ゆまり
私は50歳を間近に控えている。私から数年遅れで入社した「村田ゆまり」も40歳を超えている。私も彼女も独身のままに今に至っている。
彼女は入社した若い時から可愛い物が好きだった。彼女は自分を指す時に「ゆまり」と言い、時には「ゆまりん」と名乗っていた。それは40歳を超えた今でも変わらなかった。
既に彼女が入社してから20年近く経っているが、入社当初は自分の事を名前で呼ぶという行為や可愛い物が好きであるという事があざとくも見えていた。だが40歳を過ぎた今でもそれが変わらないという事で、「そういった物が本当に好きなんだな」と、「ああ、これが彼女の世界観なのだな」とようやく私は理解できた。
同僚の中には私と同様の意見を持つ者も少なくない。私と同様に入社当時の彼女の行為や言動の全てがあざとく見え、避けていたとまでは言わないが傍観していた。妬みや僻みから来る反感を持つ同性がいない訳でも無いが、私を含めて皆、彼女のその生き方に対しては往々にして魅力的に映るようになっていった。そして今になってそんな自分を貫く彼女に、私は取り憑かれるが如く魅かれていった。
私は彼女の普段着を目にする事はほぼ無く、仕事中の彼女しか見る事は無い。仕事中の彼女はグレーを基調とした制服に身を包み、艶々とした長い黒髪は黒いヘアゴムで以って後ろに束ねている。前髪は眼元あたりで綺麗に切り揃えられ、無難なデザインの銀縁眼鏡を掛けて地味にも見えた。流行りの物には興味も無く、他人にも一切興味を示さず、仕事以外の時間に於いてはただただ自分の世界を大事にしていた。人と接するのを極力拒み必要な事以外口にもせず、会社の飲み会も極力不参加だった。稀に上司らに促されて参加する事もあるが、インビジブルバリアとでも言えそうなオーラを全開に、テーブルの端で1人こっそりと飲んでいた。
そんな彼女の昼食はもっぱら自炊の弁当であった。とはいえ自席で食べたり同僚と食べたりする事は無く、いわゆる「ぼっち飯」を好み、昼時になるといつの間にか職場から消えていた。
ある日、昼食の時間になっても彼女が自席にいた事で「お昼食べないの?」と私は聞いてみた。すると彼女は「今日は寝坊したので弁当を持って来れなかった」という事だった。そんな事を俯きながら恥ずかしそうに話す姿はとても可愛く見えた。
「じゃあ今日はお昼を食べないの?」と聞くと、彼女は相変わらず俯いたままに恥ずかしそうに「一人で食べに行く」と言った。私は同僚からの昼食の誘いを断り、「じゃあ俺と一緒に食べに行こうよ」と誘ってみた。特に下心があった訳では無いが、彼女とは仕事以外で話す事も無かったが為に一対一で話してみたかった。勿論彼女がぼっち好きな事は察していた。「私に関わらないで、話しかけないで」というオーラを周囲に撒き散らしながら日々を過ごす彼女に当然私も気付いてはいたがそれでも誘ってみた。豪華な夕食ならいざしらず、たまには同僚同士での昼食位であればどうだろうかと。彼女は俯きながらに暫し考えると、渋々私の提案に承諾してくれた。彼女は本当にぼっちが好きらしい。
そうして私達2人は会社から少し離れた定食屋へと向かった。会社近くの店であれば同僚らと鉢合わせするかもしれず、それは彼女の負担になると思ったが故の選択である。そしてお世辞にも綺麗とは言えない定食屋の中、彼女と向かい合って席へと座り、私がチャーハンを頼むと彼女も私と同じものを小声気味に注文した。
席に座ってからも彼女は恥ずかしそうに俯いたままであったが、私主導で他愛の無い話を始めた。その話の中、彼女は料理が好きだという情報を入手した。彼女は外食をする事は滅多になく、ほぼ毎日自炊しているという。野菜が嫌いで好きな物はチーズとメロンだと言う。彼女は独身女性にしてはカロリーを気にしないよう食生活のようで、入社当初から比べて二の腕と肩や頬には肉が付いている気はしたが、それでも一見すると痩せているようにも見えた。
そんな野菜嫌いな彼女がどんな料理を作るのか興味があって「普段は何を作っているの?」と聞いてみたが、その質問はやんわりと拒否されると共にはぐらかされた。他に聞けた話としては毎回大量の同じ食材を購入してしまい、いつも冷蔵庫には大量の食材が詰まっていると言っていた。故に自炊の時には同じ料理が暫く続くのだと言っていた。
