第二章 風に舞う途絶えた調べ(4)
その日の夜、庭の影で私は、芽衣様の事故の一件について煌に説明していた。
「--というわけなのよ」
「で、華蓉は『単なる事故ではない』って思っているわけなんだね」
「そうなのよ。それでね……」
「俺は何を調べたらいいわけ?」
言いたいことを的確に理解してくれた煌に思わず、笑みがこぼれてしまう。
「さすがね。実は探って欲しい人がいるの」
「目星はついているわけだ」
私は深く頷く。
そもそも背景画が勝手に落ちてくるという時点で不可思議だった。
あれだけ重い背景画だ。落ちてこないように厳重に固定しておくのが普通だろう。
「火を消しているときに思ったんだけど、背景画を固定していた紐の部分が特に焦げていたのよ」
「よく見ていたな」
煌に感心されたが、あえてそれに答えず私は推理を続けた。
「蜜蝋が塗ってあったんじゃないかと思うの」
「蜜蝋?」
不思議そうに尋ねた煌に、私は深く頷く。
「えぇ、絵画を色付けする際にも使われていたけど、蜜蝋って、普通の蝋よりも低い温度で溶ける性質があるの」
簡単に溶けるからこそ、他の物質を混ぜやすく画材に使われるだけではなく、高級な化粧品などにも使われたりする。
現に部屋で火を使うことができなかった芽衣様は、窓辺に蜜蝋を置いて溶かそうと試みていた。
「あの倉庫の天井は風通しを良くするために天窓になっていたでしょ。
おそらく天井部分に括り付けられていた紐に蜜蝋が塗ってあったのよ。天井から差し込む光の熱で蜜蝋が柔らかくなり、結び目がほどけたんじゃないかしら」
「ん? どういうこと?」
全く分からないといった表情の煌に私は小さくため息をついて、一本の紐を取り出した。
「この奇術知っている?」
私は両手をしっかり組み、親指に軽く挟んだ紐を煌に見せる。
「しっかり握っているでしょ?」
しっかりと握った手を横にしてから、煌に見せる。
「じゃあ、この紐で二つの親指をしっかり縛ってくれる?」
そう言って手を差し出すと、煌は戸惑いながらもしっかりと親指の上で紐を結んだ。
「ありがとう。これで紐は抜けないはずだけど……」
私は次の瞬間、紐から左手を抜いて煌に見せる。
「え? なんで? 俺、ちゃんと縛ったはずなのに」
唖然とする煌に私は手のひらの中を見せた。
そこには弛んでいる紐があった。
「さっき、手のひらを横にした瞬間に、手のひらの中の紐を弛ませたの」
「それで、指が抜けたってこと?」
私は深く頷く。
「結び目をしっかり結んでいても、どこかに弛みが生じたら結び目は役目を果たさなくなるのよ。おそらく犯人は、蜜蝋を結び目にシッカリ塗り込んでいたんだと思うわ」
私の説明にようやく煌は、なるほど、と頷く。
「で、なんで俺なわけ?」
不満を口にしているが、少し嬉しそうな煌に私は思わず苦笑する。
「だって、得意じゃない」
劇場で一緒に遊んでいた時も身軽な煌は様々な場所へ潜り込み、調べて欲しいといったことを調べてきてくれた。
「ここは劇場じゃなくて、後宮なんだぞ?」
「なんか、欲しいわけ? 何にもないわよ」
もったいつける態度に苛立ち、そう尋ねると煌はニヤリと笑った。
「俺もちょっとした問題を抱えていてね」
「そうなの? それなら早く言いなさいよ。別に何かしてくれなくても力になったのに」
以前、煌は、何か困ると誰よりも先に私に相談してくれた。
三年間の間に、二人の間に意外な距離ができていたことに気づき、傷ついたが勿論、言葉にはしなかった。
「いや、俺の問題ではないんだ。さる御方の問題でさ」
「さる御方? 偉い人なの?」
珍しく言葉を濁され、思わず首を傾げてしまった。
「それはさ、まず、この事件が解決してからでいいよ」
「あっそ」
そんなに不用意に名前を出すこともできないような人物なのだろうか。ただ、後宮で身分の高い人間というと非常に限られてくる。
后妃は一般的に宮女よりも身分は高いが、後宮楽師や宦官楽師と比較すると決して后妃の方が身分が高いわけではない。後宮楽師の中でも各組の首席楽師は従二品の位が与えられ、中級后妃以上の扱いを受けている。
おそらく宦官楽師においても同じことが言えるだろう。
そんな宦官楽師である煌が名前を言うのもはばかられる人物となると、上級妃である貴妃様や賢妃様などの可能性が高い。
后妃様たちに煌が何か頼まれている姿を想像すると、なぜか胸が苦しくなるような気がした。
その理由はハッキリしていなかったが、理由を突き詰めるのも決して楽しいものではないだろう。
理由について深く考えるのを止め、私は、努めて明るく笑顔を作って見せた。
「私にできることなら、何でも言って!」
「ありがとう。で、こんな他人の面倒ごとに首を突っ込んでいるけど、試験の方は大丈夫なの?」
煌にそう尋ねられ、私は思わず苦笑してしまう。
「全然ダメ。春の試験の手がかりみたいなのは分かったんだけど、だからと言ってどうすることもできないのよね」
春は嵐の場面に力を入れているのが分かったが、だからと言って私の歌が上手くなるわけではない。
「俺はさ、華蓉には、冬の部の主演がいいと思うんだ」
「はぁ? 冬? しかも主演?」
煌のとんでもない発言に思わず聞き返してしまった。
「冬って、どういうことか分かって言っているの?
各組の首席楽師がこぞって試験を受けるのが冬の部よ?」
冬の主演は、単に踊るだけではないからだ。
一通りの歌を披露した後は、皇帝陛下との舞を舞う役目が任される。
「今年は皇帝陛下が舞われるってことで、みんな殺気立っているのよ。
見習いの私が出る幕じゃないわ」
「でも、華蓉は、首席楽師になりたいんだろ?」
私の反論を愚問と言わんばかりに、煌はそう尋ねる。
「そうだけど」
「ならさ、遠慮する必要はないと思うんだ。華蓉が堂々と歌う姿、かっこいいと思うよ」
幼馴染のひいき目に呆れ、私は思わず大きくため息をつく。
「春の部の課題すら満足に歌えないのよ?」
「大丈夫。冬の試験は、あと数ヶ月先だし」
春、夏、秋、冬と順々に試験は実施されていくので、当然だが、冬の部は一番最後に試験が実施される。確かに練習時間は確保できるが、それと同時に各試験で落ちた楽師たちが、こぞって再受験するわけだから決して倍率が低いわけではない。
「考えておくわ。じゃあね」
煌にこれ以上説明しても無駄だと悟り、私は自室へ戻ることにした。
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