転の旋律(前)
既に夜でも蒸し暑くなりつつある日の晩、私は花絲と共に冷宮の一角にいた。
「あら、私達より先に来るなんて感心感心」
踊るような軽い足取りで暗闇から現れたのは瑋瑋さんだった。少しすると、その後ろから琵琶を抱えた牧さんが現れる。
「練習はしてきたの?」
「勿論です」
私は食い気味にうなずく。
蘭月様が亡くなられてから、彼女の遺志を継ぐつもりで練習に打ち込んだ。
「お願いがあります。冬の部の歌を歌わせていただけないでしょうか?」
瑋瑋さんは、前回同様、東屋に向かいながら「あら?」と意外そうな表情を浮かべた。
「冬の部じゃなきゃいけないんです」
「あら、大きく出たわね」
椅子に勢いよく座った瑋瑋さんは、牧さんから琵琶を受け取ると試すように私を鼻で笑った。
「今年は皇帝陛下が寵姫を探すってことで、歌劇団の子はみんな血眼になっているっていうじゃない? 死人だって出たって噂じゃない」
蘭月様の死については犯人が後宮にいてはいけない人間だったこともあり、「事故」ということで片付いた。だが、それと同時に様々なうわさが飛び交うようになった。
『蘭月様をねたんだ人間が殺した』
『桜花組の主席楽師の仕業では……』
確かに昨年の件をふまえると、今年は殺されても不思議ではないかもしれない。
「蘭月様の無念を晴らしたいんです」
「蘭月の?」
瑋瑋さんは、プッと噴出した。私が思わず睨むと「ごめんごめん」と小さく手を振った。
「だって、おかしいんだもの。あんたに、そんなことできるの?
まともに恋歌も歌えないのに」
「歌えます」
確かに誰かを恋しいと思う気持ちを歌うのは苦手だが。だが、失ってしまった誰かを偲ぶならば、煌が居なくなった時のことを思い出せばいいのだ。
数日、気持が落ち込み、この世の終わりかと思った絶望は味わったことがあった。
「あら、大きく出るわね。
じゃあ……、今日の試験で私が『ダメ』って思ったら、指導はおしまい」
「え?」
新たに突きつけられた条件に私は思わず絶句をする。
「というかね、『ダメ』って思っていたら、いくら練習しても無理よ。
煌ちゃんにお願いされた時、私時間をもらったのよ。あんたの実力がどれほどか知りたくてね。それで講師に指導を受けているところを見に行ったんだけどね――」
自分達の練習風景を見られていたことに初めて気づき、思わず「そうなんですか」と驚いてしまった。
「で、直ぐに華蓉に足りないものが何か分かったわ。
その上で私ができるのは、あんたをあと数2カ月で秋の部の主演に押し上げることぐらいとみたわ。でも、それを現時点でなんとかできていないと、とてもじゃないけど冬の部の主演の練習なんて無理よ」
厳しい言葉だが、瑋瑋さんの言わんとすることは分からなくもない。
「私はね、無理なことは努力しない主義なの。だって大変でしょ?」
無謀な挑戦のために瑋瑋さんたちの手を煩わせるのは、確かに失礼な話だ。
「元々、晴の部を受けていたんでしょ?秋の部だって十分じゃない?」
「秋の部……」
秋の部でも見習楽師が就任したら、十分に凄いことだ。思わず気持ちが揺るぎかけた瞬間、脳裏に天真爛漫に微笑む蘭月様が思い浮かんだ。
「いえ……。冬の部じゃなきゃいけないんです」
瑋瑋さんは、大きくため息をつくと「頑固ね……」と小さく漏らした。
「いいわ。じゃあ、冬の部の一人で歌う部分をお願いできるかしら?」
そう言うと瑋瑋は、琵琶を勢いよくかき鳴らした。蘭月様が何度も練習していた曲だ。
『出始めが一番大切なの。厳しくつらい冬を吐息に乗せる感じでね』
そう言って歌い始めた彼女の歌声は、小さかったが冬の冷たい風のような鋭さがそこにはあった。私と花絲が感動していると、蘭月様は少しして歌うのを止める。
『でもね、それだけじゃないの。春との再会を待ちわびている孤独を表現しなきゃいけないのよ』
その『春』は、晴の部の主演ではなく皇帝陛下のことを指すらしい。
『冬の部はね、春との再会なのよ』
その声は私の直ぐ側で囁かれているかのように、はっきりと聞こえた。
私ならできる……。
そんな自信が私には満ち溢れていた。
目を閉じ、自分の額の裏に音を当てるように注意深く音を紡ぐと、冬の息吹に似た高音の音が奏でられた。
「あら、いいじゃない」
意外そうに瑋瑋様は琵琶を奏でながら、驚きの声を上げた。
だが、これで終わりではない。私は肺に息を勢いよくため込み、胸を膨らます。
予約掲載設定を間違えておりました。
久々の更新となってしまい申し訳ございません。