第二章 風に舞う途絶えた調べ(2)
私と花絲が慌てて倉庫に戻ると、中央から垂れ下がっていた絵画が崩れ落ちていた。ちょうどその下は、芽衣様たちが絵付けをしていた場所だ。
「動ける子は、怪我人を外へ連れ出して!」
悲鳴を上げて逃げまとう宮女にそう指示を出していたのは、紫涵様だった。
「あなた達! ちょうどよかったわ。火を消すのを手伝ってちょうだい」
入口で唖然としている私達2人の姿に気づいたのだろう。
紫涵様はそう言って、倉庫の中央を指さす。
指さされた先は瓦礫が山となっているだけではなく、煙が立ち上っているのが見えた。
「蜜蝋を温めていた火ね」
私は火を消すための道具を持ってこようと倉庫を出ようとした途端、入口で人とぶつかった。
「華蓉! 大丈夫か」
必死な形相で私の肩を掴んだのは、煌だった。
「あんた、どうして?」
「そんなこと、どうでもいい。怪我は?」
「ないわよ。それより火を消さないと……」
再び倉庫の中央を振り返ると、煙がさらに先ほどよりも濃くそして太く立ち上り始めているのが見えた。このままでは大火事になってしまう。
何かが焦げる匂いの先に、泥のような匂いを感じ思わず目の前の煌を見つめると、着物の袖が土で汚れている。
「こんな所で何してたの?」
「何って……隣の宮で……ちょっと」
モゴモゴと要領を得ない煌の口ぶりに思わずイライラしながら、希望的予想を口にする。
「庭を掘り返していた?」
「え、なんで?」
私の予想が当たっていたようだ。私は「連れて行って」と言って、煌の手を取り倉庫を出た。
「ど、どういうことだよ」
私に急かされ、煌は戸惑いながらも廊下を走りだした。
「庭の土よ。ここから井戸まで遠いの。とってもじゃないけど、沈下できないわ。でも、大量の土があれば消せるわ」
「なるほど! さすがだな」
そう感心しながら煌が素早く曲がった先には、更地に近い庭が広がっていた。
そして、庭の隅には土が積まれた荷車がポツンと置かれていた。
「あの、荷車に載せてある土を運ばせて!」
そこからの対応は早かった。
宦官たちによって運ばれた土によって、無事倉庫の火は沈下され大事に至らなかった。
残念ながら蜜蝋で描かれていた絵画は燃えてしまい、天井から落ちてきた背景も焦げ使える代物ではなくなってしまったが、死人などは出なかった。
それでも倉庫が元の状態に戻ったのは、それから数日後だった。
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「そういえば、絵付けをされていた芽衣様、腕の骨が折れてしまったみたいなの」
講堂の講義が終わったのを待つようにして、花絲は私に残念そうに声をかけた。
「必死で利き手を庇われたみたいなんだけど、あれほど大きな背景が落ちてきたらね……」
事件の後から分かったが、背景が描かれているのは麻布だったが、それを杉の木枠で張っていたらしい。そのため、見た目以上に背景がは、重量があったと煌から聞かされた。
「背景は、誰が描くことになったの?」
「それは、紫涵様が描かれることになったみたい。蜜蝋は危険だからって、使用が禁止されたみたいなんだけどね」
「それは辛いわね……」
おそらく芽衣様には、最も辛いことなのではないだろうか。
「それでさ、今日の午後、講義はないでしょ。芽衣様のお見舞いに行かない?」
大人しそうな顔をしているが、好奇心旺盛な彼女は意外に大胆なのかもしれない。
「会っていただけるかしら?」
「それは、私達は楽師だから会えるわよ」
そう言って花絲は、何かを企むようにニヤリと笑顔を見せた。どうやら、芽衣様の怪我について知った時から計画を立てたに違いない。
