92 魔法学の権威レイテシア 2
レイテシアさんと初めて出会ったのは、王都からドルタードへ拠点を移すための準備で、魔法書を買おうと訪れた北区にある高級書店でのことだった。
「あら貴方、『ロッズウォルト博物誌』なんて読んでいるの? 変わっているのね」
本から顔を上げると、すぐ隣に見知らぬ女性が一人立っていて、微妙な表情を浮かべながら屈むようにして俺の手元の本を覗き込んでいた。
この高級書店には普通の本棚はなく、宝飾店のような鍵付きのガラスケースが店の中央に並んでいて、その中に本が一冊ずつ丁寧に展示されている。
そして壁際にはテーブルとソファーの応接セットが何組も並んでいて、高級そうな制服に身を包んだ物腰丁寧な店員に頼むと、本をガラスケースから取り出してくれて、応接セットでお茶をしながら閲覧できるようになっている。
そこで魔法書を探してガラスケースの中を覗いていたところ、『アックスストーム』に護衛依頼する時に俺が学者と勘違いされる切っ掛けになったその本がたまたま目に付いたんで、ついでに閲覧させて貰っていたところだった。
「えっと……あなたは?」
「ああ、突然ごめんなさい」
その女性は背筋を伸ばすと、改めて俺に向き直る。
「わたしはレイテシア・オランド。ご覧の通り上級魔術師で魔法学の権威よ」
堂々と胸を張り得意げに名乗りを上げたその女性、レイテシアさんは、さあどうだとばかりに俺を見た。
「初めまして、ミネハル・ナオシマです。こう見えても一応学者で、冒険者もやっています」
社会人の礼儀として席を立って、軽く会釈しながら俺も名乗る。
と、レイテシアさんは微妙な表情を浮かべて、ブツブツ言う。
「そのリアクション……わたしの知名度もまだまだってことね」
魔法学の権威って名乗りが自称なのか事実なのかは不明だけど、もしかしたら魔法学の分野ではそこそこ有名人なのかも知れない。
だとしても、この世界に来て二十日かそこらの俺が知っているはずないわけで。
学者と名乗った以上知らないのは不味かったかなと思わないでもないけど、そこはもう知らないで押し通させて貰おう。
「それで、俺に何かご用ですか?」
「いいえ、別にないわ。ただ、なんでそんな微妙な本を読んでいるのかしらって、気になっただけよ。それで、どうしてなのかしら?」
あっけらかんと用はないと言って、それでもグイグイくる。
正直、あまり得意なタイプではないけど、魔法学の権威を自称しているわけだし、魔法や魔法書に関して有益な情報を聞けるかも知れない。
「俺も魔物に関しての博物誌を執筆しようと思っていて、参考までに有名なこの本に目を通しておこうと思ったんです」
「あら、そういうことなのね。それなら是非とも『ロッズウォルト博物誌』よりいい物に仕上げて貰いたいものだわ」
「これ、そんなに微妙なんですか?」
「貴方、実際に魔物を目にしたことはあるかしら?」
「ええ、帝王熊と雷刀山猫なら」
「随分と大物ばかりを見てきたのね」
なんだか驚かれてしまった。
「いいわ、論より証拠よ。その二つのページを探して見てご覧なさい」
五百年から六百年くらい昔に書かれた豪華な装丁の博物誌なので、取り扱いは丁重さが求められていて、最初に店員から手渡された白い手袋を付けたまま、慎重にページをめくり該当ページを開いた。
まるで百科事典のように魔物のイラストが描かれていて、大きさや身体的特徴、生息地、生態などが書かれていて、それにざっと目を通す。
「……ん?」
帝王熊について、生態は大きく変わらないものの、記述されている体長は三メートルから四メートルとあって、実物よりちょっとサイズが小さい。
グラハムさんによれば、体長四メートル以上あっても成体になりたての小型だって話だから、随分と違うみたいだ。
雷刀山猫に至っては、載ってすらいなかった。
その代わりってわけじゃないだろうけど、元の世界の山猫より二回りほど大きい、だけど大きな牙もなく、強麻痺の唾液を出すとも群れを成すとも書いていない『山猫』。
『山猫』よりさらに一回り以上大きく、十センチ近い牙を生やした『刀山猫』。
さらに雷刀山猫とほとんど同じ大きさの、数十センチもの長い牙を生やし群れを成す、だけどやっぱり強麻痺の唾液の記述はない『長刀山猫』なんかが載っていた。
「うーん……」
これはどういうことだろう?