彼女が入社した当初は殆ど話す事はなかった。仕事上や挨拶以外で話す事は無かった。故にそんな話ですら新鮮味を感じた。他の同僚とも話している所をあまり見かけない。彼女を属性で言えば「闇」といった所だろうか。とはいえそれは具体的な何かでは無く、私が主観的に感じ取った物である。だが逆に「闇属性」であるからこそ、ほんの少しの光ですら相対的に輝いて見えるように思えた。私はそこに魅かれたのかも知れない。
その昼食をきっかけに、彼女とは日に日に会話が増えて行った。といっても一言レベルで増えて行く程度であった。人と接する事が嫌いな彼女からすればそれはそれで大変な事だっただろう事は想像に容易い。だがそれも数か月に及べば意識せずとも自ずと近い存在へとなっていくが、かといって相手がそういう感情を持ち合わせていないのであれば必要以上に踏み込む事は良くないという気持ちもある。同じ職場で働いているのだから関係を壊すのは得策では無い。おかしな関係になればその場に居づらくもなり、年齢が若ければ会社を辞めるという選択も出来るが、互いに40歳を超えてそんな冒険を犯すのは得策では無いと、私は適度な距離感を保ちつつ踏み込まずにいた。
とはいえ、自分勝手な妄想かもしれないが彼女も意識してくれている気がした。そしてそんな時間も長く続けば気持も緩んでくる。
あくまでも会話の流れであった。彼女が「手料理には自身あるんだよ」と言えば、「本当に? じゃあ今度作ってよ」と、私は何かを意識した訳でも無く冗談交じりにそんな事を口にしてしまった。刹那、気まずい雰囲気が流れた事に私も気付いたが、私はここぞとばかりに勇気を出して真剣な表情で以って彼女に言ってみた。
『今度の休み、手料理を作ってくれない?』
彼女は瞬時に目を見開き、先まで笑っていた顔からは笑顔が消え失せ眉間に皺を寄せ俯いた。私は「やはり余計な事を言ってしまっただろうか」と瞬時に後悔したが、彼女はほんの少しの間を置いて「まあ、別にいいけど……」と小声で呟いた。
そして私は彼女の連絡先を入手すると共に休日の待ち合わせの約束をした。そしてあっという間に週末が訪れ、待ちに待ったその日がやってきた。
彼女とは私の家の最寄駅で待ち合わせをした。そして約束の午後4時。ふと私の周囲で仄かに良い香りが鼻に届いたと同時に、「お待たせ」という言葉が私の耳へと届いた。私が声がした方へ振り向くと、そこには笑顔の彼女が立っていた。普段の彼女は銀縁の眼鏡をかけ長い黒髪を下ろしていたが、その日の彼女は根元に紺色のリボンが巻かれたツインテールといった髪型であった。そして普段は濃いめのグレーを基調とした地味な制服である訳だが、その日の服装は胸元と腰の位置に紺色のリボンが付いた白いゴスロリといった装いであった。膝が見える短い丈のスカートからは黒いタイツを纏った細い足が伸び、足元には赤いリボンの付いた紺色のテカテカと光るローヒールを履き、鮮やかなピンク色の鞄を斜め掛けにしていた。
その姿を初めて目にした時には少しだけ驚いた。だがそれも一瞬である。そういうのが好きだと知っていれば普段とのギャップがあってもそれほど驚かない。むしろ彼女の世界観をようやく目にする事が出来た事が嬉しかった。そういう私は服には無頓着と言う事もあってか、長年履き続けているブルーのジーンズに黒1色の無地のTシャツ姿。ゴスロリ姿の彼女と一緒に歩くと完全にどこぞ喫茶のメイドさんと歩いているようにしか見えないであろう。もしも私が黒いスーツをビシっと着ていれば完全にどこぞのお店の2人にしかみえないだろう。若しくはアニメの世界観としてコスプレ好きの2人にしか見えない事だろう。とはいえ彼女はそんな事を一切気にしている様子は無く、気にしている私が馬鹿みたいに思えた。そして私達は周囲の人がチラチラと一瞥していくの尻目に、2人横に並んで歩き始め、待ち合わせ駅近くのスーパーへと向かった。