数刻後、琵琶を持たされた私は、筝を持った花絲に、宮女たちの居室が並ぶ一角に立っていた。
「確かね、こっちだって聞いたわ」
花絲は困ったように廊下をうろうろとし始めた。
どうやら部屋の詳細な場所についてまでは教えてもらえていなかったのだろう。
「あら、あなた達、見習い楽師の子たちじゃない」
そう背後から声をかけてくれたのは、紫涵様だった。
「もしかして、芽衣のお見舞いに来てくれたの?」
「はい。音楽でお慰めしようと思いまして」
花絲は、ぎこちない笑顔を浮かべながら頷く。
「私もなのよ。ちょうどよかった。一緒に行きましょう」
そう言って慣れた足取りで廊下を進み始めた紫涵様の手には白い花が抱えられていた。
少し歩きたどり着いた扉の前に立つと、紫涵様は遠慮がちに「芽衣、いいかしら?」と声をかけた。
「いいわよ~」
返ってきた声は、想像とは違い明るいものだった。
紫涵様が扉を開けるとそこには、蜜蝋の香りが立ち込めていた。
「ちょ、ちょっと芽衣! 何しているの」
紫涵様は、そう言うと慌てて部屋の奥にある窓を開け始めた。
改めて部屋の中を見渡すと、床には麻布の切れ端が至る場所に捨てられていた。
部屋の中央にある机の上では、慌てる紫涵様を呆れたように見つめる芽衣様の姿があった。
彼女の左手には筆が握られている。どうやら絵を描いていたのだろう。
「なんとかさ、火を使わないで蜜蝋溶かせないかなって」
彼女はそう言うと、窓の側に置いてある小瓶を持ち上げた。
「日の日差しで柔らかくなってくれたらいいなぁ~と思ったんだけどね」
芽衣様は、少し困ったように小瓶を見つめる。
「でも、この部屋日当たり悪くてさ、全然だめ。紫涵の部屋と交換してよ」
そう言う芽衣様は、決して気落ちした風はない。
「なんか、思っていた感じと違うわね」
花絲は、意外そうに私にそう小さく耳打ちする。
「で、あなた達、誰?」
入口で戸惑っている私達に気づいたのか、芽衣様はそう言って振り返った。
私達が自己紹介する前に、紫涵様が「ちょっと!」と芽衣様を小突いた。
「事故の前に手伝いに来てくれた見習い楽師の華蓉さんと花絲さんよ。芽衣も挨拶したでしょ!」
紫涵様にそう言われ、芽衣様は渋い顔をしながら天井を睨みつけた。
「ちょっと……。うん、そうだったね」
絶対、覚えていないのがよく分かる反応だった。
ただ、逆に紫涵様がよく私達の名前を憶えていたなと感心させられた。
「ねぇ、あなた達。持っているの筝と琵琶よね。ちょっと、こっちに来て」
だが、少しすると芽衣様は、何か思いついたように、私達の元へ駆け寄った。そして、花絲の腕を掴むと窓辺の側に置いてある椅子に座らせた。
「筝を吹いて。好きな曲でいいわ。で、デカいあなたは、こっち来て」
手招きをされ私も足の踏み場がない床をおそるおそる歩きながら窓辺に行くと「ここ」と窓の枠を指さされた。
「ここに座って琵琶を弾いて」
そう指示をすると芽衣様は再び、机に戻り何かを書き始めた。
「左手でも描けたの?」
芽衣様の手元をのぞき込んだ紫涵様は、信じられないといった表情でそう尋ねる。
「ん~。右手ほどじゃないけどね。でも右手とはちょっと違う感覚が面白いんだよね」
そう語る芽衣様は、本当に楽しそうだった。
「そういえば、背景やっぱり蜜蝋は使えないって?」
手を動かしながら芽衣様は、そう紫涵様に尋ねた。
「えぇ、今年は例年通りで行くことに決まったわ」
「そっか。でも、『今年は』なんだよね?」
芽衣様の瞳には、「絶望」の影など一つもなかった。
「そうだけど……」
「じゃあ、来年はもっと凄いの考えようよ! 紫涵の絵と私の絵付けがあれば、歴史を変えられると思うのよ」
とんでもないことを宣言する芽衣様に紫涵様は言葉を失っていた。