魔物が種類により載っていたり載っていなかったり、データの内容が違ったり。
思わず唸ってしまった俺に、レイテシアさんが苦笑する。
「どうかしら、微妙でしょう?」
単純なミス……とも思えないけど、微妙だって一般的な評価が、記載されているデータに現実との差異があって使えないって意味なら、たまたま選んだ帝王熊と雷刀山猫のページに限った話じゃないはずだ。
「筆者のロッズウォルト卿は資産と人材に飽かせて、世界中から書物や情報を集めて、その『魔物の章』を始めとした、植物、薬学、歴史、地理、魔法、スキルなどについて、多くの博物誌を編纂しているのだけれど、歴史や地理の章はともかく、動植物や魔物の章に関しては非常に評価が低いわ」
それで『ロッズウォルト博物誌』よりいい物を、って話になるのか。
全部微妙で使えないならともかく、こっちの章は使える、こっちの章は使えないって、なんだかアンバランスな話だな。
「お詳しいんですね」
「あら、大したことないわ。魔法学でなくても、この程度は基本中の基本よ。貴方も学者を名乗るのなら、専門以外の本も幅広く読んでおいた方がいいわよ」
「そうですね。貴重なお話、ありがとうございます」
「どういたしまして」
にこやかに微笑むレイテシアさん。
いきなり手元を覗き込んだり話しかけてきて、どんな人なのかと思えば、気さくで親切な人なのかも知れないな。
店員さんにお礼を言って、『ロッズウォルト博物誌』を返却する。
「次に、いくつか魔法書を見せ――」
「あら、魔法書も探しているのかしら? だったらこのわたしに聞きなさい」
目を輝かせて、食い気味に割り込んでくるレイテシアさん。
「あら、失礼。魔法書と聞いてつい。でも、一口に魔法書と言っても、内容もレベルも様々にあるわ。貴方は何を目的として魔法書を閲覧したいのかしら? よければこのわたしが相談に乗るわよ」
物腰丁寧な口調とは裏腹に、是非相談しなさいと、すごい圧をかけてくる。
これは相談しない方が面倒なことになりそうだ。
「じゃあ、お言葉に甘えて。実は――」
ユーリシスに出された課題の、幾つかの学説を比較して勉強しないといけないってことを相談する。
「偉いわ君! 複数学派の異なる解釈を多角的に捉えて魔法学を学ぼうだなんて、一介の学生では面倒臭がって避けるのに。それを、自ら積極的に取り組む姿勢、気に入ったわ。君、名前はなんだったかしら?」
「ミネハル・ナオシマです」
「そう、ミネハル君ね、覚えたわ。この魔法学の権威たるわたしが、君に必要な魔法書を見繕ってあげる」
言うが早いか、店員に矢継ぎ早に本の名前を告げて、ガラスケースの中から取ってこさせる。
そうして、俺の前に積み上げられた五冊の魔法書。
「まずはこれ、『基礎魔法学入門書』ね」
薄い教科書くらいの薄さで、読むのにそう時間が掛からなそうな本だ。
「著者は不明で、数百年前の高名な貴族出身の魔導師と言われているわ。魔法とはいったいどのような物なのか、魔力とはいったいなんなのか、どうすれば魔法を使うことが出来るようになるのか、呪文が存在する意味とその構成について。そういう基礎的な内容を学べる、発行されて以来最も初心者に読まれている本ね。魔法学を教えている高等学校や魔法学院に入学するなら、絶対にこれを読んでおけと言うくらいよ。入学試験の多くはこの本の内容から出題されていると言われているくらい、魔法学を学ぶなら必須の教科書ね」
お値段は、三万六千リグラ。
一リグラは日本円にして一円から百円くらいの幅があるから、十円のレートで考えても三十六万円だ。
いや、この世界で本は貴重品で贅沢品で調度品だから、百円のレートで三百六十万円と考えた方が妥当かも知れない。
活版印刷もない、識字率も低い、その上、読む人が限られる魔法書とあっては、そのくらいの値段がしてしまうのは仕方ないだろう。
「お次は『アルクレーゼ基礎魔法書』ね」
厚い教科書くらいの厚みのある本で、装丁は『基礎魔法学入門書』より立派だ。
「著者はアルクレーゼという二百年くらい前の貴族出身の魔導師で、かつては魔法学院の教授もしていた、三大派閥の一つアルクレーゼ派を勃興した高名な魔法学の権威よ。呪文の語句の研究や、魔法の種類ごとの分類、現在ある魔法の呪文の改良、などに重点を置いて、他派との比較研究が盛んな一派の必読書ね」
お値段、六万三千リグラ。
「お次は『ゼルイン基礎魔法書』ね」
これも、『アルクレーゼ基礎魔法書』と同じくらいの厚みと立派な装丁の本だ。
「著者はゼルインという百五十年くらい前の貴族出身の魔導師で、同じくかつての魔法学院の教授であり、三大派閥の一つゼルイン派を勃興した高名な魔法学の権威よ。呪文構成の解釈や、呪文構造の魔法陣への転用などの研究に比重が置かれていて、アルクレーゼ派とは呪文の語句の解釈や分類において何かとぶつかり合って仲が悪いけれど、斬新な解釈は面白いと思うわ」
