第一話「平和の檻の中」(2)
「そのような台詞を言えば、誰でもが命乞いをし、あなたに服従する訳ではありません」
刃の先を向けられても黒髪の女性の表情は揺るがない。自分に向けられた刃など、そこにないかのような態度である。
「ふん。命乞いはせぬだと?」
門閥貴族バリオーニの両目に凶暴な光が宿る。右腕から力を抜き、女性に向けた長刀の切っ先を下へと逸らす。
「この私がお前の命を取る事まではしないと侮っておるのか。なるほど、お前が命乞いをしたのならば、私もわざわざ命までを取らんだろう。が、ここまで侮られてはバリオーニ家の沽券に関わるというもの」
このバリオーニの発言には黒髪の女性も小さく失笑した。
「今までは皆が必死に憤る心を堪えて、あなた方のような人々に大人しく服従してきたでしょう。そのような場面になれば、命乞いもした事でしょう。でも、そういった人々にもまた、あなたが言うような”沽券”があるのです。そうやっていつまでも自分たちの心を誤魔化し、理不尽な行為を見て見ぬ振りをするような事を続けていては、自分たちの本当の心が腐り落ちてしまうのです。わたしは自分の真実の心を腐らせたくありません。今、本当に強くそう思うのです」
彼女の言葉に周囲の人々は熱心に耳を傾けていた。静かに何度も頷く者もいる。
更に黒髪の女性はバリオーニに対して、挑発的な言葉を放つ。
「そもそも、このような騒ぎに発展するような下司な行為をしておきながら、あなたが家の沽券を持ち出してくるとは思いませんでした」
バリオーニの顔全体が紅潮する。
「おのれ!」
一度は下に逸らせた長刀を引き、振りかぶる。その挙動に人々が息を呑む。
バリオーニの長刀が黒髪の女性へと振り下ろされる、その瞬間。
その身を風のように翻して飛び込んで来た男があった。
金属と金属がぶつかる甲高い音が響く。バリオーニが手にしていた長刀が、十歩ほど離れた街燈のすぐ傍へと落ちていた。
バリオーニは呻き声を上げ、自分の右手首を左手で押さえる。
短く切り揃えられた金色の髪の男。彼が二人の間に飛び込んで来ると同時に放った右脚の蹴りが、バリオーニの長刀の腹をしたたかに撥ね飛ばしていたのだ。
その男の風のような身のこなしに人々は驚いている。黒髪の女性もまた目の前の突然の出来事に目を見張っていた。自分の身に刃が振り下ろされた事を驚いているのではない。突如飛び込んで来た男の身の軽さと蹴りの鋭さに驚いているのだ。
「なんだ。俺が助けに入らなくてもなんとか出来たような素振りだな」
男の黒き瞳が黒髪の女性の方を向いていた。その黒き瞳は冷ややかである。
黒髪の女性をかぶりを振る。
「いいえ。助かりました。ありがとう」と彼女は頭を下げた。
「まぁ、良い。俺はあいつを蹴りたかったしね」
バリオーニは右手首を酷く痛めたようである。顔を歪めながら街頭の傍まで歩いて、長刀を左手で拾い、構えた。若い貴族の方も薄ら笑いを浮かべるのを止め、短銃の狙いを新たに現れた金髪の男へと慎重に向ける。そして、声高に言い放つ。
「貴様、シラハトだな。今の治世、シラハトが我々ヴェルナーに危害を加える事など許されぬ事だぞ」
「そんな事は知らないね。大体、民族名で呼ばれてもピンと来ない。俺にはフェルゼ・ドレクというきちんとした名前がある」
黒髪の女性は金髪の男の顔を見やった。このような場で自ら名前を名乗るとは己に対して相当の自信があるのだろうと思う。勿論、偽名である可能性も有るのだが、彼女にはこの男が本当の名を名乗っているのだと感じられたのである。
「貴様の名など関係ない。己の短慮を後悔して死ぬがいい!」
若い貴族がその言葉を言い終える前にフェルゼ・ドレクの身体は動いていた。その素早い動きに若い貴族が必死に短銃の狙いを定める。フェルゼは自分の後方に人々が入らぬよう、通りの壁を背にするように動いた。動きながら若い貴族の一挙一動を見ている。
短銃の引き金を引く指の動きをフェルゼは見た。
フェルゼは短銃からの弾道を咄嗟に頭の中で思い描いた。その射線上から素早く身を翻す。短銃の撃鉄が銃弾の雷管を叩き、火薬が爆発する。爆発の力が弾丸を銃身の外へと発射する。弾丸はほぼフェルゼが予測した通りの線上を通って、クルトゥア通りの石の壁へとぶつかった。
「!?」
フェルゼの風のような身のこなしを見て、若い貴族は驚愕した。彼にはまるでフェルゼが発射された弾丸を見ながら、それを避けたかのように見えたからである。
若い貴族はそれから数秒の後に気を失っていた。右手にフェルゼの手刀を受け、短銃を叩き落されるとほぼ同時に顎に強烈な蹴りを食らわせられたからである。
地面に倒れた若い貴族を見て、バリオーニはいきり立った。
「誰か衛兵を呼べ! 衛兵を!」
そう叫ぶバリオーニを冷ややかに見つめてフェルゼは言う。
「自分から刃を抜いておいて、もう”助けてくれ”と鳴くのか」
バリオーニの言葉を聞き、御者が慌てふためきながら衛兵を呼びに駆け出していった。