120 閑話 魔法学の権威誕生の日
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――それは八年前、レイテシアが二十一歳でまだ修士号しか持たず、博士号を与えられる前。
レイテシアは緊張の面持ちで、魔法学会の大講堂で演壇に立っていた。
自分たった一人に注がれる、百六十人を越える学会員達の視線。
頭髪のほとんどが白くなってはいるものの鋭い眼光に衰えはないイグニール・ブレーク博士を始め、博士号を持つ者も多く、学会員のほとんどがレイテシアより遥かに年上で、長年魔法学の研究に努めてきた、爵位持ちや貴族の子弟および海千山千の商人やその子弟だ。
そんな彼ら、彼女らが、学者としてはまだ年若く淑女であるレイテシア相手であろうとも、容赦なく値踏みし、意地の悪い質問や厳しい追及の手を緩めることはない。
だから、レイテシアにとって本日の論文発表が三度目であっても、未だにこの雰囲気には慣れず、手も足も声も震えそうになるのを必死に押さえ込みながら、自らが提出した論文の成果を信じて発表を行っていた。
「――よって魔法文字『τ』が、風属性を表す魔法文字『ν』と組み合わせ、連続で『ντ』と魔法陣に刻むことで、『声』や『音』を表す魔法文字となるという既存の解釈と定義に、疑義が生じると言わざるを得ません」
「つまりこのワシが間違っていると言いたいわけか!?」
怒声と共に一人の学会員が乱暴に机を叩いた音が響いて、レイテシアはビクリと身を竦ませてしまう。
その学会員は、『ντ』と連続で魔法陣に刻むことで『声』や『音』を表す魔法文字となる、数年前そう論文で発表した博士だった。
そのおかげでマイクという新しい魔法道具が発明されたのだから、その第一人者としてのプライドがあるのだろう。
不愉快さと怒りが籠もった視線に、思わず視線を逸らして俯きご免なさい済みませんと謝ってしまいそうになるのを、レイテシアは震える拳を握り締めて我慢する。
前回、前々回に発表した論文は、今にして思えば、博士号を与えられるには値しないと自分でも納得していた。
でも今回の論文はかなりの自信があり、だからこそ怖くても演壇に立ったのだ。
それに、その博士が博士号を与えられた論文は、もっと昔の別の論文だったので、ここで間違いを証明したとしても、メンツを潰してしまうが最悪の事態にはならない。
何より、自分にだって、人生を魔法学の研究に捧げると決めた学徒としてのプライドがある。
だから勇気を振り絞り、顔を上げて、相手が博士だろうがなんだろうが、その視線を真っ向から受け止めた。
「それを今から証明してご覧に入れます!」
そして負けじと声を張り上げて、自作した三つの魔法道具を並べた。
「これはそれぞれ、マイクに刻まれた魔法文字を変えたものです。今回注目したのは『ντχ』の連続する三つで、これらが声を拡散するために重要な魔法文字であるという理論に異存はありません。そこで、まずこちらの一つ目ですが、風属性を表す『ν』を光属性を表す『θ』と入れ替え『θτχ』としてみました。これに向かって声を拾わせても、声は拡散しません」
一つ目の魔法道具を起動して表側に向かって喋っても、普通のマイクのように裏側から声は拡散していかないことを証明する。
何を当然なことをという視線を多数向けられるが、その当然を証明することがこの一つ目の魔法道具の目的だったため、すぐに次の実演に取りかかった。
「では、魔法道具のランタンの明かりを、この一つ目に当ててみた場合ですが――」
ランタンを起動して、その明かりを一つ目の魔法道具の表側に当てる。
すると、声を拡散するはずの裏側から光が拡散されていった。
小さなどよめきが起きる。
「――このように、光が拡散されていきます。この光は『θ』としか入っていないランタンの光と同じ色、光量なので、『θτ』となったことで別の意味を表す魔法文字となったとは言えません。ですので『ντ』もまた、別の意味を表す魔法文字となったことに疑義が生じると同時に、『τ』が全く異なる意味を持つ魔法文字であると推察出来ます」
「『θτ』で光が拡散されるとは驚きの発見だが、それだけで『ντ』が『声』や『音』を表さない証明にはならんだろう」
「検証不足で『θτ』が『光』以外を表していることを突き止められていないだけではないのか?」
など、意地の悪い口ぶりで指摘してくる学会員達。
そこはレイテシアも予想していたので、無駄に緊張したり慌てたりせず、二つ目の魔法道具を取り出す。
「では二つ目ですが、こちらは『τ』をなくし『θχ』としたものです」
同様にランタンの明かりを当てると光は拡散されず、裏側は影になっていた。
続けて三つ目の魔法道具、『τ』をなくし『νχ』とした物もまた、喋りかけても裏側から声は拡散されず、ではただの風ではどうかと手で風を送っても、裏側から風は拡散されなかった。
