第一話「平和の檻の中」(4)
フランカ・アマーティはエミリオの旅立ちを見送る為に彼の家の外で待っていた。彼女の艶やかな茶色の髪の毛は頭の上で結い上げられている。マイア・ラッセグナの葬儀の時から長く伸びた髪を真っ直ぐに下ろすのを止めていた。何かしら気分を変えるものが欲しかったのかもしれない。フランカは小さい頃からマイアに色々と世話になっていた。エミリオと一緒に童話を読んで聴かせてもらったり、お菓子をご馳走になったり、お菓子の作り方を教えて貰ったり、歌の歌い方を教えて貰ったり。母親のいないフランカにとって、とてもありがたく暖かい存在であったのだ。
フランカが町医者を連れて戻って来た時、マイアはすでに息を引き取っていた。あの日からまだ1週間も経っていない。マイアがいなくなってしまった事を思い出すと再び涙が溢れ出してくる。
エミリオの家に向かって歩いてくる大きな男の姿がフランカの目に入った。彼女と似た色合いの髪の毛、筋肉質で頑丈な体格、髪と同じ茶色の瞳。ラズ・デルデブラッドという名の若者である。フランカはラズが近くに来る前に自分の目や頬から涙を拭った。
「よう、フランカ。どうしたんだ、そんな格好で」
ラズのその言葉にフランカは首を捻りながら、彼の大きな図体を下から見上げた。ラズはフランカよりも頭二つほども背が高い。彼の格好は旅に出る者のそれであった。
「そんな格好って、私はいつもと同じ、いたって普通の若い女性の格好よ。ラズの方こそ、その格好は何なの。エミリオと一緒に旅にでも出るつもり?」
フランカの発した言葉にラズは一瞬だけ口をぽかんと開けた。
「フランカは行かないのか?」とびっくりしたように大きな声で言う。
「冗談で言ったのに本当に一緒に行くつもりなんだ…」
フランカは改めてラズの身なりを見て驚いた。その大きな背中に背負い袋と一緒に大剣をぶら下げている。このような格好で街中をよくも平気で歩いて来れたものだとフランカは思った。
「ちょっとラズ。鞘には収まっているとは言え、そんな大きな剣をそのまま背負っていたら衛兵に捕まるわよ。大体、今の時代、そんな大きな剣で何と戦おうっていうのよ」
「俺がエミリオを守ってやらなきゃならないだろう」
「そんな格好でエミリオに付いて回ってたら、エミリオもラズと一緒に捕まっちゃうわよ、きっと」
ラズは背中から大剣を手に取り、くるりと回して、自分の足元の地面に下ろした。
「そういうものなのか。しかし、俺が旅に出ると知って、仲間達が調達してくれた大切な剣だからな。役立てられぬと知れば、仲間達が悲しむ」
フランカは笑顔を作って見せた。
「役立てられないかどうかはわからないわよ。そういう場面になったら役立ててあげれば良いじゃない。とにかくそのままじゃ目立ち過ぎだから」
仕方が無いという風にラズは顔をしかめながら頷く。背負い袋を下ろして、その中から大剣を包んでしまえるほどの大きさの防水性の布を引っ張り出した。その布で大剣を包んで、簡単に紐で縛り上げる。それを持ち上げて、ラズは再び頷く。
「うん。このままでも戦えない事はないな。十分に使える」
「ところで本当にエミリオに付いて行くつもりなの?」
「ああ。俺はエミリオと共に行く」
「何をしに何処へ行くかちゃんとわかっているの?」
疑わしげなフランカに向かってラズは明るく笑って見せた。
「わかっている。アスレムア連邦のネーバスヴェート王国だ。俺はエミリオと一緒にこの世界からあらゆる争いをなくす為に力を尽くす」
「ラズは本当に争いがなくなったら元気をなくしちゃいそうだけどね」
フランカはそう言って笑う。ラズは真面目な顔つきでフランカを見た。
「フランカは本当に行かないのか?」
「行かないわよ。大学寮で学びたい事もまだまだたくさんあるし、アスレムア連邦なんかにも行きたくない。私はこのヴェルチア共和国が気に入ってるわ。もっと色々な事を学んで、この国をもっと良くする為に頑張りたいの」
「エミリオなら全ての国をもっと良くする事が出来るさ」
本気でそう言っているラズを見て、フランカは微笑む。ラズはエミリオの熱心な信奉者なのだ。彼はエミリオの為にその力を惜しみなく振るう事だろう。
「ラズはエミリオに惚れているからね」
このフランカの発言にはラズは仰天した。
「おいおい! 馬鹿を言うな! エミリオは男だぞ!」
ラズの動転っぷりにフランカは面白そうに笑みを浮かべる。
「エミリオは女よりも綺麗だと思うよ。私よりも綺麗なんじゃないかな」
「そんな事はないだろう! 男と女だぞ! 全然違う!」
「そんな事あるのよ。大昔には同性同士が愛し合うのが世間に認められていた時代もあったと記されているわ。歴史が証人よ」
「俺には歴史とか大昔の事とか難しい事はわからん」
ラズは本当に難しそうな顔をして黙り込む。フランカも彼をからかうのは止めにした。
「私もエミリオの事は好きだけど、惚れてはいないからね」
フランカはマイアが息を引き取った日の事を思い出す。フランカが部屋に戻った時、エミリオはその瞳から涙を流していた。ベッドの上で安らかに眠るマイアの頬にも涙が流れた跡が見えた。エミリオは涙を流し、そして、微笑んでいた。彼女が戻った事に気付くと彼は”悲しくないんだ”と言った。母親がいなくなって悲しくない事などあるのだろうか。フランカは自分の母親の事を知らないが、マイアがこの世から去ってしまった事を本当に悲しんでいる。エミリオはすぐに”何でもない。気にしないで”と言って、アスレムア連邦へ旅立つ事をフランカに告げた。エミリオとは幼馴染みだが、何処か掴み所がないと感じる事がある。知っているのに、まるで知らないような。そんな気持ちになる事があった。
ふと気が付くとラズが驚いた顔をしてフランカを見つめている。
「フランカはエミリオに惚れているのだと思っていた」
「そこがラズと私が違う点ね。だから一緒には行けないの」
エミリオが家の中から出てきた。大剣が無いだけで、ラズの格好とほぼ似たような旅の装備である。エミリオはフランカとラズに微笑みかけた。
「さあ、行こうか」
フランカはエミリオに体を寄せ、別れの抱擁を交わす。
「エミリオ。元気でね。無理をしてマイアさんを悲しませちゃ駄目よ」
「ありがとう。フランカも元気でね。君ならヴェルチア大学寮を首席で卒業出来るよ」
フランカは頷きながら、自分の瞳が涙で潤むのを感じた。フランカはエミリオから離れて、ラズとも別れの抱擁を交わす。
「ラズ。元気でね。エミリオの為に無理をしたりしないようにね」
「大丈夫だ。俺はこう見えても結構何でも出来る」
フランカは笑った。
「では、行くよ」
「私はここで見送るわ」
エミリオ・ラッセグナとラズ・デルデブラッドはフランカに手を振りながら、ポルポリノの街を北に抜ける道を下りて行く。フランカ・アマーティは二人の姿が見えなくなるまで、ずっと手を振り続けた。