第六章 白恨の石(4)
棋士局の扉を開けた時、部屋の明かりは消され、日中の騒ぎが嘘のように静まり返っていた。ただ、部屋の奥にはぼんやりと灯明の灯だけが、静かに揺れている。
その下にいたのは――、玉姑様だった。
おそらく私達のように葬儀の後、棋院局に来たのだろう。白い袍に身を包み、盤の前に座り碁石をゆっくりと並べていた。
明珂の視線の種類とは異なるが、盤を見据えているその姿はまるで亡き明珂と対局を続けているかのようだ。
「……、感想戦ですか?」
棋士たちは、試合が終わった後、感想戦として石を再び並べて対局を振り返る。
私の問いに、玉姑様は盤面から顔を挙げることなく静かに頷いた。
「棋士にとって、終局は『終わり』ではありませんからね。たとえ、相手がこの世にいなくとも、打ち残した一手は、必ずどこかにあるはずよ」
玉姑様の声に張りはなかったが、妙に胸を締め付けられる響きがあった。
私は、そっと碁盤に近づき、玉姑様の向いに腰を下ろした。煌は、そんな私たちを部屋の隅に立ったまま見守ってくれている。言葉を発するわけではない、ただそこに煌がいてくれるだけで、なぜか心強かった。
玉姑様が、ゆっくりと置いた白石に私は当時の盤面を思い出す。
「この局面で、明珂さんは長考されていましたよね」
玉姑様は静かに頷いた。
「あら、覚えているの?」
玉姑様は少し驚いたように顔を挙げて、小さく笑った。
「半刻――は、考えていたわね。この局面、やはり白が不利だったかしら?」
盤を挟み、玉姑様は静かに問いかけた。
最期の対局が並べ直された盤面を私は静かに見つめる。
「この白の一手は、こちらの方がよかったと私は思いました」
私はそう言って、先ほど玉姑様のが置かれた石を右端から左端へと動かす。
「ここに置けば、そもそも三コウもできませんでしたからね」
私がそう言うと、玉姑様は静かに頷いた。
「その疵に気付いた明珂は、勝ちに行こうとしていましたよね」
「……あの子、ああ見えて、気持ちを表に出すのが下手だったのよ」
ぽつりとこぼす玉姑様の声は、懐かしい何かを思い出すような優しい響きがあった。
私は、盤の右上――、明珂が終盤に打った黒石の一点を見つめた。
「この石を返されるのが、怖かったんじゃないでしょうか。だから、長考されていた気がします」
私は、その一手に手を伸ばしかけた。
灯明が揺れた瞬間、黒石のわずかに欠けた縁が視線に飛び込んでくる。目立たないが、そこに何か乾いた白い膜のようなものがついている気がした。手に取り、よく観察しようとした瞬間、「触らないで!」という鋭い玉姑様の声が飛んできた。
その声の鋭さに私の手は、一瞬にして留まる。
「どうしてですか?」
感想戦で碁石を動かすのは、ごく当たり前のことだ。私が真っ直ぐ玉姑様を見つめると、彼女は明らかに動揺しているようだった。
「それは、あの……、不吉だから……」
玉姑様の言葉に、わずかな濁りがあった。煌が部屋の隅から一歩前へ出た。
「不吉? ですが、玉姑様は、先ほど華蓉が白石を動かしたときは、何もおっしゃりませんでしたよね?」
煌の問いに玉姑様の肩が静かに揺れるのを感じた。
「……それは……」
私は、ゆっくり立ち上がり、手を膝の上に置いたままの玉姑様を見下ろした。
「黒石に何か塗ってあるんじゃないですか?」
「……っ」
「明珂は、黒石でしたよね。しかも、彼女は対局中、癖で爪を噛む癖がある。特に長考する時は――」
私は、ゆっくり玉姑様の隣に置かれた黒石が入った碁笥を持ち上げて、煌の持つ灯りの下に持って行く。錯覚と思わされるほど、薄く白い膜が碁石に塗られているのが分かった。
「長考させるために、玉姑様はわざと疵になるような一手を打たれたのではございませんか?」
素人の私でもすぐに『疵』と分るような一手だ。明珂がそれに気づかないわけはない。それと同時に、彼女は『疵』ではなく『罠』の可能性を検討したのだろう。だから、自然と長考になったに違いない。
「そのため、明珂は長時間、黒石についた毒を舐める結果になってしまった」
玉姑様の顔から、血の気がスッと引くのが暗闇の中でも分った。
「……ばかね、あの子。何度も言ったのよ……。碁を打つときは、そんな癖、捨てなさいってね……!」
「やはり、玉姑様でしたか」
私は、問いではなく、確認としてそう尋ねた。
「玉姑様の宮の軒下を拝見しました。薔薇の香りがした鍋がありました。薔薇で作った毒ですよね?」
「薔薇を煮詰めて、毒になるのか?」
煌の問いに私は首を横に振った。