ゴスロリ姿で食材を選ぶ彼女はまさにアニメから飛び出したメイドさんにしか見えなかった。何を作るのかと聞いたが「出来てからのお楽しみ」と言って教えてはくれなかった。故に何の食材を購入したかも分からなかった。そして買い物を済ませると、ビニール袋へと詰め込まれた食材を私が持ち、一路私のアパートへと向かった。
そして初めて私のワンルームアパートへと彼女がやってきた。50歳を前にした男の一人暮らし部屋などは洗濯物が干しっ放しの若干かび臭い部屋というのが相場であろうが、私の部屋もそれに漏れず、そこが衣類箪笥かと見紛う程に洗濯物が部屋に干しっ放しという状況であった。その事に気付いたのは玄関前まで来た時だった。私は彼女を玄関の外へと待たせて自分1人で部屋の中へとは入り、干された洗濯物を引き千切るかのようにして取り込み全て纏めて押入の中へとギュウギュウに押し込み、目に付くゴミを掃除しそれ以外はサッシ窓から外へと急いで吐きだし何とか体裁をたてた。そして平静を装いながらようやく私は彼女を部屋の中へと招いた。
「へぇ。綺麗にしてるジャン」
部屋に入って開口一番彼女が言った。その言葉は何か見栄を張って言ったようにも感じたが、とりあえず急いで部屋を片付けた甲斐があった事でホッとした。
彼女は「じゃあキッチン借りるね」と、持参した赤と白のハート柄を象ったエプロンを鞄から取り出し慣れた手つきで身に着け、お世辞にも綺麗とは言えない小さいキッチンで早速料理を始めた。メイドさんと思しき格好をした彼女がキッチンに立つと本当にメイドさんにしか見えず、それは完全にマンガやアニメの世界観だった。そんなシュールな光景を実際に目にするとは何とも不思議な気がすると共に、思わず顔がほころんだ。
私のアパートは6畳程の大きさのフローリングの部屋とキッチンがあるだけの小さいアパート。そしてフローリングの端にはシンブルサイズのベッド。それとフローリングに直接置かれた小さいガラステーブルがある位の殺風景な部屋。私はベッドを背にフローリングへ直接胡坐をかき、壁際に置かれたテレビを何の気なしに眺めはじめた。私の部屋にはテレビの音と換気扇の音、それとトントントンという包丁の音だけが聞こえていた。その部屋で自分が奏でない包丁の音が聞こえてくる事がとても新鮮だった。
それから暫くの時間が経過し、「はい、どうぞ~」という元気で明るい声と満面の笑みと共に、彼女の手料理が私の元へと運ばれてきた。
フローリングの小さいテーブルの上に置かれた彼女の手料理。私は目を見開くと共に背筋に悪寒が走った。テーブルの上には凡そ食材を元に創造したとは思えない物が大きめの皿の上に盛られていた。
それはパステルカラーの汚泥だろうか、ヘドロ状の濃い紫色のボルシチといった所だろうか。湯気と共に立ち上るその香りはドブの匂いだろうか、汚水の匂いだろうか。
本能的に身体が危険を察知したのか「それは危険だ!」と胃液を喉元へと送り込んで訴えてくる。私は自分の胃に対して「心配するな」とでも言う様にして胃液を飲み込んだ。料理の本質は味である。ドブの香りも「最高級の発酵食品だと思えば何て事は無いのだ」と自分の胃に対して言い聞かせた。
「ああ、とても美味しそうだね。じゃあ、遠慮なく頂きます」
私は箸を手に、皿に盛られた何かを掬いあげて口の中へと運んだ。結論から言えば私は自分の体に嘘をついた。見た目は嘘をついていなかった。香りは嘘をついていなかった。彼女の手料理は――――クソまずかった。
「良薬は口に苦し」というが、それは単に「まずい毒薬」と言える物であり、瞬時に私の胃が「戻せ!」「命の危険があるぞ!」「早く吐き出せ!」と訴えると共に阿鼻叫喚した。私は「心配ないから堪えろ」と自分の胃に対して訴え続ける。だが尚も胃は「危険だ! 今すぐ止めろ」と訴えかける。それでも私は「頼むから耐えてくれ」と胃に懇願する。その私の強い意志に屈服するかのようにして胃は一旦落ち着きを取り戻し、私は命の危険も顧みずに彼女の手料理を更に一口、胃の中へと押し込んだ。
