揺籃 【1/1】
「……おや? そこに居るのはカナリアさんですか?」
まどろみから覚めて、うっすらと目を開けたイザックは視界に人の姿を捉えていた。
ただしそれはぼやけたまま。
目を擦ろうとしたのだが、腕は全く持ち上がりそうにもない。
体が動かない事を訝しむよりも先に、彼は浮遊感とでも言えるような全身の脱力をその身に感じていた。
「ふむ、いや、これは今わの夢ですかな?」
呟くような独り言。
目を閉じようとした瞬間、イザックが感じたのは頬を叩かれた衝撃であった。
痛みでさえ鈍いものではあったが、かわりに少しだけ目の焦点が定まる。
直後に彼が見たものは、血が所々に着いたままの、戦いの後の汚れ姿のカナリアであった。
カナリアがイザックを発見した時、彼は、カナリアが気絶させた場所から少しだけ離れた所に寝かされていた。
恐らく自警団の誰かが見つけて脇に動かしたのだろう。おかげで誰彼に踏まれる事も無く、流れ矢も当たった様子はない。
だがしかし、カナリアの魔法によって傷付いていた腹の中の具合は確実に悪化しており、それによって彼はほぼ瀕死の状態であった。
「ああ、夢ではなかったですか。これは失礼」
声を出すイザックの顔は既に土気色になっている。
「カナリアさんが此処にいると言う事は、他の些事は終わりましたか?」
カナリアの手によって《人払い》の掛かったフードは剝がされていた。けれども、カナリアを見たイザックは、もうその姿を隠そうとはしない。
しっかりと頷いたカナリアを見た彼は、静かに息を吐く。
「それはご苦労様でした。
報酬の情報は私の私邸の方にあります。私はこの体です、お手数ですがカナリアさんご自身で取りに行って頂けますか。
ああ、もちろん、最後の仕上げを済ませてからですが」
言い切ったイザックは、全てをやり切ったとばかりに静かに目を閉じた。
続け様に飛んだのは、カナリアの二回目の平手打ち。
顔が横を向くぐらい強く叩いた後で、カナリアはイザックの頭を持って仰向けに戻す。
痛みで強制的に開かされたイザックの眼は、カナリアの姿に釘付けになる。
そこでカナリアが見せた行動は、イザックを指さし、その後で自分の首にも同じく指を指して横に払った事であった。
彼女は何かを言いたい。それはわかる。
しかし、流石のイザックも、この瀕死の状況では真意の所までは頭が回らなかった。
カナリアの仕草の意味を考えている間に、イザックの瞼はゆっくりと閉ていく。
「……さぁて、どういう事でしょうな……」
イザックのその声は、命と同じく小さくかすれていた。
見当がついたのは、言い切った直後。彼は、走馬灯のように自らの行いを振り返ってその意味を理解する。
ああ、私の願いの為とは言え、振り回し過ぎましたかな。
カナリアさんは無口ではありますが、きっと怒っているのでしょう。首を狙っていましたし、憂さ晴らしにでも、私をどうにかなされるに違いない。
生きたまま責め苦を受けるか、それとも魔道具の材料にでも使われるか。
ロクな事にはならないだろうとイザックは思ったが、次の瞬間、それは喜びへと変貌する。
事は成就したのだ。そのくらいの事であれば、安いものだと。
瀕死のイザックには、口の端にすらそれを表すことが出来なかった。
だがしかし、これだけは伝えねばとばかりに全身の気力を振り絞って、彼はカナリアに伝える。
「何れにしろ、カナリアさんが約束を守ってくれるのでしたら、私の命は好きに使って貰って構いませんよ。
もう、すぐに消えると思いますが……」
言葉の終わりは殆ど声に出ていなかった。
そして、目を閉じたままのイザックは、カナリアが声にならずとも口を動かしていた事を知らない。
【ありがとう。じゃあ、好きにさせて貰うね】
これがカナリアの返事。
カナリアが仕草で確認したかった事は、【この契約を結ぶときに、貴方は自分の首を賭けていたよね?】という話であった。
それはイザックの考えていた事とは微妙に違う。しかし、その回答はカナリアが欲していた答えであった。
食い違いなどいざ知らずではあるが、イザックの了承を得たカナリアは、一つの秘儀を行う決意をする。
秘儀、いや、それは禁呪。
《生命吸収》よりも世に知られていない、カナリアが組織に居た時に伝え聞いただけの禁呪。
やってみたかった事ではあるが、状況が整わなかった為に出来なかったそれを、今この場でカナリアは試そうとしていた。
左手に手杖の『小鳥の宿木』を握り、その腕をまっすぐに伸ばす。ナイフは仕舞われており、空の右手は左腕に添えてしっかりとそれを支え、カナリアは魔法を使う体勢を整える。
《繭作成》
杖から無数の透明な糸が放射され、それは手早くイザックを包んでいく。
どんどんと糸が絡むにつれてそれらは白い色を帯び、丸い球体を形成する。
カナリアの前に出来たのは、自身よりも遥かに大きい白い繭であった。
その魔法は、繭によって外と内を遮断する事で捕らえた獲物を閉じ殺す事が主な用途であった。だが、今回の用途は閉じ込める事のみが目的であり、殺す為ではない。
カナリアは《生命感知》にて、包まれたイザックがまだ生きている事を確認した後、その繭に杖を押し当てて更なる魔法を使う。
《意識接続》
こちらはカナリアとシャハボの間で会話をするために使っていた魔法であった。
同じ魔法を使い、カナリアはイザックとの間にも意思を共有する線を構築する。
【まだ生きてる?】
カナリアの意思は、死の淵にあるイザックを強く揺さぶり起こしていた。
「ええ……これは……?」
【私の意識をあなたに繋げたの。話が出来るようにね】
イザックは繭の中で動いていない。しかし、その意思はカナリアに伝わり、カナリアの意思は、閉じられたイザックの目の中に文字として浮かび上がっていた。
「全く、カナリアさんは凄い方だ」
その言葉は、音もなくカナリアに伝わる。
「それで、私をどうなさるおつもりですか?
