第一話「平和の檻の中」(1)
「謝りなさい!」
女性の凛とした声がその通り一帯に響き渡った。
大帝国アレヴェルの帝都フォージリア、クルトゥア通り。この通りの商売人や通行人はその女性の声に振り返る。足を止め、今の声を発した女性は誰かと通りを見渡す。
同じ女性の声がもう一度、クルトゥア通りに響き渡る。
「聞こえているのでしょう? 謝りなさい!」
その声の主を目で探していた人々は、長く美しい黒髪を銀細工の髪留めで束ねている若い女性がそれである事を確認した。その女性は通りの端で苦痛に顔を歪めている中年女性の腰に手を添えている。その女性の両目は厳しく、一点を見つめていた。
「お嬢さん、私に何か仰いましたか?」
そこから十五歩ほど離れた街燈の傍に止められた貴賓用馬車の窓から中年の男が顔を見せ、女性たちの方を見やった。朱色の豪奢な前開きの上着、真っ白な羽飾りのついた漆黒のつば折り帽子、宝石があしらわれた金の首飾り。その身なりと右手の中指に嵌められた紋章入りの指輪からその中年がヴェルナー民族系の門閥貴族である事が見て取れた。
よりによって厄介な相手に声を上げるものだ。と、その場にいた人々は誰もが思った。この騒動に足を止めた人々の内、半数はそそくさとその場を立ち去り始める。
「自分がした事を謝りなさいと言ったのです。この女性に謝りなさい」
若い女性は相手の身分には怯まず、凛然とした態度で門閥貴族に対して謝罪を求めた。
中年の貴族は、その若い女性と中年の女性の顔を一瞥し、小さく鼻で笑う。
「お嬢さん。何故、私がそのシラハトに対して謝らねばならぬのか、お聞かせ願いたいものだ」
その態度は尊大極まりなく、その声音も高圧的である。その態度と中年の女性のことを”シラハト”という民族名で呼んだ事によって、周囲の人々の中にピリピリとした空気が流れ始めた。拳を握り締め、その貴族を睨み付ける者も少なくない。
「立派な地位にありながら、その口の利きようとその態度。恥ずかしくないのですか? あなたの馬車がこの女性を撥ねたのをしっかりと見たのです!」
この若い女性も態度を崩さず、あくまで謝罪を求め続ける。貴賓用馬車の窓からもう一人の男が顔を覗かせた。その男は若い女性の姿を上から下まで観察し、感嘆の声を上げる。
「おぉ。声から想像した通り、気の強そうな良い女ではないか」
もう一人の若い貴族のその言葉に若い女性は目つきをますます厳しくした。
「撥ねたとは大げさな。この馬車が少し触れたのかもしれんが、そのように派手に身体を飛ばせるほどではなかろう? 大方、治療費でも集ろうとして一芝居打っているのではないか? そなたもヴェルナー人であろうに。良い格好をしようとして、シラハトの肩を持つのは止めた方が身の為だぞ」
「ふざけないで! あなた方のそのような振る舞いがヴェルナー人全体の名誉を貶めている事に気が付かないのですか?」
その怒りの声も二人の貴族の心には届かない。若い貴族の方が御者台に座る男に何やら耳打ちをする。耳打ちされた御者はおどおどした態度で、若い女性と中年の女性のそれぞれに頭を下げて謝罪の言葉を口にし始めた。
「私の不手際で御座います。このような人通りの多い通りでうっかり手綱を滑らせてしまいました。本当に申し訳御座いません…!」
御者は御者台から地面に降りて、膝をつこうとするが、若い女性はそれを手を上げて制した。若い女性の手は強く握り締められ、怒りに震えている。
「わたしはあなた方がこう言ったのを聞いているのです。”構わぬ。通りを歩く平民など撥ね飛ばしていけ”と」
この言葉を聞いて、中年の貴族は不機嫌そうに大きく鼻息を吐いた。
「下賎の身でよくもずけずけと! 調子に乗りおって!」
馬車の扉が勢い良く蹴り開けられ、中年の貴族が肩を怒りに震わせながら降りてきた。その後から若い貴族の方も顔をにやにやさせながら降りてくる。
中年貴族は若い女性を鋭く睨め付け、怒声を発した。
「たかがシラハトの中年女を跳ね飛ばして何が悪いか。シラハトは戦いをする以外は能がない低能な者共だ。戦の起こらぬ今の世では我々よりも遥かに劣る種族なのだ!」
「シラハトの癖に馬車ぐらい避けられないのも情けないというものだ」と若い貴族が笑う。
彼らが発するそれらの暴言に対して、そこに集まった人々から怒りの声が上がる。アレヴェル帝国を構成する二つの民族であるヴェルナーとシラハト、民族の違いは関係なく、その場の人々の怒りは二人の貴族に対して向けられていた。
中年の貴族は周囲の人々を睨み付けながら、腰に差している長刀を右手で抜く。この動作に人々は多少怯んだものの、彼らの怒りの声が止む事はなかった。
若い貴族の方は懐から短銃を取り出す。薄ら笑いを浮かべながら、彼らを取り囲む人々の頭部に狙いをつける。引き金を引く真似をしながら、次々と違う人物へと狙いを移していく。
中年の門閥貴族は刃の切っ先をいまだに目つきの鋭さを変えようとしない若い女性へと向けた。
「このジャンカルロ・バリオーニに楯突いたからには、その命捨てる覚悟あるのだろうな?」