すると、胃は沈黙を続けるも箸を持つ私の手が小刻みに震え始め食事が困難な状況となった。更には体全体が危険を訴え始めて阿鼻叫喚を表すかの如く小刻みに震えだす。「すぐに吐きだせ、もう食べるな!」と訴えかける。私は自分の体に対して「大丈夫だ、心配するな」と言い聞かせ続けた。そして未だに味の感想を口にしない私に対し、彼女は心配そうな顔で私に聞く。
「おいしい? 口に合わない?」
私の体からは血の気が引いていた。体が号泣するかのように脂汗が流れ始めていた。だが私はそんな状況に於いても平静を装い、「勿論おいしいよ。ありがとう」と、渾身の力を振り絞るかのようにして笑顔を作りだし、自分史上最大の演技を魅せた。とはいえ限界は近い。あと一口でも口にしたならば意識を保てそうになかった。
「でもごめんよ。今思い出したんだけど、実は俺、この食べ物に小さい頃からアレルギーがあるんだ。だからもう食べる事は出来ないんだ」
私には彼女の料理の原材料が何かは判別できなかった。見た目にも味にも原材料を特定できる情報は無かった。彼女は私の言葉に瞬時に哀しい顔を見せ俯いたが、直ぐに顔をあげて笑顔を見せた。
「ううん。アレルギーじゃしょうがないよ。私も気を遣えなくてゴメンね」
その笑顔に私は幸せを感じた。「ああ、この笑顔が見たくて僕はここにいる。今を生きている」と。だが疑問も浮かんだ。彼女はお店の食料品売り場で購入した食材と私の家にある調味料で料理をしていたはずである。故におかしな食材も調味料も存在しないはずである。それが故に何故これほどクソまずい料理を作れたのだろうかと。ひょっとして醤油と洗剤を間違えたのだろうかと、味噌と靴墨を間違えたのだろうか、隠し味に生ゴミを使用したのだろうかと、どうすればここまでクソまずく作れるのだろうかと。だが思いもつかない程に不味く作れるというのはある意味で凄い事なのかも知れないと、やはり自分を貫く彼女は本当に素晴らしい人なのだなと感動を覚えた。
「でも何も食べないんじゃ、お腹減っちゃうよ?」
「ああ、それもそうだね。じゃあコンビニに行って何か買ってくるよ。直ぐに戻って来るから、申し訳ないけど待っていてくれるかな?」
そう言って私は目眩すら覚えそうな程の体調の悪さを無視するかのようにして力強く立ち上がった。気を抜けば倒れてしまう。故に歯を食いしばりながらも体に鞭打ち立ち上がると、財布を手に外へと出て行った。そして家から数十メートル程離れると、路肩の側溝に倒れ込む様にして顔を近付け、命を脅かすそれを口から体外へと排出した。
「ガッ――――ゴフッ――――ウッ!」
私の胃は一滴残らず綺麗に送り返してきた。吐きだして10秒程するとようやく体の震えも止まり、命の危険は去ったというようにして脂汗も引いて行った。私は彼女が昼食時に弁当持参のぼっち飯でいる理由が分かったような気がした。思い返せば昼時になると何処からともなく異臭がした記憶もある。とはいえそれもほんの少し。彼女は換気扇のある場所か、外で食べていたのだろう。そうでなければ社内はパニックになっていたはずだが、そんな事件は一度も起こっていはいない。若しかしたら彼女も自分の料理の異臭に気付いていたのかも知れない。それ故にぼっち飯だったのかもしれない。そう思うと何と彼女はいじらしく優しい存在なのだと改めて痛感すると共に、愛おしい存在に思えてくる。
ようやく命の危機を脱した私はスクッと立ち上がり、再びコンビニへと向かって歩き出した。すると「まって~」と、背後から声が聞こえた。私が足を留めて振り向くと、そこには小走りに私の方へと向かって来る彼女の姿があった。闇迫る夕刻、街頭に照らし出される彼女の姿を見て「ああ、何と可愛いのだろう」と、私は笑顔で以って「どうしたの?」とその姿を迎えた。とはいえ内心では彼女の料理を全て体外に吐き出した姿を見られてしまっただろうかと心配であったが、それは杞憂であった。
「一緒に行こうよ」
彼女のその言葉に、私は先程の命の危険を全て忘れたかのように一瞬にして心が晴れ渡るかのようだった。私はほんの少しの間を置いて、「そうだね、一緒に行こうか」と、何気なく彼女の手にそっと触れると共に、その小さな手を握りしめた。私のその行動に彼女はビクッとして驚いた様子を見せたが、夕暮れにも拘わらずはっきりと分かる程に顔を赤らめ、私が握ったその手をそっと握り返した。
