第一話「平和の檻の中」(8)
ヴェルチア共和国の首都ヴァリアンテ。
大陸の南東に位置するこのヴァリアンテは、現在のフェールネキアで最も活気溢れる都市である。貿易の為に大陸各国から貨物船や荷馬車、空からは輸送用の浮空艇がここへ訪れ、またここから発って行く。そこを行き来する人々も多種多様。貿易商人、旅人、漁師、炭坑夫、貴族、政治家、軍人、農夫、学生、機械屋、町医者、掃除屋、建築屋。国民の大多数は東ヴェルナー人ではあるが、南ヴェルナー人や西ヴェルナー人、シラハト人やダーマ人、ヴィサリィ人など全ての民族が入り混じって生活を営んでいる。
「ジャグ・ベルヴァーロ…? 奇妙な名前だねぇ」
キアヴェー機械工場の宿舎の管理人はボサボサの頭髪を右手で掻きながら、受付窓口の向こう側に立つ青年の姿を見直した。背は高くも低くもない。鋭く、力がある目をしている。自分の手で適当に切り揃えたかのような黒髪。日に焼けた褐色の肌。体格も顔付きもどこか野性味溢れる獣の雰囲気を醸し出していた。管理人は今度は左手で頭皮を掻き、右手でペンを握って、この青年の名前を入居者管理帳に書き記していく。
「ベルヴァーロの頭文字はBだね?」と管理人が訊くと、
「いや。Vだよ。ヴェルバーロだ」とジャグは答える。
管理人は一瞬片方の眉を釣り上げて奇妙な表情をして見せたが、短く息を吐いてから”まぁ、良いだろう”と笑顔を作って、ジャグにこの宿舎の規則や食事の時間などを説明し、部屋の鍵を手渡した。
「君の部屋は305号室だ。くれぐれも面倒だけは起こすなよ」
「了解、了解。おっちゃん、ありがとうよ」
ジャグはそう言って軽く手を振りながら宿舎の階段を上っていった。宿舎は木造の三階建てである。こげ茶色の古びた外観の建物。外観だけではなく、中身も十分に古びており、階段を一段上る度に木板は軋んで鳴った。ジャグは階段が軋む音を楽しげに聞きながら、軽やかに階段を一段飛びに駆け上がっていく。三階まで一気に階段を上りきり、”305”の札の下げられた部屋を探す。すぐに”305”の札が下げられた扉を見つけ、その扉が大きく開け放たれた部屋の中へと足を進める。部屋の中には二段ベッドが二つ置かれており、その片方のベッドの上に一人の男が座っていた。男は部屋に入って来たジャグを鋭く睨み付け、どすの利いた声を投げる。
「おう。兄ちゃん、なんだい。新入りかなんかかい?」
ジャグよりも若干小柄なその男には左眼が無かった。左眼があるべき所には大きな傷痕がある。その傷痕は額から頬まで伸びており、刀傷のように見えた。その男はつるつるの頭に石鹸水を薄く塗り、大きなナイフで頭皮を撫でている。
「俺はジャグ・ヴェルバーロ。今日からここで寝起きする事になったんだ。宜しく」
スキンヘッドの男は静かに口を開き、歯を見せて、笑いの表情を作った。
「新入りの癖に言葉使いがなっちゃいねぇな。お里が知れるってもんだぜ、小僧」
その言葉を聞いたジャグは一瞬考えてから、特に悪びれた様子も見せずに軽く頭を下げる。そして、最初と変わらぬ口調でこう言った。
「すまない。実際、あまり育ちは良くないんだ。宜しくお願いする」
それを聞いた男は短く嘆息を漏らす。自らの頭皮を撫でていたナイフを目の前へと動かし、その刃に指を走らせ、石鹸水とそこに混じった細かい粒のような頭髪を拾い、剃り具合を確かめる。
「まぁ、良い。俺はバルツァノ・セルヴァティコだ。俺と同じ部屋で寝起きするんだったら御行儀良くするんだぞ」
「わかった」とジャグは快諾した。
「お前はいつから工場で働いてるんだ?」
「今日からだよ。本当は空軍の兵士になる為にヴァリアンテまで来たんだが、志願しても軍の方から”今は新たな兵士を必要としていない”と言われてしまってね」
バルツァノはベッドの上から少し身を乗り出した。ジャグという青年に少々興味を持ったのである。
「そりゃそうだ。この平和な世の中じゃ、兵隊は無用の長物だからな。戦争でもなけりゃあ大した人員は必要としねぇんだろうよ。お前、なんで兵隊になりたいんだ?」
