真夏の雪のつくりかた
天国はファミルンがあるところで、地獄はファミルンの跡地だ。
あたしにとってはそうだし、多分フユカにとってもそうだった。試合に負けた日あいつは必ずカルピスとメロンソーダとココアなどを混ぜたやつを錬成し、じゃんけんで負けたほうが一気飲みした。ダブルスだから責任は双方にあり、ぜってーあれ飲みたくない!死ね!の一心でラケットをぶん回すと意外とよいかんじのプレーができたりした。勝てたときはいつものミニサンデー(という名のコーンフレークとソフトだけのなにか)をチョコバナナパフェにランクアップしてよろしいという暗黙の了解もあった。フユカは上にささったポッキーを無言で奪うような奴だった。ドリンクバーでメロンソーダを押した回数選手権があったらあたしたちは優勝できた。ファミルンはファミレスの枠を超えてあたしたちの心の安寧に寄与し、放課後のだらだら時間を長きにわたって支えてくれた。ばんざい! なんで閉店した!
ファミルンがいかにすばらしい店で、どういう経緯で我々の前から消えちゃったのかをあたしは話したくてたまらない。出来事は口にすると希釈される。薄まるのでも消えるのでもなく、物語化されて別のものがひとたらしされる。それを悪いとは思わない。生きるにはきっと、自分を肯定する何かが必要だ。
でもまずは、フユカが死んだことから話そう。
***
フユカがたった半年の闘病でサクッとあの世に引っ越したこともわからなかったけど、葬式のドレスコードが紫だったことはもっとわからなかった。
は? ムラサキカガミみたいなことすんなよ……って思ったけど、ノートの片隅に残された文面はちゃんとまじめで、十七歳で夭折した一人娘のためにご両親は遺言を遂行する。
「みんな、これまで私と仲良くしてくれてありがとう。お父さん、お母さん、先に死んじゃってごめんなさい。そして、私の葬式には必ずむらさき色の服で来てください」
何回読み返してもしっくりこない、誰かの言葉を借りてきたような遺言だった。
このまえ会ったとき、ベッドに寝そべったフユカは「悪くなかったよ」と言って少し笑った。飄々とした笑顔は濃い隈と青白い顔色に歪められて面影をほとんど残していない。あたしの悪友は、浮いた骨の檻のなかにすっかり閉じ込められてしまったみたいだった。
「おい、水」
「……はいはい、水でございますねえ」
差し出した吸い飲みから一口だけ水を補給して、薄い背中がありがとうも言わず壁際を向く。点滴とか導尿とかよくわかんないチューブにまみれていても、傍若無人な友達はあいかわらず女王様だった。
こんなことになったのは去年の冬だ。部活の走り込み中に「謎にだるい」とぼやいていたフユカは、歩いているだけで転び、徐々にテニスどころではなくなり、大学病院のベッドでスヤスヤする毎日を送るようになった。手術とか薬とか難しいところはあたしは知らない。わかるのは、痩せに痩せたフユカは、これ以上細くなったらこの世からしゅっと消えてしまうってことだけだ。
「……ナツキ、私がかわいそうかい」
ぼわっとしていると、いつのまにか切れ長の目があたしを捕まえていた。
「は? そりゃそうだわ。ガリガリすぎてマジあわれ。目のやり場に困る」
「ちょっとは気遣えよ」
「めっちゃ優しくしてるじゃん、ほれ今週のノート」
靄のかかった二重がサインコサインタンジェントを追い「やべー字」と呟く。「いよいよ目もやばいね」ぼこぼこに黒ずんだ点滴跡から目を逸らして、あたしはカバンから出したちり紙のお花をもぞもぞいじくる。
「なんそれ」
「学祭の展示。一人百個作んないと終わんないって」
「はあ、そーゆー時期か。はは。どうせ壊すもの作ってご苦労だな」
せせら笑いはこけた頬のせいで一層やな感じに映った。フユカはこういう顔をあたしにしか見せない。おかげで進級以来一度も登校していないクラスでは、病気と闘う薄幸の美少女的立ち位置になっている。
「あ、そうだ、これ、クラスの女子がさー」
「病室はゴミ捨て場じゃねえ」
「やんわり止めはしたんだよー」
紙袋に入ったままの千羽鶴をフユカは華麗にダストシュートする。こいつの病気なんて去年からのことで、それがなんで今になってこんなもん作って寄越すかっていえば、学祭のお花作りでクラス全体の工作熱が高まったからだ。可塑性の高い自己満足はやり返す手段をもたない薄幸の美少女に行きつく。
点滴とひとつになった手首がだるそうに紙をめくる。伸びたチューブの先が数ⅡBも学祭も受験にも辿り着かないことはわかってた。だけどあたしに何が言えるだろう。軽口抜きで友達と喋ったことも、一回も死んだこともないあたしに?