こんな状況で私が言うのもなんですが、出来る事ならば苦しまずに逝かせてくれると嬉しいのですが」
イザックのその言葉に対し、カナリアは即座に否定を返す。
【ううん。私は貴方を救う必要がある。そう頼まれたから】
「……ああ、頼んだのが誰とは聞きますまい。ですが、先約を守るのが筋ではありませんか?」
互いが互いの意図に気付いていた。それ故に、カナリアはイザックの言葉には肯定の意を示す。
しかし、そこから続けられた言葉はイザックの想像を上回っていた。
【そう。だから、私はその両方を守る】
カナリアの言葉に返されたのは、失笑とも言える、気が抜けたようなイザックの笑い声。
彼女が中身を説明する前に会話に割り込んだのはシャハボだった。
『おい。ちょっと待てリア。お前まさかアレを使うつもりじゃないだろうな!?』
【うん。それが良い方法だと思うから】
『止めろ! あれは使ってはいけない魔法だ!
それに、使うには大きな力が必要になる。リア一人では身が持たないのはわかっているだろう!』
今日二度目になるシャハボの諫言。
今回のそれはさらに口調が強いものではあったが、カナリアは何のことも無いように解決策を返す。
【大丈夫。その為にちゃんと用意しておいたから。
杖に集めておいた力を使えば、私一人でも何とかなると思うよ】
『リア……お前、そこまで考えて《生命吸収》を使ったのか?』
【うん。その方が丁度良かったのもあるけれどね】
困惑するシャハボの声と、少しだけその様子を楽しんでいるようにも見えるカナリアの文字。
そんな二人のやり取りを傍目にしたイザックは、自然に言葉が漏れる。
「どういう事かは存じませんが、こんな時にでもお二人は仲が宜しいのですな……」
【うん】
『俺はリアの事が心配なだけだ』
二人の返答は、ほぼ同時。
「ええ。本当に仲が良さそうで何より。
割って入って申し訳ないのですが、早くこの老いぼれを休ませてくれると助かるのですが……」
活を入れた効果が切れたのか、イザックの声はまた小さくなりつつある。
《生命感知》の反応も薄くなっている事を認識しているカナリアは、シャハボにこう言った。
【ハボン、心配しなくても大丈夫。力は杖に蓄えた命を使うし、私は調整するだけだから。
それに、なんとなくわかるの。この魔法は失敗する気がしない】
理由に乏しい説得ではあったが、結局の所、シャハボはいつも通り甘かった。
『……失敗だけは、絶対にするなよ』
約束するとばかりに頷いたカナリアは、再度繭に杖を当てて魔法を使う。
《溶解》
現実の体はともかく、イザックが感じた事は、温い風呂に浸かったようなほど良いほぐれ具合であった。
【大丈夫?】
「ええ、なんだか気持ちが良いですな。何かされたのですか?」
イザックの声からは緊張感が抜け、どことなく解放されたような響きが伝わる。
そんな彼に対して、【大丈夫ならいい】と前置きした後で、カナリアはある事を問いただす。
【一つ質問。イザック、貴方は何になりたい?】
「……はて? それはどう言う意味ですか?」
【そのままの質問。何かの姿を思い浮かべて?】
カナリアの質問は簡潔であった。簡潔であるが故に、今の頭の回らないイザックには答える事が難しい。
そんな彼ではあったが、姿を思い浮かべてと言われて一つの姿が脳裏に浮かんでいた。
それは、許されざる恋仲であった、モエット・フンボルトの姿である。
娘であるキーロプとよく似たその相貌、いや、逆か、キーロプがモエットに似ているのか。
ああ、どちらでもいい。なんにせよ、私は役目を果たせました。
キーロプはしっかりと成長して私の手を離れました。もう心残りはありません。
話したい事は沢山ありますから待っていて下さい、すぐにそちらに行きます……
死の間際にモエットを想うイザックの心は、カナリアに届く。
《開始・再構築》
繭に押し当てられたカナリアの杖からは、得体の知れない力がこんこんと湧き出して繭の中に吸い取られていた。
『リア。保険ぐらいかけろ。何かあった時の備えは必要だ』
【わかった】
シャハボの声に従い、カナリアは即興で別の魔法をそこに付け加える。
《隷属》
その瞬間、『小鳥の宿木』の先に付いた緑の輝石からひときわ大きい光が発せられる。
それからも手杖からは力が発せられ、全て繭の中に吸い込まれていった。
カナリアは力の制御を続けるだけである。
魔力の消費量としては確かに多くは無い。だがしかし、時は、集中を続ける彼女に多大な疲弊を与えていく。
戦いの前には高かった日が陰り、沈み切る直前になって、ようやくその魔法は完成を見たのであった。
《転生進化》
煌々と輝いていた『小鳥の宿木』の輝石に、光はほとんど残っていなかった。
《繭作成》で作られた白い球体が割れ、中から何かが出てくる。
もうイザック・オジモヴと言う人間はこの世に存在しない。禁呪 《転生進化》によって、イザックは別の何かに変貌していた。
彼はこの世から消えた。しかし、生きてはいる。
これが、消せと生かせの相反する依頼を同時にこなす為にカナリアが禁呪を使った理由。
結果をしっかりと見た彼女は、満足げに頷く。
直後に、ついにと言うべきだが、積み重ねた疲労が限界に来たカナリアは気を失って倒れたのであった。