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序章~傾国の歌姫~(2)

「おい、華蓉カヨウ、その者から離れろ。見ぬ顔だ。警備は何をしている」


華蓉カヨウと名前を呼んだのは、池のほとりに置かれた椅子に座る男だった。男は夜中にもかかわらず着物をしっかりと着込んでおり、瞬時に警戒の色を露わにした。この男も端正な顔立ちをしていたが、その形の良い眉の奥に光る瞳に力強さがあるのは暗闇にいても明らかだった。


「大丈夫。一週間前に入宮にゅうぐうした新人の宮女だよ」


華蓉カヨウは、そういうとゆっくりと自分も地面に片膝をつくと、自分の袖でツァイの頬に流れる涙をソッと拭いた。


「可愛い顔が台無しだ。立てるかい?」


そう華蓉カヨウから差し出された手に触ってもいいものかとツァイが躊躇していると、再び椅子に座る男から責めるような声が飛んでくる。


「なぜ、そんなことが分かる」


そんな声とは対照的に華蓉カヨウは、「簡単だよ」と優しく言うとツァイの手をゆっくりと取り立ち上がらせた。


「ほら、先日、内戦が続いているハン国から難民を後宮で受け入れただろ?」


「あぁ。だが、それが何か関係あるのか?」


華蓉カヨウのもったいぶった口ぶりに、さらに男の声に苛立ちが混ざる。


「まったく……。志煌シコウはせっかちだな。そんなんじゃ、女に嫌われるぞ」


「べ、別に構わん」


志煌シコウと呼ばれた男は、顔を少し赤くして語気を強めた。


「で、この者は潘国の難民とどう関係あるんだ?」


「潘国の内乱の原因は、その国王の女好きに原因しているといわれている。各地の美女を後宮で囲うためにはとにかく手段を選ばないらしい。時には領主の妻を娶るために領主を殺したりしなかったりとか……」


自国の内情が他国に流れていたことに驚き、ツァイは微かな焦りを感じた。


「誰かにも見習って欲しいものだ」


華蓉カヨウは、締めくくるようにそう言って志煌シコウにかすかに微笑んで見せる。


「う、うるさい! 俺は、愛する人が一人いれば十分だ」


さらに顔を赤らめて、そう叫んだ志煌シコウ華蓉カヨウは、「はいはい」といなし、再び話題を元に戻した。


「で、そんな潘国の国王は、他国の美女も気になるんじゃないかなって思ったわけよ」


その通りだとツァイは心の中で頷いた。

おそらく上役は国王から命を受け、蒼雲国の美女の情報を探りにきたのだろう。


「だから、潘国に『蒼雲国の皇帝は絶世の美女である歌姫を寵愛している』っていう嘘の噂を流してもらったんだ」


「それは間違いではないだろう」


志煌シコウの言葉を今度は別の意味で「はいはい」と再び受け流し、再び華蓉カヨウは言葉を続けた。


「そしたら手にタコがあって、皇帝の庭に足音を立てずに忍び込む宮女が来た。まぁ、潘国の人間――密偵って考えるのが普通だろ」


華蓉カヨウは、そう言ってツァイを握る手に力を籠める。


「ち、違います」


バレていたという焦りから、ツァイはその場を離れようとするが、華蓉カヨウの手がそうはさせなかった。


「大丈夫、殺したりしないから」


そう言って、見据えられた華蓉カヨウの美しい瞳にツァイは、軽く失神しそうになる。密偵として生活を始めてから、誰かにこんなに心を奪われたことはあっただろうか。そんなツァイを見ながら面白そうに華蓉カヨウは微笑む。


「受け入れた難民に密偵がいないと本当に思っていたと思う?」


「皇帝の庭にしては、警備が手薄だと思わなかった?」


「なんでわざわざ庭で歌っていたと思う?」


この段になり、ツァイは自分が目の前の麗人にハメられていたという事実に、ようやく気付かされた。


「君にしてもらいたい仕事があるんだ。これがそれ……」


ツァイは『報告書』と書かれた本を華蓉カヨウに握らされた。


「これに蒼雲国の傾国の歌姫の報告書が書いてある」


「何故、これを?」


ツァイは、おそるおそる報告書を見ながら訪ねた。


「それは、君が一番欲しいものだろ?」


余裕の笑みを浮かべながらそう言った華蓉カヨウツァイは、静かにうなずく。ツァイは、目の前のような分厚い報告書を作るために、ありとあらゆる噂話をかき集めるつもりだったのだ。