その実験結果の意味を理解して、ざわめきが広がっていく。
「ご覧のように『νχ』であれば、風が拡散されなければおかしいことになります。『θχ』でも同様です。ですがどちらも拡散されません。それどころか、裏側から風も声も光も素通りしてきません。そもそも魔法道具の厚みによって物理的に風も声も光も遮断されているのに、何故『τ』を刻むことで裏側から拡散されるようになるのでしょう?」
一層ざわめきが大きくなり、ブレーク博士はレイテシアを注視し、件の博士も反論するどころかレイテシアの次の言葉を待っていた。
だから、レイテシアは大きく息を吸って、声を張り上げる。
「つまり、『ντ』以外の魔法文字ですでに裏側から拡散する効果は刻まれており、『τ』は、『τ』より前に刻まれた属性を、魔法陣の表側から『収集』もしくは『記録』する効果を持つ魔法文字であると定義することが出来ます!」
一年後、件の博士を始めとした多くの学会員達の追加実験と検証により、レイテシアの仮説が正しいと証明された。
そして論文が認められると共に、一つの魔法文字の意味と機能を明らかにした功績により、女性における史上最年少での博士号が与えられたのだった。
◆◆◆
「女性では史上最年少の博士、か。悪くないわね♪」
博士号が授与され、その証となる刺繍が施された新しい黒いローブを手渡され、レイテシアは早速その黒いローブへと着替える。
真新しい生地の感触とこれまでなかった胸元の刺繍が、自分が遂に博士号を得たのだと実感させてくれて、心浮き立ち、声が弾んだ。
尊敬するブレーク博士にお褒めの言葉を貰い、これまでのぞんざいなフルネーム呼びではなく、敬意を込めて『オランド博士』と呼ばれた時は、くすぐったくも嬉しくて、頬が緩んでしまったものだ。
どうだ遂にやってやったぞとばかりに、父親に見せびらかしてやろうか。
そんな悪戯を考えながら、軽い足取りで大講堂を出る。
「待て、レイテシア・オランド」
と、その行く手を遮るように一人の男が立ちはだかった。
その男は、リカルド・ウェブルース。三つ年下の修士だった。
「何か用かしら?」
せっかくのいい気分が台無しになったのを感じつつ、ぞんざいに尋ねる。
本来であれば、伯爵家の嫡男ともなれば無下にしていい相手ではない。
しかし、『知識は爵位や地位に関係なく人々の前に平等』という魔法学会の理念を元にした会則により、地位や爵位によるパワハラは固く禁じられており、学会員は年齢も性別も出身も関係なく対等とされている。
でないと、下位の者が上位の者の勘気に触れるのを恐れて、活発な議論が出来ないからだ。
なので、ブレーク博士など尊敬できる先達と話をする時ならともかく、何故かことあるごとに突っかかってくる相手に払う敬意など持ち合わせていないので、相応の態度を取ったわけである。
「まさか貴様が博士号を、しかも女性における史上最年少で授与されるとはな。その偉業、褒めてやろう」
「え、ええ……ありがとう?」
妬み嫉み、またしても突っかかられるのかと思っていたところ、思わぬ彼なりの褒め言葉を貰って、逆に戸惑ってしまう。
しかし次の瞬間、一瞬でも褒め言葉を貰ったと勘違いした自分の浅はかさを呪いたくなった。
「その偉業、この私の隣に立つのに相応しい。貴様をこの私の妻として娶ってやろう」
これ以上の名案などない、泣いて喜べとばかりに、尊大に胸を張るリカルド。
何を言われたのか分からず、呆けるレイテシアだったが、その意味を理解した瞬間、嫌悪で肌が総毛立った。
「お断りよ!」
「なっ!? 貴様、この私が妻にしてやると言っているのだぞ!? それを断るつもりか!?」
「当然でしょう、お断りよ!」
対外的に、穏便に断る理由はいくつもある。
例えば、平民の自分が伯爵家に嫁げるわけがない、とか。
例えば、魔法学の研究に邁進するため結婚は考えていない、とか。
例えば、だから父親が用意した見合いを全て断り父親を怒らせ、実家のニグル男爵家と縁を切り貴族籍も抜いたから、そんな女を妻に娶るのはハールス伯爵家にとって多分に外聞が悪いだろう、とか。
しかしレイテシアは、湧き上がる嫌悪感のままに本音をぶちまける。
「わたしは魔法学に身を捧げると決めたから、結婚なんてこれっぽっちもするつもりはないの! よしんば結婚しなくてはならなくなったとしても、貴方みたいな、三人もの婚約者に次々と逃げられ婚約破棄された挙げ句、未だに新しい婚約者も見つからないような欠陥嫡男なんてまっぴらごめんよ! まずはその根拠もなく尊大で相手を見下すふざけた性格をどうにかしてから一昨日来なさい!」
「きっ……きっ……貴様っ……!? 嫁かず後家の分際でこの私を愚弄するか!? 貰い手のない貴様をこの私が貰ってやろうというのだ! 本来であれば、泣いて縋って感謝すべきところだろう! この私が父に言えば男爵家ごとき即座に取り潰せるし、ホドルト伯爵に圧力をかけて貴様のパトロンから外させることも出来るのだぞ!?」