「……まあ、なんだ。悪くなかったよ」
ノートをぱたんと閉じる音がした。やたら白い蛍光灯に照らされたすきっとした横顔を見て、あたしは無意識に口をつぐむ。
「こんな幕引きだけど、別につらくはないんだ。後悔はいつでも残るもんだしな。やれるだけのことはやったと思うよ」
「……まじで言ってんの?」
「そこそこ」
「は!? はぁ〜〜!?」
「迷惑な音量だな」
「つらくないって、なわけ、おまえ、ちょ、はあ!? なに、いきなり悟ったふりとかマジキモいからね!? あんた知らないだろうけど何でも長く生きたほうが勝ちって決まってんだよ亀とか鶴とか見習えよフユカのくせにかっこつけんなバーーカ!!」
突然まくしたてた言葉を、とろんとした瞳が二~三秒遅れで理解していく。かわいそうだと認めるのもかわいそうだと思わないように努めるのも何かねじれているし、あたしだって黒ずんだ点滴跡をもう見たくないのに、そのくせフユカには、フユカ本人だけにはそういう諦めかたをしてほしくなかった。
勝手だけど。勝手だけど別にいい。だってあたしがクソ勝手なことはこの半年で死ぬほど思い知った。あいつがげーげー吐いてる日も夕飯の焼肉はうまかったし、中間テストを受けながら思い出す手術はあまりにも遠い。フユカがまさにおなかを捌かれてるときにあたしといえば「あー今ごろ手術だよなあ」。まったくもってふざけてる、まないたの上の鯉と料理人くらい立場が違う。
あたしはあたしのことしかわからない。だから死ぬほど苦しんでいろんなことを考えたであろうフユカに向かって無責任に叫ぶ。たぶん、これが自分という存在に対するあたしの責任の取り方だ。包丁を持ちながら泣かれたって鯉もキレるだろう。
フユカはしばらく銅像のように黙って、むくんだ目をしぱしぱさせながら言った。
「……あのさ、こっちもやってらんないんだよ」
「なにが!」
「悪くないと思わないとやってらんないつってんの。私を肯定する権利くらい私にくれよ」
絞り出すようでいてちゃんと怒鳴り声。静かなガチギレにあたしは素直に「それは、ごめん」とつぶやく。人は自分の世界だけは捻じ曲げる自由がある。他人の言い分を認めない権利もあるので謝ったあとにほっぺを思いっきりつねったけど。
「……おまえさー、葬式ちゃんと来いよ」
「あーもうやだ! あー、もう……なんでそういうこと言っちゃうわけ? それがヤだっつってんじゃん!」
勢いよく病室のドアを閉めると、壁の向こうから舌打ちが聴こえる。
それくらいの元気はあってよかった。
***
ああそう、ファミルンでした。
通学路沿いの国道にあったファミルンは冬のおわりに閉店した。経年劣化か元からかわかんなかったクリーム色の壁紙も、いつも注文を受けてくれた声の小さいおばさんも、ぜーんぶ重機でならされた更地のかなたに行ってしまった。安っぽいメロンソーダと煮えすぎたドリア、テーブルの水滴でふやけた数学のノート。四時半にはまっくらになる真冬の部活帰り、雪のまんなかにぽつんと佇むしょぼいシェルター。
寒い寒いと言って飛び込むのに、ドリアでおなかをあっためたらミニサンデーも頼んで、結局しょっぱいものが欲しくなってポテトを追加する。そのうちラストオーダーになって、ふたりで夜の雪をきゅいきゅい踏みしめて帰る。あんまり知られてないけど、本当の夜の雪って白じゃない。ぼんわり暖色に染まった住宅街の道幅は狭く、前を行く影だけが黒い。口を開けると喉が凍る。振り返ったフユカがやかんみたいに息を吐く。
「ナツキ」
「なに」
「一生冬の夜だったらいいよな」
「え、あたし絶対夏がいい。年中外で試合したい」
「好み合わね~」
「そんなんずっとじゃん」
おいしいファミルンファミルンルン、あなたの街のファミルンルン……。
