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井蛙  作者: 弗野次
1/1

上編

 古池や 蛙飛び込む 水の音


 俄雨が上がったばかりで芭蕉の葉もまだ露に濡れている昼下がり、俳諧師の一人は庭を眺め一句詠んだ。段々と雲の隙間から淡い空が現れてきた。蛙は水面から頭をのぞかせ、「ゲコ」と一声青空に鳴く。




「嗚呼、よく寝た。」

 その日、珍しく彼は世界に日が差すまで熟眠していた。それほど大きくない古びた丸井戸の中、それが彼のいる世界であった。

 何故、いつからここにいるのか。そんなこと彼は疑ったことすらないのだろう。彼は一度も外に出たことがない。井戸の中に食料はいくらでもいた上天敵に襲われることもなく、水も十分にあったので今までそこにいて不自由したことはなかった。

 だから井戸から出る必要はなかったし、そもそも出ようと考えたこともなかった。というわけで彼は今日も温温と円筒形の世界で暮らしていた。


 彼は雨蛙とかいう蛙らしい。というのも、彼は雨蛙のように緑色に照り映えたことなどなく彼の背中はいつも井戸と同様に濃鼠色にくすんでいたため、色では雨蛙と区別できないのだ。おまけに井戸暮らしで二回り程肥大した彼の図体では、雨蛙というより寧ろ廿日鼠はつかねずみのようである。

 また蛙といえば華麗な跳躍が代名詞であり、彼も勿論出来ないことはない。だが、彼の体躯では井戸を超えられなかったし、それを試したこともない。話し相手といえば井戸にいる虫ぐらいだし、共に歌い踊るものもいなかったが、彼は井戸の中にいて不満はなかった。それが当たり前、当然のことだったからだ。

 蜘蛛を二匹平らげた後、蛙は何となく井戸から半分顔を出したお天道様に向かって歌い始めた。「ケロッ、ケロケロッ」次第に鳴き声は大きくなり、小柄な歌謡いの独唱は世界の外へと響いていった。



 歌声はそよ風に乗って百日紅さるすべりにとまるからすの元まで聞こえてきた。

「...何か聞こえるな、行ってみるか。」

 毛繕いを終え飛立とうとしていた黒い機体はそう呟き、次の目的地を歌声のする先に決めた。烏は羽ばたき、眼下に江戸の街並みを望みながら考えを巡らせる。

 この鳴き声は恐らく蛙だろうな。今日の飯は蛙になりそうだ、蛙なんて暫くぶりだ。そうだ、海辺の田園地帯で捕食したのが最後だったような気がする。向こうに居たころは頻繁に食べていたが、此処に渡ってからは初めてだな。

 彼は各地を転々とするのが好きだった。烏は渡り鳥ではないから恐らく生物としての生態が原因ではなく、言うなれば〈好奇心〉からであった。他より周囲への興味が強い、それ故危難もあったが多くを学習することができた。己の探求心から方々を雄飛し得られた経験は、彼をより利口にさせた。

 歌声の先へ向かったのも本能というより興味、彼の好奇心が変事を予感したからである。

 ふと我に返ると真下に丸井戸が見えた。どうやら発信源は此の中のようであった。振り返ると、灰色の雲が彼の後を追うように迫ってきている。烏は再び井戸を見下ろし水面に蠢く影を認めると、彼の目は鋭く輝いた。



 蛙はその黒い塊が何かわからず、ただ傍観するしか術がなかった。それも仕方がない、誰だってUFOや神様が突如眼前に現れればそうする他ないだろう。彼にとってその烏はまさに未知との遭遇であった。蛙が見つめていると、未知の姿は次第に大きくなり井戸の縁で停止した。次に未知は言葉を発した。

「お前は何だ...もしや蛙か?」

 緊張が走る。蛙は体を強張らせつつ反応した。

「そうだが...お前の方こそ何者なんだ?どこからやってきた?」

「見てわからないのか?烏だよ、向こうの百日紅から歌声を聞きつけて飛んできたのさ。」

「烏?百日紅?何を訳のわからないことを言ってるんだ。お前みたいなのは初めて見るぞ。」

 蛙は訳も分からず混乱していたが、烏の方は賢い。段々と状況を理解しつつあった。

 嗚呼、此奴は此処から出たことがないんだな。少なくとも今まで死の危険に晒されたことがないのだろう。我々鳥類を知らないないことがその証拠だ。なんて哀れな奴だ、この窮屈な井戸の中しか知らないなんて。そうだ、少しからかってやろうか。

「それもそうだ。何故なら私は天からの使いだからな。」

 尤もらしく咳払いをしてから烏は喋りだした。

「空に召します光り輝くお天道様の思し召しで、お前を迎えに上がったのだ。蛙よ、お前に新たな世界を見せてやろう。」

 翼で太陽を示しそう言うと、蛙は半信半疑な様子で此方を伺ってきた。

「確かにお前は空から降りてきたな。だが新たな世界とはなんだ、私の知らないものでもあるのか?」

「嗚呼、非常に沢山な。お前、『海』ってものなど知らないだろう。」

 蛙は返事の代わりに困惑した目を烏に注いだ。烏は憐れみを含んだ目で見つめ返し、心の中で蔑むように呟いた。

 此の蛙はまるで〈井の中の蛙大海を知らず〉だな。


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