「君が生き残るためにはさ、これを報告書として出すしかないと思うんだよね」


確かにその通りだとツァイは、心の中でつぶやいた。


「我が国の後宮では、これから君に厳しい警備の目が光る。とてもじゃないけど、今晩のようにして後宮内を探るのは無理だと思うよ」


華蓉カヨウの言葉を肯定するように、志煌シコウが力強く頷いた。


「でもさ、母国に帰って『密偵とバレたので報告することはありません』って言っても割と、命は危ないだろ?」


再び言い当てられ、ツァイは深くうなずく。

この任務をこなさなければ、報酬がもらえないだけではない、おそらく命もないということはツァイも薄々気づいていた。


「大丈夫、嘘は書いてないから」


「なぜ、その者に情報を与える」


そんな華蓉カヨウを責めたのは、その後ろで座っている志煌シコウだったが、ツァイも心の中で『確かにこの展開は、自分にとって都合がよすぎる』と大いに同意していた。


「潘国の国王は、この報告書を読んできっとこう思うんだ。『蒼雲国に戦をしかけてでも美女を必ず手に入れよう』ってね」


「それは、ならん!」


声を荒げた志煌シコウに、華蓉カヨウは楽しそうに声をあげて笑った。


「内戦状態の潘国に、本当にそんなことできると思う? 君もそう思うだろ?」


ツァイは力なく首を縦に振っていた。

この数年の内戦により潘国の国力は明らかに低迷していた。内戦の戦場となった地方では農作物が取れず、餓死者が出る始末。都では物価が高騰し、失業者が都内をうろうろし治安も悪化している。内戦は小さなものが多かったが、明らかに潘国の軍は疲弊していたし、戦力も確実にかつてより減退していた。

物資がない状態でありつつ、士気が低い軍勢で他国へ攻め込むなど正気の沙汰ではない。だが、あの国王ならやりかねないともツァイは考えていた。


「財力も戦力も削がれた潘国にできるのは、せいぜい小競り合い程度。だが、それを機に内戦に片を付けてもらう」


「我が国にか?」


志煌シコウの指摘に、華蓉カヨウは初めて眉間に皺を寄せた。


「それは内戦ではなく、侵略だろ。そんな労力を割かなくても潘国の李将軍がやってくれる手筈が整っている。あいつはまじめでいいやつだから、きっと潘国を立て直してくれるよ」


「そうなのか!」


何も聞かされていなかったのだろう、志煌シコウは明らかに驚きの声を上げた。


「な、なぜそれを?」


なんでそんなことをしてくれるのか……。ツァイは思わず訪ねていた。


「慈善事業じゃないよ? 隣国の内戦って、わが国にとっても他人事じゃないんだ。貿易も滞るし、何より難民が押し寄せてきて、地方の治安も悪化している。そろそろ潮時なんだけど、決め手に欠けるんだよな」


飄々としているが、自国民を思いやる華蓉カヨウの優しさとそれを解決するだけの賢さと行動力にツァイは、胸を打たれていた。


「だが、それをその間者が信じるかだ」


「あ……。そっか」


志煌シコウに指摘され、初めて自分の作戦の大きな欠点に気づいた華蓉カヨウは照れたように笑った。あどけない笑顔は、先ほどまでの完璧な美とは異なっていたが、その皺が寄った可愛らしさが覗く表情に再びツァイは胸が締め付けられた。


「じゃあさ、君はこれから私付きの宮女になるといい。それで、報告書の内容を確認してくれたらいいよ」


「え? あなた様の……?」


ツァイは何が起こったのか分からず、目を白黒していると、華蓉カヨウは「そうだった」と慌てて笑みを浮かべた。


「男装はしているけど、私の名は華蓉カヨウ。蒼雲国の皇后であり、後宮歌劇団の一位の役者・赦鶯シャオウとしても知られているよ」


その言葉で、ようやくツァイは自分が探していたものが、最初から手の内にあったことに気づかされたのだ。



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