自ら選んだ道とはいえ、嫁かず後家やら貰い手がないやら、指摘されれば腹が立つし、仮にも結婚を申し込んだ相手に面と向かって言うことかと、これだからこの男は生理的に受け付けないのだと、レイテシアも尊大にリカルドを見下し、胸を張って勝ち誇る。
「それはつまり、ウェブルースの敗北宣言ってことね?」
「敗北宣言だと!? 高貴なるこの私に敗北などあるわけがない!」
それすら気付かない哀れな男に、一度大きく息を吸ってから、一気にまくし立てる。
「実家の権威を笠に着て、父親に縋らないと女一人口説き落とせないなんて、男として敗北したと言われて当然でしょう? 恥ずかしくないのかしら。そもそも、学会員の間で地位や爵位を持ち出すのは会則で禁止されているのも忘れたの? どれだけ権力を振りかざそうが金貨を積み上げようが、知識と魔法の法則が貴方に便宜を図ることはないわよ」
「ぐぬっ……!」
「第一、結婚の申し込みをこんな場所で、それも立ち話で一方的にだなんて、礼儀知らずにも程があるわ。会則を守れないどころか、貴族としての礼節も持ち合わせていないのかしら」
「お、おのれ……!」
「わたしを口説きたければ、せめて博士号を授与されてからにして頂戴。でないと話のレベルが合わないでしょう? わたし以上の知性と教養、そして煌めくばかりの斬新な発想と着眼点、そんな叡智を持つ魅力的な殿方でなければ、妻として生涯共に歩く気にはなれないわ。だってそのくらいでなければ、女性における史上最年少で博士号を与えられたこのわたしに釣り合わないでしょう?」
そんな傲慢な考えは、欠片も本心ではない。
しかし、リカルドのような虚栄心が強い男にとっては、非常に効果的である。
リカルドがぐうの音も出なくなったところで勝ち誇り、では失礼と、脇を通り過ぎて悠々と歩き出す。
そんなレイテシアの背中に、屈辱にまみれた言葉が叩き付けられた。
「いいだろう! この私もすぐに博士号を得てみせるからな! その時になって泣いて縋って妻にしてくれと言っても知らんぞ!? いいか、必ず貴様から妻にして下さいと言わせてみせるからな!」
そんな日は、未来永劫絶対に来ない。
そう確信しているから、レイテシアは振り向きもせずに、歩き去ったのだった。
それから、魔法学会が開催されるたびに、リカルドは論文を発表しては認められず手痛い目に遭い、避けているレイテシアにわざわざ自分から近づいては、突っかかり、撃退され、敗北する。
それを毎年繰り返すようになったのだった。
◆◆◆
「ミネハルさんってぇ、元から頭が良くてぇ、色々知っていてぇ、短期間で魔法を使えるようになったと思ったらぁ、今度は博士ですよぉ。ここまですごい人だったなんてぇ、思ってなかったですぅ」
「そ、そうか? そう手放しで褒められると、ちょっと照れるな」
はしゃぐティオルとララルマ、そして口元を緩めて照れる峰晴の声に、レイテシアはふと、過去の情景を思い出し、なんとも言えない笑みを浮かべる。
何故唐突に昔のことを思い出してしまったのか。
博士号の証である刺繍の入った栄誉あるローブに慣れないのか、照れつつ落ち着かない峰晴を見て、なるほどと納得する。
『わたし以上の知性と教養、そして煌めくばかりの斬新な発想と着眼点、そんな叡智を持つ魅力的な殿方』
リカルドを撃退するための方便ではあったものの、全てが出任せではなかった。
それほどの男であるなら結婚を考えてもいいと思っていたし、父親との口論で条件として並べ立てもした。
そして、そんな男が現れるわけもないから、結婚はせずに魔法学の研究に一生を捧げよう、そう思っていたのだ。
ところが、本当にそんな男が現れてしまったらしい。
「どうかしましたかレイテシアさん?」
不思議そうに、そして気遣うように、峰晴が真っ直ぐに瞳を覗き込んできて、自然と微笑みが浮かぶ。
揺るがない芯を持ちながらも、お人好しなこの男なら、いいかも知れない。
本気でそう思えた。
「ねえミネハル君、わたしと結婚しない?」
今回(120話)で第三章終了です。
申し訳ありませんが、ストックが尽きたので投稿を一時ストップします。
本来サブキャラであるレイテシアが峰晴と結婚すると予定外の事を言い出したため……第四章のプロットを大幅修正予定です。
ある程度の分量を執筆したら投稿を再開したいと思います。
代わりと言ってはなんですが、この作品の合間にちまちまと書き進めていた新作(第一章全31話執筆済み、第二章執筆着手済み)を本日より投稿開始しました。
「見境なし精霊王と呼ばれた俺の成り上がりハーレム戦記 ~力が正義で弱肉強食、戦争内政なんでもこなして惚れたお姫様はみんな俺の嫁~」
https://ncode.syosetu.com/n3644gg/
詳しくは活動報告もご覧ください。
よろしくお願いいたします。