第六章 白恨の石(3)
翌朝、棋士局には昨日とは比べものにならないほどの静けさが満ちていた。規則正しく並べられていた碁盤は片づけられ、中央には一つの碁盤が置かれているだけだ。
そして、それを囲むのは玉姑様と明珂。
熟練の棋士とまだ若すぎる棋士、そんな対照的な二人だったが、碁盤を挟む二人の姿はまるで互いを映す鏡のように、均衡した緊張感がそこにあった。その緊張感は、幕が上がる直前の舞台裏のような空気だ。
既に、棋院局には棋士をはじめ、多くの宮女が見学しに訪れていたが、誰も囁き声ももらさず、一心に盤面の局面を見守っていた。
「選抜試合の最終局、はじめます」
二人の間に座る棋士の対局を宣言する声と共に、二人はゆっくりと丁寧にお辞儀をすると、先手の明珂が迷うことなく碁盤に右隅に黒石を置いた。
おそらく想定内の手なのだろう。玉姑様も柔和な笑みを浮かべながら、白い碁石を自分の左側へと置いた。
そんな二人の対局を見守っていると、ポンッと肩をたたかれた。振り返ると、そこには何食わぬ顔で目を細めて盤面を見ている煌がいた。何か言いたかったが、その場に漂う緊張感に私は、再び盤面に視線を移すことにした。
その対極は静かに着々と進んでいった。
時折二人は何かを考えるように手を止めることはあったが、それでも数刻もしないうちに盤面は白と黒の碁石で埋められた。
その異変が起きたのは、窓から差し込む日差しが茜色に変わった頃だろう。
明珂の指が時折わずかに震えているようだった。昨日の自信にあふれた明珂とは、明らかに違っていた。彼女が劣勢なのかと、玉姑様を見ると彼女の額にも遠目でも分るほど汗がにじみ出ている。
「……三コウ?」
玉姑様の手が止まったのを合図に、二人の間に座った審判を務める棋士が呟いた。室内が明らかにざわつきはじめる。
「三コウって何?」
隣に立つ煌に振り返ると、煌は盤面から視線をそらさず私の耳にそっと顔を近づけた。
「コウっていうのは、囲碁で石を取ったり、取られたりする形のことなんだ」
「それが三つできたってこと?」
煌は、そうだと小さく頷く。
「普通は一箇所にできるもので、三箇所にコウができるのは稀なんだ。だから、不吉ともいわれている」
その説明でようやく、明珂達の顔面が蒼白になっていた理由が分かった。
「この勝負、無勝負といたします」
棋士の宣言により、場内の緊張が一気に解き放たれるのを感じた。驚きと賞賛の声が部屋を埋め尽くす。
「決勝戦は、改めて明日――」
試合の日程を棋士が伝えようとする中、どさりと小さな音を立てて明珂がその場に倒れた。慌てて駆け寄ると、明珂は喉元を抑えて苦しそうにもがいている。
「誰か! 宮医を!!」
周囲が騒然とする中、煌はそう叫ぶと明珂を抱きかかえる私に、瓶を差し出した。
「水だ。飲ませて、吐き出させろ」
私は無言でうなずき、苦しそうにもがく明珂に水を飲ませようと瓶を近づけるが、明珂は小さく痙攣をして自分では飲めないようだった。口移しで飲ませようと、私が水を口に含もうとした瞬間、煌は片手でそれを静止する。
「すまん……。遅かった」
その言葉に再び、自分の腕の中にいる明珂に視線を送ると、彼女の目は焦点を失い、先ほどまでかきむしっていた両手は、力なく床に垂れ下がっていた。
数日後、明珂の葬儀が静かに執り行われた。本来ならば、棋士のような妃ではない人物が亡くなっても大々的な葬儀は行われない。ところが、決勝戦の試合中に亡くなったからか、皇帝陛下からの特別な計らいで葬儀が執り行われることになった。
「いい葬式だったわね」
葬儀からの帰り道、私は煌と二人で棋士局へと向かう道を歩いていた。夜気は肌にしみるほど冷たく、二人の足音が石畳に響いた。
「棋士局に縁のある人達――ということだから、あまり人は多くなかったし、派手さはなかったが、みんなが彼女の死を悼んでいたな」