「薔薇だけでは、毒にはなりえないわ。でも、他の薬品を加えたらどうなるかしら――」
後宮で、毒の取り扱いは禁止されている。その管理は徹底しており、毒を生成できるような植物や動物の飼育も厳禁だ。
「例えば、傷の手当に使われる『清毒塩』を薔薇の香油と混ぜると――神経毒になるといわれているわ」
「なるほど――、清毒塩ならば『怪我人が出た』と言えば医局で簡単にもらえるな」
煌の言葉に私は深く頷く。
「焦げた鍋からは、薔薇だけではなく鈍い匂いもしていました。おそらく、庭の薔薇を全て刈り取り通常よりも濃い薔薇の香油を作られた。そして『清毒塩』を作り、黒い碁石に薄く塗ったんですね」
「あの子は……、あの子は……、私に勝ちたいと言ったのよ」
玉姑様は、観念したようにそう言って地面に手をつき項垂れた。
「でも、勝てるわけがないわ。だって、誰よりも囲碁を打ち続けてきたのは私よ。そして、誰よりも勝ってきた――。技も磨いてきたわ――。なのに、あの子は……民のために、とか『甘い理想』を語って私の前に立ちはだかった。許せなかったのよ」
玉姑様の指先が盤の縁をぎゅっと掴んだ。
「許せなかった……。家庭も子どもだった明珂も全て捨てた私が負けるなんて。……許せなかったの。そんな未来は……絶対に」
とんでもない告白に私は煌と顔を見合わせ、言葉を失ってしまった。
「明珂は、玉姑様の娘さんなんですか?」
「そうよ……。若い頃、棋士として生きることを諦められなかった私は、幼い明珂を残して後宮に入ったわ」
後宮の外でも囲碁を打つことはできるだろう。だが、女性の棋士ができることといえば、良家の子女に手習いとして教える程度だ。後宮のように切磋琢磨し、頂点を極めるような囲碁は打てないに違いない。
「明珂が乳飲み子の頃だったからね、顔も覚えてないんじゃないかしら。でも、あの子は……、私を追うように後宮に入ってきたわ。知らず知らずのうちにね」
「知っていたんじゃないですか?」
玉姑様の告白で、明珂の夢の意味を本当の意味で理解することができた気がした。
「明珂は、身分や性別にかかわらず囲碁を打てる世界を作りたかった……」
数日前、目を輝かせながら、語った明珂の顔が脳裏に蘇ってきた。
「女性が後宮に行かずとも、母と子が離れることなく囲碁を打てる世界を作りたかったんです」
玉姑様の表情が一変するのが分かった。
「嘘でしょ……」
玉姑様の頬に、スッと涙が流れた。だが、彼女はそれを拭おうとはしなかった。ただ、碁盤の上に、最後の碁石をそっと置いた。
カチッ。
それは、誰にも喜ばれぬ勝利の音だった。
気が付けば、空は淡く染まり始めていた。
玉姑様の捕縛後、官吏への説明などを終え、私達が解放された時には後宮全体が朝を迎えようとしていた。
寒さが肌を刺すほど強くなっているのに、妙に体は重く熱を持っているようにも感じられた。
あの対局と最後に置かれた石の重みが、そうさせているのだろう。
煌とゆっくりと石畳を歩きながら、私はふと口を開いた。
「明珂の夢、叶えてあげられなかったね」
その言葉に煌は、ゆっくりと立ち止まった。
「夢は叶えられなかったけど、『伝えよう』とはしていた。少なくとも俺には、そう見えたよ」
私はうつむき、袖を握った。
玉姑様の告白も明珂の願いも、簡単には胸の中に納まらなかった。
「ねぇ、煌。私は何ができたんだろう。ううん……、これから何ができるんだろう」
「伝えればいいんじゃないか?」
明珂の夢を伝える――。そんな壮大なことが私にできるだろうか。
そんな私の葛藤を察したように、煌は小さく笑った。
「『伝えたい』と心から思っている時点で、もう何かが始まっているんだよ。君の中でね」
私は、その言葉に背中を押されるような気がした。
その時、不意に風が吹き、ひらひらと雪が手の甲に落ちてきた。夜明けの淡い光を受けながら、直ぐに溶けてしまう小さな結晶だ。
だが、それが明珂の返事のように見えた。
明珂が望んだ世界。『身分に関わらず囲碁を打てる世界』なんて、私には作れないのかもしれない。でも……。
「煌、冬の舞の試験、やっぱり受けようと思う」
煌は少し驚いた顔で私に振り返ったが、直ぐに無邪気に微笑んだ。
「やっと決まったか」
「舞で想いを伝える。明珂の分も。……、それが私にできる最初の一歩だから」
煌は、肯定するように静かに頷く。
朝の光が、静かに後宮を照らし始める。
その下で私は真っ直ぐ前を向いた。視線の先には、徐々に朝日に染まっていく石畳が続いている。
私は舞う。
誰からの願いも、痛みも背負って――、それでも未来へ向かって舞台に立つ。




