第一話「平和の檻の中」(3)
ヴェルチア共和国、ポルポリノの街。
街の一角にある青みの強い紫色の屋根の平屋。そこが金髪の青年エミリオが寝起きしている家である。幼き頃から唯一の肉親である母親と共にこの家で生活を送ってきた。
二週間前の木曜日に母親が突然倒れてから、エミリオはずっと母親の傍に付き添っている。簡素なこげ茶色のベッドで眠り続ける母親の容体は一向に回復する気配を見せていない。まだそれほど年老いてはいない母親の長く伸びた髪は息子と同じく美しい金色の輝きを残しているが、肌はやつれ、目の下には黒ずんだ隈があり、顔色は生きている者のそれとは思えないほど青白い。
「エミリオ…」
フランカは静かに呟いた。母親にずっと付き添い続けているエミリオの様子もまた衰弱しているように見える。ベッドの横で木製の丸椅子に座って母親を見つめているエミリオの横顔をフランカは不安げに見ていた。
綺麗だ。そんな場違いな考えが彼女の頭に浮かんできた。静かに母親を見つめ続けるエミリオの横顔を見て、そう思ったのである。男性とは思えない美しく滑らかな白い肌、青く涼しげな瞳、癖の無いさらさらとした金色の髪の毛。
ヴィサリィの男は皆こんなに美しいのかとフランカは考える。エミリオはヴェルチア共和国の国民の大多数を占める東ヴェルナー人ではない。大陸北方の民族として知られるヴィサリィ民族である。ヴィサリィ人には美人が多いとの風評があり、エミリオの母親であるマイアもまた年齢を感じさせない美しさを備えていた。その息子であるエミリオも”美しい”と思わせる容姿であり、ふと見蕩れてしまう事が今までに何度もあったのである。
食事を摂った方が良い。フランカがエミリオにそう告げようとした時。
「エミリオ」
マイアが発した声。弱々しいがはっきりと聞き取れる声である。
エミリオは驚きと嬉しさの入り混じった表情を浮かべながら、母親の手を両手で握った。そして、フランカの方を振り返る。
「フランカ、すまない。先生を呼んで来て欲しい」
「うん。うん!」
エミリオの母親が言葉を口にしたのは何日振りだろう。フランカはすぐさま医者を呼びに駆け出していった。
「エミリオ。そこにいるの?」
マイアは瞑っていた目を虚ろに開きながらそう言った。
「母さん、ここにいるよ。聞こえるかい?」
エミリオは母親の手を強く握る。
「ああ。エミリオ。聞こえるわ」
マイアの声から次第に弱々しさが消え、元気であった頃の声の張りが戻って来たようにも感じられた。その声を聞き、エミリオの表情は明るい嬉しさでいっぱいになる。
「母さん、良かった。今、フランカが先生を呼びに行ってくれてるから…」
エミリオの言葉を遮るようにマイアは息子の手を強く握り返した。
「エミリオ。エミリオは幸せ?」
「幸せだよ」とエミリオは優しく微笑んだ。
「ごめんなさいね。母さんの為にエミリオの大切な時間が浪費されているのではないかと。そんな事を考えていたのよ」
エミリオはかぶりを振りながらも驚いていた。あんなに容体が悪く、言葉を口にする事もなかった母親がこんなにもはっきりと話をしている。
「母さんが体を悪くしてからあなたはずっと働き通しだったでしょう。本当ならエミリオにはもっと楽をさせてあげたかった。あなたがやりたい事にもっと専念出来るようにしてあげたかった」
「そうしたかったからそうしてきたんだ。母さんが気にかけるような事じゃないよ」
マイアは力弱く微笑んだ。
「母さんは平和が欲しくて、この国に来たの。母さんが信じる平和をね」
マイアとエミリオがヴェルチアに来たのは十数年前である。エミリオはその時の事を全く覚えていない。物心つく頃にはすでにヴェルチア共和国の国民の一人であった。
「でも、エミリオにとってはどちらが良かったのかわからない」
マイアはゆっくりと顔を動かし、息子の瞳を見つめた。
「母さんは嬉しかったのよ。エミリオが色々な事を話してくれて。何でも話してくれて。何を考えているか。どんな事を感じたか。そういった毎日がとても幸せだった」
マイアの青き瞳から涙が静かに溢れ出していた。それを見たエミリオの瞳からも涙が自然と滲み出てくる。
「エミリオ。あなたが初めて夢の話をしてくれた時の事を覚えているの」
「夢の話?」
「あなたが昔話してくれた夢の話。まだ、その夢を持ち続けているなら。いえ、きっと持ち続けていると母さんは思う。あなたの話してくれる事を色々と聞いていて、ずっとそうだとわかっていたのよ。でも、母さんはもう少し、もう少しだけと。ずっとエミリオと暮らしていける幸せに浸っていたかったのね」
マイアは息子に握られている右手を動かそうとする。それに気付いたエミリオはその手を握っていた両手から力を抜いて離した。マイアの右手の先は部屋の北東の隅の床板を指し示している。
「あの床の下にエミリオに渡したい物があるの。取ってくれる?」
エミリオは頷き、丸椅子から腰を上げて、部屋の隅へと向かった。床板の上に置かれている箪笥を力を入れて横へとずらす。薄汚れた床板を引き剥がそうと試みると、それは意外と簡単に引き剥がす事が出来た。床の下の地面には茶色の油紙で出来た小さな包みが置かれている。その包みを開くと、細長く小さい木箱が出てきた。
エミリオは包みと一緒にその木箱を母親の傍へと持って戻る。
マイアはその木箱を見ると深く目を瞑った。
「エミリオ。その木箱を開けなさい」
エミリオは頷き、木箱の蓋を開ける。木箱の中には首飾りが入っていた。
くすんだ銀の鎖。そこに通された十数個の小さな銀細工。そして、一つだけ大きな蒼く深い色の宝石が嵌められた銀細工。小さな銀細工はそれぞれ凝った意趣が施されている。想像上の生き物か何かを形取ったものらしい。深い蒼色の宝石は見る角度によって異なる色彩と淡い輝きを放っていた。どのような細工をしたものなのか、宝石の中心に浮かび上がる紋様がエミリオには見える。一匹の獣が山の頂きに座し、首を真上に向かって真っ直ぐに伸ばしている姿。力強く遠吠えをしているようにエミリオは感じた。
エミリオがその宝石の紋様に見入っていると、マイアは何かを決意したように瞼を開き、力強くこう言った。
「エミリオ・ラッセグナ。その首飾りは今からあなたのものです。アスレムア連邦へ行きなさい。そして、あなたの信じる平和を手に入れなさい」