そして私達2人は手を繋ぎながら、そこから歩いて数分のコンビニへと歩き始めた。普段であればその数分すらも面倒に感じたコンビニへの道程は無言のままに一瞬にして終わった。コンビニ入口の自動扉が開いた所でどちらからともなく緩める様にしてそっと手を放し、入口付近に置かれていた買物カゴを手に、私は菓子パンとおにぎりを数個づつと、袋入りのインスタンラーメン、それとラーメンに入れる為のチャーシューをカゴに入れると早々にレジへと向かった。そして購入した物を私が持ち、再びどちらからともなく手を繋ぐと帰路に就いた。コンビニから自宅迄は5分と少し。そんな短くも温かく優しい時間は数秒の事に思えた。
アパートへと戻り早速私がインスタントラーメンを作ろうとすると、「じゃあ私が作ってあげるよ」と、彼女は私にテレビでも見ててと私をキッチンから追い出した。先の事が一瞬頭を過ったものの、やはり彼女の手料理という誘惑には勝てず、「ありがとう。じゃあ、お願いしていいかな」と、彼女に料理を任せる事にした。
それから5分後。「お待ちどうさま~」という彼女の温かく優しい声と共に、ラーメン丼によそわれたインスタントラーメンが私の目の前へと運ばれた。
今私の目の前にあるそれはインタスタントラーメンのパッケージに映るそれとは全く異なる別の「何か」であり、それがラーメンであるとは分からぬ「何か」であった。インスタントラーメンを材料にして創造されたはずの物であるのは確かなはずであったが、それは私がこの世で見た事の無い何か。私はそれを前に頭を巡らした。
どうすればインスタントラーメンをこのような物に変化させる事が出来るのだろうか。最初に彼女が作った食事の材料は駅近くのスーパーの食品売り場で購入した物であったはずだが、その際に私は購入した物を直接は見ていなかった為にそれが何かは分からなかった。だが今回購入した物は私が自分の手で以ってカゴに入れてレジへと通した物であり、食材オンリーであったのは間違いない。その中には凡そ食材以外の物は何も入っていなかったはずであるが、それなのに目の前に出されたそれは本当に食材を基にして創造された物なのかどうかが全く分からない。
だがインスタントとはいえ折角彼女が作ってくれた料理。先程は少し失敗しただけなのかもしれない。味は美味しいのかもしれない。日本にはクサヤという強烈な芳香の発酵食品も存在するし、食べ慣れているチーズだって改めて匂いを嗅げばそれほど良い匂いでは無いが美味しい物でもある。彼女の手料理はその類かも知れない。匂いは汚水とドブの混合臭であったとして味は良いのかも知れない。彼女がインスタントラーメンを作っている最中、その姿は私の視界の端に入っていたが特段変わった調理方法をしているようにも見えなかったし、何か呪文を唱えている様子も無く、出来あがった際には彼女はスプーンで以って味見をしていた姿さえ目にしていた。ならばこの得体の知れぬ「何か」は彼女の料理としては正しいと言う事なのだろう。
私は意を決し箸を手に取り、そのラーメン丼の中から手応えの感じないその何かを掬いあげると、息を留めたままにそのまま口の中へと運んだ。結果を言えば、先程同様に見た目と匂いは裏切らず、彼女の作った手料理ともいえるインスタントラーメンは…………クソ不味かった。
一体どうすればこのような物を創造する事が出来るのだろう。添付された粉末スープと洗濯用粉石鹸を間違えたのだろうか。味に変化を付けたくてシャンプーでも入れたのだろうか、リンスでも入れたのであろうか、それともボディーシャンプーであろうか。毛染めの液体でも入れたのであろうか、芳香剤を具にでもしたのだろうか。私の革靴が1足無くなっているのは気のせいだろうか。お湯を沸かす時に何か特別な儀式が必要だっただろうか。袋めんを開ける際には特別な機械が必要だっただろうか。粉末スープはそのまま入れるのではなく数日間寝かせておく等の作業が必要だっただろうか。インスタントラーメンとはそれ程に技量やセンスを要する食べ物だっただろうか……。