お値段は、六万八千リグラ。
「お次は『ジジル基礎魔法書』ね」
これも、先の二冊と同じくらいの厚みと立派な装丁の本だ。
「著者はジジルという六十年くらい前の貴族出身の魔導師で、同じくかつての魔法学院の教授であり、三大派閥の一つジジル派を勃興した高名な魔法学の権威よ。呪文変遷の歴史から魔法の構造を紐解く研究に比重が置かれていて、アルクレーゼ派と解釈が重なる部分も多いけれど、アルクレーゼ派が既存の魔法の改良を目指しているのなら、ジジル派は新呪文の開発研究をしていて、その理論は興味深いわね」
お値段は、五万七千リグラ。
「最後に『魔法の発展と呪文の変遷の歴史』ね」
分厚い辞書並みの一際立派な装丁の本だ。
「著者は同じくジジルで、魔法研究や呪文構成の理論を過去のそれと比較研究して、魔法の発展と呪文発見の歴史や変遷、時代ごとの呪文のトレンドの分析もしていて、今後の呪文の研究開発なんかで有用になる魔法書よ。前半分くらいは理論より魔法の歴史書みたいなものだけれど、中級者、上級者向けで、魔法研究者垂涎の理論書ね」
お値段は、十四万五千リグラ。
ちなみに、ここまでほとんど一気に喋って解説して、俺は口を挟む暇もなく、合間に頷くことしか出来なかった。
これはあれだ、自分の好きなことを喋り出すと止まらない典型的なオタク気質だな。
「的確なチョイスですね。俺が読みたい内容がちゃんと網羅されていますよ」
「ふふん、当然でしょう。なんたってわたしは魔法学の権威なのよ」
胸を張ってドヤ顔のレイテシアさん。
一冊一冊、パラパラと軽く目を通してみると、興味深い内容が散見されたんで、お勧めをそのまま購入することにする。
五冊で締めて、三十九万九千リグラ。
王都で一般的な四人家族の一日の生活費が、高めに見積もってざっくり二百リグラと考えると、魔法の勉強や研究って一部の金持ちにしか出来ないのがよく分かるな。
レイテシアさんもドレスを着て、高級書店に出入りし、こんな法外とも思える値段を見ても平然とした顔で当たり前のように勧めてくるのが、そのいい証左だ。
スレッドレさんみたいに、呪文丸暗記で、その魔法だけ使えればいいやって下級魔術師が圧倒的に多いのも頷ける。
まあ、即金で支払ったんだけど。
所有権が放棄されていることを条件に入れて、ホロタブで魔物の生存領域を検索。
百五十年以上前に放棄された町の、恐らくは大商人の物だったと思われるお屋敷の金庫の中に、大量のラグラス金貨を発見。
リグラ貨より品質が良く二.五倍のレートで使用される王室貨のラグラス金貨百六十枚の座標を、俺の財布の中の座標に書き換えて取り寄せ、支払いに使わせて貰ったから。
失われた貨幣を市場に戻して経済を活性化させる役割も果たすんで、チクチクと痛む良心はそれで誤魔化しておきたい。
「ちなみに、レイテシアさんはどれかの派閥に属しているんですか?」
「わたしはオランド派よ……って言いたいけれど、まだそこまで独自理論で成果を出せていないから著書もないし、書いた論文の数も少ないのよね。魔法学院で付いて学んだ教授がジジル派だったこともあって、新しい魔法の開発をメインに研究しているわ。同時にゼルイン派の理論も学んで、新しい魔法の開発の傍ら、魔法陣の研究開発と魔法道具への転用の研究も行っているの」
すごいな、これは是非仲良くなって色々と話を聞きたい人材だ。
「すごく興味深くて色々と話を聞かせて欲しいんですけど……俺、もうすぐ王都を離れるんですよね」
「あら、そうなの? それは残念ね。でもわたしも、魔法学会があるから王都へ来ただけで、学会が終われば王都を離れるわ。それに、話を聞かせるのはやぶさかじゃないけれど、基礎すら出来ていない初心者相手だと、質問と解説で頻繁に話の腰が折られて疲れるから嫌よ。せめてその本を全て読破して、語り合えるくらいの知識がないと。その上で君がまだわたしの話を聞きたいと思っていたら、その時はわたしの元を訪ねていらっしゃい。たっぷり話を聞かせてあげるから」
まあ、多分それはリップサービスだろう。
お互い、どこへ行く、どこに住んでいるって話はしなかったから。
もし縁があったら面白い、そう考えているのは、レイテシアさんの楽しげな顔を見れば明らかだった。
俺も、ユーリシスの存在のおかげで、そういう縁ってあるって信じるようになってきていたし、本当に縁があれば何もしなくてもまた会えるだろうと思ったから。
そうして、王都でレイテシアさんと会ったのはそれが最初で最後で、すぐに俺はドルタードへ向けて旅立ったのだった。