そのころはまだ歩けたフユカが「天国にはファミルンがあるんだろうな」と呟いたとき、あたしは不覚にもじわっときた。それはもちろん、もうすぐ彼女がファミルンのある側に行ってしまうっぽいという予感込みの涙だった。二度と行けない場所が天国とおんなじだって知れるのは、二度と行けない場所ができたときだ。
「……あーあ、もっかい冬にファミルン行きたかったな」
梅雨が終わるころ、肉体の引っ越し準備が佳境に入った友達はテンプレなつぶやきを残して二週間眠り、そのまま長めの夏眠に入った。
***
そこにフユカがいないのがよくわかんなくて、あたしは受付で痩せた長身を一瞬探す。そして遺影見て、あーフユカいないんだった! と思い出してハッとした。うそ、ちょっと嘘。多分それも含めてポーズだ。「ショックすぎて認められない自分」というポーズ。
ドレスコードはマジで黒じゃなかった。淡いむらさきで埋め尽くされた白いホールと『加藤家葬式』という仰々しい立て看板がそぐわないけど、葬式はいつもこんなもんだった気もする。本気でやるほど何かちぐはぐで、誰もがどっか追いついてない。
「ナツキちゃん、来てくれてありがとう。フユカも喜んでると思うわ」
疲れた顔のおばさんに声をかけられて、あたしは「はあ」とあいまいに微笑む。
「……あー、そういえば服。さーせん。紫持ってないんすよ」
「全然。もうねえ、あんなこと急に言われても困るでしょ。来てくれただけでいいのよ」
葬式プランの手配やら親戚への挨拶やらで疲れすぎているおばさんはおめー何一人だけガチの喪服着てんだよとは言わないし、あたしもフユカは死んでるからもう二度と喜ばないんですよとは言わない。
結局あたしはいつもの制服でここに来た。高校生の喪服としてこの上なく正しいのに、お上品なパーティーみたいな紫の集団に囲まれていると間違っている気がしてくる。でもまあ世の中、あたしが正しかったことのほうが少ない。
パイプ椅子に腰掛け、なすすべもなくスマホをいじる。葬式のごはんクソまずいから帰りはフユカとファミルンに寄りたい。……あーちがう! 今のなし! フユカはいない、ファミルンもない。ちょっとお留守にしてるどころの騒ぎじゃなくて、ガチで〝いない〟! でも不在の穴と、話せないことや一緒に帰れないことがまだ接続しない。
いよいよ読経が始まると、葬儀場のやわらかな間接照明に照らされて、みんながぼんやりと沈み込む。きーみょーうむーりょーうじゅーにょーらーい。ナントカ真宗の喘ぎ声みたいなお経に吹き出しそうになって、しばらく手の甲をつねって耐えて、やがてその波も過ぎ去って、なんとはなしに頭を上げた。
やわらかい白に満ちた広間。最後列のあたしの目からは、厳粛に頭を垂れた弔問客はひとつの大きなかたまりに見えた。
いくつもの紫が薄暗く白飛びして。なんか、知ってるな、と思う。知ってるなこういう景色。一面むらさきの弔問客が白めの間接照明に照らされるとこなんて初見だけど、感覚として、こういう彩度の何かが脳に焼き付いている。あたたかくて茫漠として、妙にしんとした、それは。
……ああ。
本当の夜の雪って、むらさきだ。
あたしたちは、それを知ってる。
「おーい、さっさと来いよ」
赤紫にたなびく吹雪の中で、前をゆくショートヘアが振り返る。あたしより一センチ大きい足跡をたどって、ゆっくりと雪を開拓していく。音を吸い取る風に囲まれて、はがれかけたチェックのマフラーを目印にして。
瘦せた背中とぽっかり浮かぶ雪は、あたしの網膜でいつもセットだった。
幾度も繰り返された光景。
世界中に二人きりであることが、何も特別ではなかった夜。
「フユカ」
そのとき、やわらぎ斎場のBホールをむらさきの雪原にできるのはあたしだけだった。お経がスローテンポのゾーンに入り、マナーの悪いJKが椅子から伸びあがっていることにほとんど誰も気づかない。
