、その瞬間、煌の言葉が聞こえてくるような気がした。
「鼓動もまた、楽の調べの一部さ」
かつて都の舞台の本番前に私が緊張すると、煌はそう言って励ましてくれた。今、煌は一緒にいてくれるわけではないが、その言葉が私の鼓動を落ち着かせてくれるような気がした。
絹のような繊細でありながら、正確な拍子と音楽は私の足元に風を呼んでくれるようだった。自然と足が舞台の中央へと動きだす。
白い袖がふわりと揺れて、袖の先が夜空をつかむように舞い上がった。
一歩、また一歩。足裏に感じる舞台の方さが、逆に心を落ち着かせてくれるようだ。この感触は、蘭月様と一緒に立った舞台の感触と一緒だ。
「あなたは、きっと素敵な舞姫になるわ」
亡き蘭月様の言葉が耳の奥から聞こえてくる気がする。甘い香りと共に、しなやかな舞が振りまく蘭月様の華やかさが私の背中を押してくれるような気がした。
もう、怖くなかった。
音が高まるのと同時に、指先を空へ伸ばし、袖を翻し大きく旋回を始める。袖の輪が月の光をすくい、軌道を描くたびに観衆の吐息が聞こえてるような気がした。
雪に自らを見立てられたことを確信し、私は音に身を預けることにした。指先から足先まで舞に集中し、自然と身体が音楽と一体となっていった。
その時だった。
足を軽く降ろした刹那、舞台の端に気配を感じた。視線を一瞬向けると、そこには金色の仮面をつけた男が静かに立っていた。皇帝陛下だ。
早すぎる……。
私は、心の中で小さく舌打ちをしていた。陛下の出番は、まだのはずだ。
あえて舞を中断することなく、途切れ途切れに視線を陛下へと向けると、陛下は舞を舞うわけでもなくただ私を見つめているようだった。
これだから、素人は……。
心の中で悪態をつきながら、音の合間に私は一歩引いた。当初の舞を変更して、陛下に舞台袖に戻るように視線を送ると、仮面の奥の瞳が――まるで私を知っているかのような深い眼差しを送ってきた。
「え?」
その視線が不思議で、私は思わず驚きの声を上げてしまったが、舞台袖からは微かなざわめきが聞こえてきた。他の楽師たちも私と同様――いや、それ以上に動揺しているのだろう。
それでも、誰もこの『仮面の皇帝』を止めないのは、彼の存在が後宮で唯一無二だからだ。彼が舞に乱入すれば、それが正しい舞の型に変わるのだ。
だが、それにしても早すぎる。このままでは、段取りが狂ってしまうではないか……。舞を止めるべきか、ほんの一瞬迷った。
その瞬間、陛下がそっと手を差し出した。それは、全く迷いがなく真っ直ぐな手だった。
――まるで、煌じゃない。
不思議だった。仮面で面影も見えない声も聞こえない。それでも、この仮面の男が誰なのか……、胸の奥で確信に似た何かがささやいていた。
当初の段取りとは違ったが、私はその手を取った。
舞台に流れる音楽が、一瞬にして変わる。琴と筝が重なり合い、調べは緩やかだが、力強く変化していく。
彼と共に、私は舞台の中央へと一歩、踏み出す。
初めて舞台で踊るとは思えないほど、足並みは合っていた。拍子も呼吸も袖の動きさえも。まるで何百万回も共に舞ってきたかのように、自然と身体が動いた。
仮面の奥の瞳が微かに笑ったように見えた。
――あなたは……。
私は寸前のところまで出かかったが、彼の名前を口にはしなかった。ただ、今は舞の中で彼の全てを感じたかった。
袖が交差し、足が絡み再び離れる。観衆の感嘆の声すらも聞こえないほど、舞台はただ二人の気配だけが満ちていた。
だが、舞の終わりが近づく時が来た。
彼がそっと、私の腰に手を添えて最後の旋回へと導く。視界が月光に溶け、世界が一瞬静止する――。
その瞬間だった。彼が、低く柔らかな声で囁いた。
「華蓉、妃になってくれ」
それは私にしか聞こえない声だったが、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に衝撃が走る。まるで、時が止まったような感覚だった。
――この声は、聞き間違うはずがない。
「煌……?」
思わず、その名前が私の唇から零れ落ちた。
仮面の奥に隠された顔は見えない。だが、その声と呼吸、そしてたたずまい。
そして、何よりも私の名前を呼ぶときの、あの微かな緊張感。
煌以外の誰でもなかった。
試験の準備に付き合ってくれて、事件にも巻き込まれて、どんな時もそばにいてくれた煌の声だ。
――でも、なんで、煌が皇帝の恰好をしているの?
疑問を言葉にしようとした瞬間、空気が裂けた。
――ヒュンッ。
次の瞬間、銀色に光る小さな刃が音もなく舞台の板に突き刺さった。
――暗器!?
客席がざわめき、誰かの悲鳴が高く響く。そして、再び闇から何かが放たれる音が聞こえた。
私は、素早く煌を庇い、身をひるがえした。
そして袖を払うように、手の甲に隠していた小刀を抜き、空中から飛んできた二本目の刃をはじき落とした。
「敵襲! 陛下をお守りせよ!!」
衛兵の声が響き、舞台の上に衛兵たちが雪崩こんでくる。
だが、今度は、矢のような暗器が二、三本撃ち込まれる。おそらく、角度から察するに天井の梁に犯人は潜んでいるのだろう。衛兵が来るまで間に合わない。
私は、とっさに煌の手を取り駆け出した。向かう先は先ほど私が舞台へと上がってきた『せり』だ。
「舞台から降ろして!」
私が叫ぶと、床が静かに沈み込んでいく。だが、せりは、先ほどよりも深い地下へと降下していった。おそらく、煌は地下から舞台へとやってきたに違いない。だから、本番直前になっても、舞台袖にも舞台裏にも表れなかったのだろう。