「別に兵隊になりたい訳じゃない。今のところ、空軍でしか滑空機を扱っていないからだ。俺は滑空機で空を飛ぶ感覚を味わいたいんだ」
「そいつぁなんだ。そんなふざけた理由で志願したってのか!」
バルツァノは思わず大きな声を出したが、ジャグは平然としていた。
「別にふざけてなんかいないさ。軍からは新たな兵士が必要となったら呼出状を送ると言われてね。仕方がないからそれまではキアヴェーで働く事にしたって訳さ。キアヴェーなら滑空機のパーツなんかも扱っているだろう。少しでも滑空機に関係するものに触れていた方がいざという時に役立つかもしれないからな」
バルツァノは大きく鼻息を漏らし、眉間に皺を寄せる。
「世の中、平和過ぎるからそんなふざけた考えが浮かんでくるんだ。平和、平和。面白くもねぇ。俺も元はヴェルチア陸軍の曹長なんだぜ」
この発言を聞き、今度はジャグがこのバルツァノという男に興味を持つ番となった。
「陸軍の曹長? それがなんで今は機械工場で働いているんだ?」
バルツァノ・セルヴァティコはにやりと笑って見せる。
「それはこの俺がある問題を起こしちまったからだ。軍から”お前のような荒くれ者は扱い切れん”と言われてな。要するに首を切られたのよ」
ジャグはバルツァノの顔を眺める。顔面の左側の大きな刀傷、よく見れば腕や肩などにも大小様々な傷痕が見て取れる。「なるほどな」とジャグはゆっくり頷いた。
「ジャグ・ヴェルバーロ。空を飛ぶ感覚とまではいかないが、この宿舎の屋根からの眺めもなかなかのもんだぞ。そこの窓から登って行ってみると良い。俺は風呂に行って来る」
バルツァノはベッドから立ち上がり、ナイフで剃り終わった頭皮を左手で撫でながら、箪笥の抽斗からタオルを右手で引っ張り出す。引っ張り出したタオルを右肩に引っ掛け、バルツァノは305号室から歩み出ていった。
ジャグはバルツァノが指し示した窓へと歩み寄る。両開きの大きな窓を開き、身を乗り出してみると窓のすぐ横に広々とした屋根の斜面があった。屋根もこげ茶色でその傾斜は緩やかである。ジャグは自分の体を窓から潜り抜けさせ、宿舎の屋根の上へと登り出た。
「これは確かに良い眺めだ」と呟く。
遠く東側に大きな白亜の建物が見える。高く聳える三つの尖塔とその頂点に翻るヴェルチアの国旗からあの建物がヴェルチア共和国大学寮だと知る。ジャグの脳裏にポルポリノの街で出会った二人の顔が思い浮かんだ。その名前も頭に浮かんで来る。エミリオとフランカ・アマーティ。そして、彼らの声と言葉もジャグの頭の中に蘇って来ていた。
ジャグは頭上の空を見上げ、天辺を目指して更に屋根を登っていく。太陽の光は広々とした屋根全体を熱く熱している。ジャグは両手を大きく広げ、自分もその太陽の暖かさをより多く受け止めようとした。宿舎の屋根の頂点まで辿り着き、彼はそのまま屋根の上で大の字になって青い空と白い雲を眺める。
視界の全てが空に包まれ、体全体に暖かい日の光が降り注ぐ。青々とした美しい空。そこに浮かぶ様々な形の雲。日の光を受け、純白に輝く雲もあれば、陰となり暗くなる雲もある。太陽の光がとても眩しく、心地良かった。見るもの全てが空。こうしているとこの世の全てが”空”である感覚に陥る。全ての空は繋がっているんだとジャグは思う。ずっとそれを眺めていると上下の感覚が失われ、左右の感覚が失われ、”空の向こう”に吸いこまれて行きそうになる。空の上には何があるのか。空の向こうには何があるのか。どこまで空は続いているのか。ジャグ・ヴェルバーロは空を飛びたいと強く想う。
戦争が再び起これば、自分も滑空機に乗る事も出来、空を飛ぶ事が出来るだろうか。
「平和とは退屈なものだ」とジャグは言ってみた。
そうすると、その言葉は平和だからこそ出てくる言葉なのだと感じる。同時にエミリオという青年の”こんな事をしているのだから、今は平和だ”という言葉を思い出していた。




