第六章 白恨の石(2)
棋士局の空気は、歌劇団のそれとはまるで違っていた。
扉を開けた瞬間、張り詰めた静寂が肌に突き刺さるような気がした。規則正しく並べられた碁盤に、静かに俯く十数人の棋士たち。碁石が打たれる音さえも、緊張感があり思わず苦しくなるほどだ。
「ようこそ、お待ちしていました」
入り口で唖然としている私達に声をかけてくれたのは、一人の少女だった。細身の体を凛と伸ばし、碁盤の前から立ち上がって丁寧な礼をしてくれた。
「棋士局の案内を任されました明です」
私達の訪問を全く歓迎されていないのが、伝わるほど淡々とした口調に困惑していると煌が再び私の耳元にささやいた。
「あれが、明日行われる決勝戦の若き挑戦者だ」
そう言われて改めて彼女を見てみると、瞳の奥には勝利への意志が宿っているような気がした。
「明日が試合なのに、私達を案内なんてしていていいの?」
明日の決勝戦に向けて準備が必要なのではないだろうか、と思わず心配していると呆れたように花絲が小さく笑った。
「わざと――よ」
「なるほど……」
先ほど廊下で知り合った玉姑様が、そんなことをするとはにわかに信じられずに、歯切れの悪い返事をしてしまった。
「華蓉、ここは後宮よ? 直ぐ人のこと信じていたら、命はいくつあっても足りないわ」
大げさな、と私が小さく笑ったのが聞こえたのか、明珂さんが勢いよく振り返った。
「安心してください。私が志願したんです」
そう言った彼女は、意外にも柔らかな微笑みを浮かべていた。
「私、実は華蓉様と一度、お会いしたくて」
突然の告白に私は目を白黒させるしかできなかった。
「会ったことあったっけ?」
思わず照れて頭をかいていると、明珂さんは嬉しそうに頷いた。
「龍鱗組の練習、拝見しました。蘭月様と一緒に舞われていたお姿、本当に美しくて……」
今にも泣きそうになりながら、両手を合わせ明珂さんは私へ近づく。距離を取ろうと一歩後ずさったことに気付いたのだろう。花絲が明珂さんの肩を抱いて勢いよく私から引きはがしてくれた。
その段になって、ようやく自分の言動に気付いたのだろう。明珂さんは、ハッとしたように俯き、耳まで真っ赤にした。
「私ったら……。本当にすみません!」
「私達は、どこで演奏したらいいのかな?」
助け舟を出すように尋ねると、明珂さんは、こちらです、と部屋の片隅の一段高くなった場所へ案内してくれた。
「私達の対局なんて、見ていても退屈だと思うんで、好きな曲を練習いただいて大丈夫です。どうせ、対局中は音なんて聞こえないんで」
明珂さんは、そういっていくつかの席を私達へ勧めてくれる。
「すごい集中力ね。舞台よりも体力を使うんじゃないかしら……」
舞台に立つと、何時間も踊ることもしばしばだ。だが、脳を使い続けるという意味では、囲碁も相当に違いない。
「とんでもない! でも……、囲碁は一見地味ですけど、対局している者同士は常に戦っているんです。相手の癖や好み、精神の揺れ、読めるものは全て読んで、最善の一手をさします」
「すごいわね。でも、なんで後宮なの?」
私の質問の意味を理解しかねたのか、明珂さんは小さく首を傾げた。
「だって、後宮って一度入ったら、よほどのことがない限り出られないじゃない。囲碁なら別に後宮に来なくたって」
後宮に来るということは、囲碁に一生を捧げるということだ。私の言葉に、ようやく明珂さんは、なるほどと頷いた。
「玉姑様の棋譜を拝見したことがきっかけでした」
「棋譜?」
棋譜は、碁石をどのように置いたかという順番を記録するものだ。勝敗の詳細な経緯を知ることができるものだとばかり思っていただけに、意外な回答だった。
「玉姑様は本当に楽しそうに囲碁を打たれるんです。定石にこだわらず、最善の策を試合の最中に考案され、最強の一手として相手に問いかける――。まさに芸術です」
「明日の対局相手なのに、ずいぶんのんきだね」
横で聞いていた煌は、少し呆れたようにそう言った。確かに対局していた時、彼女の瞳に宿っていた闘志のようなものは、今は感じられなかった。
「確かに、明日は大切な一局ですが、私からしたら挑戦させていただくだけでもおこがましいというか……」
確かに私も冬の舞姫の試験のために練習しているが、龍鱗組の先輩方と共に競い合うという事実に恐れ多い気持ちもある。
「なんか意外だな」
煌は抱えていた筝を調整しながら、小さくつぶやいた。
「どういうこと?」
私が振り返ると、煌は「いやいや」と手を振った。
「だってさ、優勝したら一つ願い事を聞いてもらえるんだぜ? もっと、がむしゃらになっているかと思っていたよ」
「そうなの?」
私の問いに明珂は、小さく頷いた。
「選抜試験に合格できたら、可能な限り願いを聞いてもらえます。昨年、玉姑様は白い薔薇をご所望になられました」
「明珂には、そういう願いがないの?」
今までの話しぶりを聞いていると、玉姑様との対局が彼女の望みそのものでもありそうだった。
明珂は口にしてもいいのか、と迷うように少し黙っていたが、私の視線を感じたのかゆっくりと口を開いた。
「囲碁を――。囲碁を誰もが打てる場所を作りたいんです」
てっきり、薔薇のような可愛らしい願い事かと思っていただけに、その答えに思わず耳を疑ってしまった。
「今、我が国では囲碁は、貴族や宮廷に仕える者しか触れることができないものです」
「楽器と似ているわね」
私は、なるほどと頷いた。
私のように歌劇場で育たない限り、貴族や豪商の娘でなければ気軽に楽器に触れることさえも叶わない。
「私は、たまたま父が囲碁の講師をしていたので、幼い頃から囲碁に親しんできましたが、庶民は碁石に触れることさえできないでしょう。
だから、身分や立場にかかわらず、誰もが囲碁を楽しめる場ができたなら――と思っているんです」
壮大な計画に、私達だけではなく他の見習い楽師たちも感心したように、感嘆のため息をついた。
「ずいぶん、大きな願いね」
「はい。でも、誰かがやらなければ、何も変わりませんから」
誰もが囲碁を楽しめる場所を作る――それは、棋院局で優勝した報償としては、無謀な願いな気もした。だが、理想のために戦う決意を宿した彼女の瞳を見ていると、自然と彼女を応援したくなった。
「まぁ、皇帝陛下もケチじゃないから、きっと叶えてくれるわよ。明日は頑張ってね」
「はい! 全力で挑みます」
明珂は、そう言うと足早にもといた碁盤のもとへと走っていった。