再び私の胃が阿鼻叫喚し始めると共に直ぐに吐き出せと訴えかける。私は胃と対話する。「まだ大丈夫だから耐えてくれ」と。そして私は勇気を尽くさん限りに2口目を口へと運んだ。
そこで私の記憶は終わっていた。
次に私が目が覚めすと、そこには見知らぬ白い天井が見えると同時に点滴の器具が目に入った。そして左手が妙に温かいのを感じると共に最近嗅いだ事のある良い匂いが私の鼻腔をくすぐった。ふと目線だけを横へ移すと、そこには彼女がいた。彼女は涙を流しつつ心配そうに私を見つめながら私の手を握りしめていた。
彼女が私の傍に居れくれる、私の手を握っていてくれる。ああ、私は何て幸せなのだろうか。この瞬間の為に私は彼女の手料理を口にしたのかも知れない。体に鞭打つような真似をしたが、その結果は間違ってはいなかったと断言できる。
病院のベッドで伏せっていた状態も手伝ったのかも知れない。気が弱っていたせいもあるかもしれない。私は自分の中の感情を抑えつける事は出来なかった。
「ゆまりん。これからも俺とずっと一緒に居てはくれないだろうか」
私はベッドの上、悲しそうな表情で私の手を握る彼女にそう伝えた。彼女は一瞬ぽかんとした表情を見せたが、直ぐに俯き顔を赤らめつつ、小さくか細い声で「……うん」と言ってくれた。そうして私達は永遠に一緒にいようと誓い合った。
適切な治療の甲斐もあって、私は翌日退院し自分のアパートへと戻って行った。その際、彼女が付添ってくれると共に、そのまま私の小さいアパートで同棲を始めた。そしてその日から私の幸せな日々が始まった――――はずだった。
私の幸せは長くは続かなかった。彼女と暮らし始めて1週間が経過した頃、私は原因不明の病に犯され再び病院のベッドの上で今際の時を迎えていた。私は短くも楽しかった彼女との暮らしを思い出していた。
携帯電話で以って彼女の写真を撮ろうとすると、彼女は口を半開きにおとぼけ顔というポーズをとった。私としては笑顔が見たかったが、彼女にとってそのポーズが決めポーズでもあり可愛いと言う事なのだろう。確かにそれはそれで可愛い物であり、私は思わず川柳を口にした。
「ゆまりんの、とぼけた顔が、かわいくて」
「もう! ばかー!」
彼女に買い物を任せた際には同じ物を大量に購入してきた。私はそんな彼女を愛おしく思ったが、彼女はそんな自分を恥ずかしく思ったのかイジけた表情を見せ、ここでも私は川柳を詠んだ。
「ゆまりんの、いじけた顔が、かわいくて」
「もう! ばかばかー!」
私が彼女が寝ている隙に寝顔を写真に収めたが、それがばれると怒られた。そして私はまたまた川柳を詠んだ。
「ゆまりんの、ブチギレ顔が、かわいくて」
「ふざけんなーっ! ばかー!」
短い間であってもそんな楽しい事があったなと、私は床に伏せりながらそんな日々を思い出すと顔がほころんだ。それと同時に涙が勝手に流れだした。そしてほんの一週間前にも私はこうして病院のベッドで寝ていた。あの時も傍に彼女が付添い、今と同じように心配そうな顔をしながら手を握っていてくれた。だがそんな彼女のその小さな手を握り返す力も今の私には残っていない。
「短い間だったけど、君と一緒にいられて幸せだったよ」
自分を貫く君に憧れていたのかも知れない。有象無象である私からすれば君のその姿が眩しく感じたのかもしれない。そこに魅かれたのかも知れない。それを切っ掛けに好きになったのかも知れない。愛おしく感じたのかも知れない。
そして君に会えて良かったと、君を好きになれてよかったと、君を好きになった自分が誇らしいと、君に会えたこの世に感謝したいと、君がいるこの世は何て素晴らしいのだと、君と同じ時代に生まれて私は何て幸せ者なのだろうかと。
そしてそれが私の最期の言葉となった。刹那、私は自分の肉体から魂が離れるのを感じると共に、ベッドに眠る自分の姿を俯瞰した。私の体の傍には彼女がいた。彼女は魂の抜けた私の体に覆いかぶさる様にして抱きしめ号泣していた。
そんな彼女の姿に私は思う。彼女が抱きしめているそれは私の体でもあるが、その体から離れた私からすれば彼女が他の男を抱きしめているようにも見えた。私は消えゆく最期、自分の体に嫉妬した。
2019年12月30日 初版