明珂の死は、あくまでも後宮では「穢れ」として扱われており、多くの花が飾られることも香がたかれることもなかったが、それでもみなの明珂を送り出したいという気持ちは静かに伝わってきた。試合での遺恨はあれど、棋士たちにとって、明珂は尊敬する棋士だったのだろう。
「まだ、実感がないな……」
私は、数日前にこの道で明珂から、囲碁の未来について聞かされた時のことを思い出していた。
「急だったからな」
私の肩が少し震えたのを感じたのだろう。まるで、泣いてもいい、と言わんばかりに煌は私の肩を優しく抱いた。その手を私は軽く押しやり、煌から数歩離れた。煌の優しさに甘えたら本当に泣いてしまいそうだったからだ。
「あの目をもう見ることはできないのよね」
碁盤の前に座った時、それまでの穏やかな雰囲気から一変し、まっすぐに碁石を見据えていた目。その視線は、数十手先の碁石の動きだけではなく、囲碁の未来も見据えているようだった。
「でも、なんで……」
彼女の死は明らかに、病気でも事故でもないのは素人目にも明らかだ。
「殺人だろうな……」
煌は、私の隣に立つことなく、ゆっくりと歩を進めながらそう同意してくれた。
その時だった。私の目に白いものが移った。
「あれは、薔薇……」
月明りに照らされた、無数の白い薔薇が幻想的に光っていた。葉には夜露が落ち、まるでそこだけ夢の庭園のような静謐な美しさを放っていた。
「玉姑様の部屋のよね」
数日前、昨年の優勝祝いに植えることを許された花だと、玉姑様が教えてくれたことを思い出した。
「あれ……足りないな」
煌は、そう言って小さく眉をひそめた。
「何のこと?」
「いや……、昨年、ここに植えられていた時は森のようになっていたんだけど……。枯れたのかな」
煌はそう言って庭に続く木戸を開き、そのまま庭へと入っていった。
「勝手に入ったらダメよ」
煌を引き留めようと慌てて、彼の袖を引こうとしたが、気付いた時には彼は庭の奥へと向かっていた。
「やっぱり、この一帯まで薔薇の茂みがあったんだよ」
煌が指し示した場所には、花だけが刈られた薔薇の植木の跡があった。
「后妃の目に留まって、嫌がらせされたのかな」
確かに上級妃の庭でなければ、これほど華美な薔薇を植えることは許されないだろう。后妃の誰かが難癖をつけても不思議ではない。
「でも、変よ」
私はそう言って、薔薇の花だけが刈られた植木に手を添えた。
「この刈り方、来年にはまた生えてくるわ。何度も難癖をつけられることを玉姑様が望むかしら?」
「では、誰かのいやがらせか?」
首を横に振って玉姑様の屋敷の敷地内に足を踏み入れた。おそらく、あの薔薇は玉姑様が自ら刈ったのだろう。
「もし、誰かの差し金でバラの花を刈るならば、一番人目に付きやすい通路沿いの薔薇を刈るはずだわ」
もしかしたら――と庭の影に目を凝らした。
「これって、鍋じゃないかしら」
宮の軒下に隠すようにお個あれていた小鍋を取り上げた。底はひどく焦げつき、縁には何か液体がこぼれた跡のようなものがこびりついていた。
「何かを煮詰めたのね……」
煮詰められたものに正体を探そうと、左右に視線を送った時、炭の匂いと共に煮詰められた薔薇の香りが鼻腔をくすぐった。それは決して華やかではなく、どこか鈍い匂いだ。
まさか――。
途端、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
証拠を抑えないと――。
私は、何も言わずに立ち上がり、庭から駆け出していた。
「華蓉?」
少し緊張感のある煌の声が、投げかけられた。
「あの日の対局の碁盤は、まだそのままなのよね?」
三コウが作られただけでなく、棋士が一人亡くなったということもあり、玉姑様と明珂の対局が行われた碁盤は、そのまま棋士局で保存されていたはずだ。
「何か分ったのか?」
私は頷きながら、走る速度を速める。
誰かが触ったら――。
駆け出す私の世に、煌の足音がすぐ続く。夜の風が二人の袖をたなびかせる音だけが石畳に響いた。