隣の同級生が「ナっちゃん……」と小声でささやいて袖をひっぱる。でも、読経の途中でふらりと腰を浮かせたあたしは、そのまま馬鹿みたいに見慣れた夜道のまんなかに突っ立っていた。
オレンジの間接照明に照らされた静かな雪原。あいつが勝手に作った真夏の雪原に、制服姿のあたしはひとりで立っている。彼女がこの裏切りを見越していないとは思えなかった。あたしたちがお互いの頼みに素直だったことなどない。
……だから、きっと、あたしだけいればよかったんだ。あいつ、客なんて、あたししか呼びたくなかったんだ。
フユカはいなくて、雪はきれいで。
人は自分の最期くらい見たい光景にしちゃう権利がある。それを都合よく解釈して、勝手に感じ入ってしまう権利もある。
フユカはいなくて、雪はきれいで。
並列した感情の先であたしの宇宙はもつれ、分裂し、正しく錯乱し、その果てに隣で笑うフユカがいる。雪がきれいなら、必ずこいつがセットだから。
「……せっかく冬にしてくれたって、ファミルン、もうないけど」
「知ってたか? 天国ってなくなった店が全部あるんだぜ」
「ずりーなあ」
「これからどこでも行けるお前のほうがずるい」
「……今さら? あたしなんて前からずるいし自己中だよ」
フユカがまた袖を引いたような気がした。さっきから視界がぼやけるので誰でも同じだ。
今、ぼやける瞳を熱いもので洗い流したら、明日からちゃんと部活に行ける。激マズドリンクのことを思いながらラケットをぶん回し、新しく組んだ後輩とそれなりにいい成績を出し、安っぽい花で飾られた学祭を結構楽しく過ごす。あたしはずいぶん自分勝手だったけれど、それはあんたがいてもいなくても変わらないみたいだ。まったくふざけて矛盾したまま、本当は包丁を持って泣きたかったのかもしれない。
あたしはフユカが焼かれたあとに二人でファミルンに寄りたいし、前に呼ばれれば滞りなく焼香を済ませられる。間違った世界が二つ重なった雪原のまんなかに、まだしばらく、立っている。
***
天国はファミルンがあるところで、現世の跡地にはハリボテみたいなファストフード店が建つ。
中高生がわさっと繁殖した店内は閑古鳥多めのファミルンと大違いで、部活帰りに一人で寄るには控えめに言って地獄だった。何もかもぴかぴかの店内にムカついて、ノートを開きまくって四人席を占領する。届けるべき相手はもういない。
『夜カラオケ行かん?』
『いく ナツキチも来るしょ』
『駅前のまねきでおけ?』
勝手に進んでいた部活のグループラインに「行くしか!」鹿のスタンプを返すと、指の脂で画面が汚れた。みんなは思い出の上書きを何くれとなく手伝ってくれる。
うすいカルピスと冷めたポテトを弄びながら、ひとつの予感を抱いた。
いつか――遠くない、いつか、あたしは古びたクリーム色の壁紙を美しいものだったと思うだろう。安っぽいメロンソーダの濃さを、煮えすぎたチーズの熱さを、この上なく輝いていた瞬間の象徴として据えるだろう。忘れるって思い出せなくなることじゃない、いちばん鮮やかなときですべてを止めることだ。
そして、恐ろしいことにそのとき、ファミルンが抜けた穴にはこの地獄が収まるのだろう。薄いカルピスに慣れ、妥協のハンバーガーが舌に馴染み、四人席の正面にあいつではない誰かが座る。
うん、悪くはない。
それはフユカが真夏の葬式を無理やり雪景色にしちゃったのと同じ、自分の肯定のためのささやかな奮闘だ。天国はファミルンがあるところだけど、あたしの遊び場は当面この地獄だから。
窓のむこうで本物の雪がちらちらと舞う季節になった。新品のガラスを透かせば、道路沿いの雪山のかげから見慣れたショートヘアが手を振る。
そういう夢を死ぬまで抱えてここにいる。




