3話 伝説の将軍は、首の筋肉も素晴らしいです
アナベルの三回目の差し入れの日。
最初が上腕二頭筋、前回が腹筋でしたから、今日はどうしましょう? いよいよ胸筋の出番かしら? きゃー、楽しみすぎます!
今日もアナベルは、スキップでもしそうな足取りで練習場へと入っていった。 侍女は馬車で待機をしてくれている。 最近アナベルがご機嫌な為、不審に思いながらも家族は見守ることにしたらしい。
前回の腹筋も最高でした。 パンチしても大丈夫って、信じられないお腹ですよね。 それに、あんなに食べているのに太らないなんて、やっぱり動く量が普通じゃないのでしょう。
腹筋について思い出していたら、グレイが手を振っているのが見えた。
「グレイ様、ごきげんよう。また来てしまいました。今日はパイを何種類かと、マドレーヌを焼いてきました」
「さすがアナベル!今日のメニューも最高だな」
そんなことを話していたら、低い声が二人にかかった。
「グレイ、そちらが噂のアナベル嬢か?」
「あ、親父」
「馬鹿者!父上と呼ばんか!!」
え?父上って……。
「グレイ様のお父様?」
ポツリと呟いたアナベルに、グレイが「急に現れんなよな」とぼやきながらも紹介してくれる。
「あー、うちの親父……じゃなかった、私の父、ジェフリー・ゴードンです。軍の総司令官を務めています」
使い慣れない丁寧語を嫌々駆使するグレイ。
うわわ、うちの父より少し年齢が上でしょうか。 それなのに、鍛え抜かれた見事な肉体!って感じです。 グレイ様より大きく見えますもの。
それにしても、ジェフリー・ゴードンってどこかで聞いた名前のような……。
記憶を引っ張り出すアナベルに、昔読んだ歴史書の内容が浮かんできた。
「ああっ!ゴードン将軍!?バチルタの戦いで、国を勝利に導いたという……」
「ほう。若いご令嬢なのによくご存知だ。もう30年近く前のことだが」
そう言って笑った顔は、グレイとよく似ている。
「歴史で勉強しました。それにしても、なんて素晴らしい肉体なんでしょう!!」
アナベルは、つい惚れ惚れとジェフリーの身体に見惚れてしまった。
「おいっ、そんなあっさりと他の男の筋肉に浮気をするやつがあるか!」
珍しく女性と楽しそうに話す息子を、ジェフリーが興味深げに眺めている。
「ご挨拶が遅れまして申し訳ございません。アナベル・レスターと申します。高名なゴードン将軍にお目にかかれて光栄です」
アナベルはジェフリーにカーテシーで挨拶をしたが、散々グレイとふざけた会話を繰り広げた後なので、しまらないのは仕方がない。
しかしジェフリーは、勉強したときにアナベルが想像していたような怖い人ではない気がした。
「いや、ご丁寧にありがとう。最近、息子と親しくしてくれる令嬢がいると噂で聞いてね。グレイは見た目は私に似て、そんなに悪くはないとは思うんだが、とにかく女性に対する配慮や礼儀に欠けているだろう?いい年して、浮いた話の一つも出てきやしない。今回もせっかくのチャンスを棒に振る前に、私がアドバイスを……」
「うるせーよ、余計なお世話だっつーの」
親子でじゃれあっています。 二人とも体が大きいのに、まるで大型犬が戯れているようで微笑ましい光景ですね。 でも、チャンスって何のことでしょう?
ニコニコと二人を見ていたアナベルだったが、ふいにジェフリーの首に目が釘付けになった。
将軍のあの首! あの筋肉は確か……。
「アナベル?どうかしたか?」
グレイがアナベルの異変に気付いたようだ。
「あの、ゴードン将軍の首が!」
「首?」
ジェフリーが首を傾げた。
「そうです!その首の筋肉って、胸鎖乳突筋っていうんですよね?素敵です!カッコいいです!!」
「「は?」」
親子が揃ってハモり、アナベルを不思議そうに見たが、構わずアナベルはジェフリーの首ばかりをうっとりとした表情で見つめ、じっくりと観察し始めた。
感嘆するアナベルに呆気にとられていた二人だったが、さすが天下の将軍、復活も早い。 胸鎖乳突筋を摩りながら、嬉しそうに微笑んだ。
「ククッ、本当に面白いお嬢さんだ。私達に恐れずに話しかける令嬢というだけでも珍しいが、本当に筋肉がお好きとみた」
更に柔らかくなったジェフリーの雰囲気に、アナベルも遠慮がなくなる。
「そうなんです!私、最近まで鍛えることによって、筋肉がここまで発達することすら知らなくて。人体ってすごいです。今まで人生損してました。今までの分を取り戻すべく、グレイ様の筋肉を堪能しているところなのです!!」
「うんうん、わかったから、一度落ち着こうな?」
グレイが呆れながらアナベルの暴走を止めに入った。
はっ、またもや取り乱してしまいました。 筋肉には魔力でもあるのでしょうか?
「グレイ、アナベル嬢を逃がさないようにな。こんな女性は二度と現れないぞ?私がもう少し若ければ、口説いていたものを……」
「うるせーよ!親父にアナベルは勿体ない。誰がやるか。さっさと仕事に戻れよ!!」
本人は意図せずに怒鳴っているが、アナベルは自分のものだと言わんばかりのグレイの発言に、ジェフリーは内心笑っていた。 肝心のアナベルは、全く気付いていなかったのだが。
「あー、煩い。煩すぎてアナベル嬢に嫌われないようにな。それではアナベル嬢、私はこれで。出来の悪い息子だが、よろしく頼む」
どうやら、親子の口喧嘩は終わったようだった。 ジェフリーはアナベルに微笑みかけると、颯爽と去っていった。
うーん、さすが将軍。 後ろ姿もカッコいいですね! 背中の筋肉も素敵です。
アナベルが、ジェフリーの後ろ姿から目を離さないことに拗ねたグレイは、差し入れのパイを勝手に食べ始めたのだった。
アナベルが騎士団の練習場に顔を出し始めてから、一月ほどが経った。
第二王女との初対面後、話し相手として気に入られてしまったアナベルは、一週間に一度は王宮にも出向いている。その為、それまでは屋敷にこもりがちだったアナベルだったが、一気に外出の機会が増えた。
新調したワンピース姿で楽しそうに出かけるアナベルを、家族は喜んで見送っていた。 真面目なアナベルが、つつがなく王女の話し相手を務めあげていると信じて疑わなかったからである。
しかし実際は……。
「まぁ!筋肉とはアナベルがそんなに感動するほど魅力があるものなの?」
「そうなのです!私も以前まで知らなかったですし、ご令嬢の多くが気付いてはおりませんが、それはもう素晴らしい芸術なのです!!」
王女にも筋肉の尊さを布教しているだけであった。
王女自体が会話を楽しんでいる為、問題は無かったのだが、思わぬところでその影響が現れることを、この時のアナベルはまだ気付いていなかった。