9話 最後の筋肉
アナベルは再び練習場へと通い出した。
グレイとも以前のように会話をし、筋肉を触らせてもらい、楽しい時間を過ごしている。
しかしアナベルは、足を運ぶ回数が増えたことにより、新たな悩みを抱え始めていた。
どうしましょう、もう触れる筋肉があまり残っていません……。
そうなのだ。 主な筋肉を、一通り触り終わってしまったのである。
元々、筋肉一ヶ所を触らせてもらう為に、差し入れを一回作っていた。 そういう交換条件で始まった二人の関係性である。 触る筋肉が無くなったら、もう会いに行く理由がなくなってしまう。
アナベルはなんとか通える回数を増やそうと、マイナーな筋肉を勉強し、わかりづらい『筋肉と筋肉の間の筋肉』や、『素人が見た目で判断しにくい筋肉』を触らせてもらうという、苦肉の策に出た。
最初は恥ずかしがって後回しにしていたお尻の大臀筋や、太ももの内側の内転筋も、支障がない程度に触らせてもらってしまった。
令嬢としてーーもはや、女性としてありえない行為である。 両親が知ったら卒倒しそうだ。
しかし、悪あがきもいつかは終わる。
いよいよ残すは広背筋だけになってしまった。 アナベルは、背中を何となく最後まで取っておいたのだった。 騎士にとって、背中を見せるのは良くないことなのかもと案じたせいでもある。
アナベルは、今日が最後になるかもしれないと覚悟を決め、練習場へと入っていった。
今日の差し入れはクレープである。 食事としても食べられるように、中に入れる具材を工夫して持ってきた。
「よう、アナベル」
すぐにグレイが近付いてきたが、真面目にトレーニングをしていたらしく、汗で髪が濡れていた。
「お疲れ様です。良かったらこちらを」
タオルを差し出すと、グレイは嬉しそうに受け取ってくれた。
いつものように二人で観覧席に移動し、クレープを並べながら説明する。
「今日はクレープです。チキンや野菜、ソーセージ、卵、ポテトサラダなど色々あるので、お好みで巻いて下さい。ソースも何種類かあります」
「今日もうまそうだな。辛いソースは?」
「もちろんありますよ。結構辛いですから気を付けて下さいね」
「さすが、アナベル!わかってるよなー」
満足そうにグレイが食べ始めた。
わかってるに決まってるじゃないですか。 もう何回こうやって作ってきたと……。
アナベルはグレイの相変わらずの食べっぷりを眺めながら、もうこの姿も見納めかもしれないと思うと涙が滲んできてしまった。
「おい、どうした?辛かったか?って、食ってないよな。じゃあなんだ?食いたかったのか?」
見当違いな事を言いながら、グレイが慌てている。
アナベルは思い切って悲しくなった理由を打ち明けることにした。
「今日で筋肉が終わってしまうのです」
「は?」
「だから!今日、広背筋を触らせてもらったら、もう触ってない筋肉が残ってないのです」
「うん。それで?」
あーもう、なんでグレイ様はわかってくれないのでしょうか。 私が来なくなっても、少しも寂しいとは思ってくれないのかしら。
「もうここに来る理由がないのです!もう来られないのです!!」
アナベルの必死さがようやく伝わったのか、グレイは驚いた顔で黙ってしまった。
ーー しばらくの沈黙後、グレイが静かに喋り出した。
「なんで来られないんだ?来ればいいだろう。来いよ。じゃないな……来て下さい」
なんだか、活用形のようにたくさん来いと言われました。 終わりじゃなくてもいいのでしょうか。
「私、これからも来てもいいのですか?」
「いいに決まってるだろ。むしろ、なんで駄目だと思ったんだか」
「だって、筋肉が……」
「そんなの口実に決まってんだろ?」
「口実?」
「あの時は、これからもアナベルに来てほしいから……わざと筋肉を一ヶ所って言ったんだ。そうすれば何回も会えるだろ?」
「グレイ様……」
何度も会いたいと思ってくれたのですか? 今日で最後じゃなくていいのですか?
安心して、本格的に泣き出してしまう。
「あー、ほら泣くな。俺が泣かせたみたいじゃねーか」
「グレイ様が泣かせたのです。グレイ様ともう会えないと思って、私……」
泣き続けるアナベルを慰めるように頭を撫でていたグレイだったが、急にアナベルを抱き上げると、練習場から飛び出した。
え?何事? 私、お姫様だっこされてるような。 鍛えられた腕と胸の筋肉が心地いいですーー って、そうじゃなかった!
「グレイ様?どこへ?私重いですから、下ろして下さい!」
しかし、止まる気配もない無言のグレイに運ばれるしかなく、アナベルは諦めて力を抜いたのだった。