美しい蛾には刺がある
私はユマ族という、弱き虫族の女として生まれた。
ユマ族の虫に堅い甲殻はなく、身を守る棘も、毒も持っていない。
力も貧弱で、成体になれば空を飛ぶ羽を得るものの、白い身体は夜空の中で目立つ上、唯一あるその飛行能力も絶望的なまでに低かった。
故に、ユマ族は人として生きる他に術がない。
襲い来る魔獣から、何より人間達から身を守るためには、彼らの社会に認められる必要があったのだ。
人の神を信仰し、人の身と知を得て、人として生きる。
幸い、我々ユマ族が人になると、他の虫族にはない柔らかな身体と、白く暖かな体毛を得られるらしい。
あらゆる能力がなくとも、ユマ族の女はその外見を高値で買われることも多いという。
要は男の慰み者だが、弱き者の生き長らえる術としては悪くない。
だが、人になることを拒み、虫族として短き一生を望む者も多いらしい。
羽ある者としての誇りだろうか。それとも、目先の力に目を眩ませた卑神信者の戯言であろうか。
どの道、私はそのような生き方は御免だ。
盲目的になるつもりはないが、人の生こそが最も正道であることは、多くの神々の存在が証明している。
獣に喰われるだけの命に、一体どれほどの価値があるというのか。
そのような生き方をするならば、一生を人間の男に媚びた方がマシというものである。
……だが、できるならば。
私は強く生きていたい。
男に媚びを売らず、弱き身であることを理由に逃げ出さず。
一人の人間として、強者として生きてみたい。
たったひとつの私の人生。果たしてどこまで、この手が届くのだろうか……それを、確かめてみたいのだ。
そのような想いを抱き、私は刀装神ガシュカダルを信仰した。
甲殻無く、力なく、柔らかな白き肌の女であれど、硬き剣が道を拓くことを信じて。
ユナ。それが、人として生きることとなった、私の名前である。
私は人の証を得る代償として、二本の肢と背の翼をガシュカダルに捧げた。
人として生きるために、腕と脚は二本で充分。空を飛ばぬのであれば、大きな羽も邪魔なだけである。
私は親から授かった邪魔なそれらを朽ちた庵の粗末な石壇へと捧げ、代わりに人としての生とガシュカダルの剣を授かった。
人の身となり、明瞭になった思考。
力を得た体。僅かに伸びた寿命。
大いなる自身の変容に、私はその時確信した。
人の道を信じた私は、間違っていなかったのだと。
それから私は、ただひたすらに剣の道を生きた。
剣を磨き、技を磨く。
魔を斬り、悪を斬る。
ガシュカダルのお告げを感じ取っては、遠方の地に赴いて悪を斬り。
ガシュカダルの啓示を耳にしては、悪しき武器商人を討伐し。
ただ人の正義のために。剣のために。
私は斬って、殺して、闘い続け……そして気がつけば、ガシュカダルから大きな信頼を得るまでに至っていた。
ガシュカダルの手先。ガシュカダルの意志を執行する者。
私は刀装神の使徒となり、剣の聖者となったのだ。
聖者となった私の後ろには、いつの間にか崇拝者達の群れが出来上がっていた。
私はただ寡黙に剣を振るっていただけだというのに、剣の道を志す者の多くが私に憧れ、私の生を目標としていたのだ。
不思議なものである。私はただ、己の生の限界を求めていただけだというのに。
気がつけば神より更なる力を与えられ、常人以上の長き命まで得てしまった。
だが、それもまた悪くない。さすがに半神にまでなれるとも思わないが、神の使徒として、聖者として、その限界を求める生もまた、面白い。
より長く生き、より人らしく在れるのであれば、私はそれに勝る喜びは無いと考える。
だがガシュカダルは、そんな私に奇妙な言葉を投げかけた。
『貴様は聖者となったのだから、他の神々の恩恵を得て、より自らの力を高めるべきだ。剣のみに尽くす貴様の忠誠そのものを否定はしないが、人の生はそれだけに留まるべきではない』
……と。
それまで私は剣にしか興味を持たず、他の道に逸れる事など一切無かった。
女として子を産もうなどと考えたことはないし、今更不慣れな魔法や拳にも惹かれるものはない。
人の生は剣だけに留まるべきではないとは言うが、剣を極めたとは思えない。剣の道は果てしなく超大で、聖者となってもまだ先が見えぬほど続いている。
私の生き方の、一体どこが間違っていたのであろうか。ガシュカダルが発せられた言葉の意味を理解できないことなど、ここ何十年となかったことである。
しかし、神の言葉だ。他の神を信仰せよと言うのであれば、従う他にない。
あまり気は進まなかったが、私はとりあえず膨大な数の神々の中から鋭き刃に恩恵があるという刃神ピナハを信仰し、再び剣の道を歩むことにした。
虫族の女のが人の道にてどこまで通用するのか。
その探求と闘いの日々に、早速舞い戻っていったのである。
悪を斬り、魔獣を斬り、闇の眷属を斬り。
人として百年以上も生き、剣聖として更なる力を得た私には、敵らしい敵がいなかった。
時折闇の信徒共がザイニオルだかタバカニオルだかの命を受けて、私の寝泊まりする宿を襲うこともあったのだが、寝込みを襲うのはどれも弱い者ばかり。
刀装神剣ユナカダルと光突神剣ストライカルの二刀を手にした私ならば、数秒の間に十数名の刺客を討つことも容易であった。
闇に連なる連中から命を狙われることも多くなった私だが、逆に斬るべき者共が向こうからやってくるのは手間が省けてありがたい限りである。
残り何十年ともわからぬ余生をより濃密に闘い抜けるならば、そのような奇襲も逆に心躍るものであった。
私の武勇と名声は日に日に高まり、剣聖としての格は果てを知らぬほどに高まり続けた……。
だがそれも、ある夜の日に終わりを告げる。
不覚、といえば不覚であった。
襲われるといえば夜の路上であったり、光の無い夜闇であったりと、その数ヶ月間はほとんどの奇襲が陳腐なものであったのだから。
それに夜とはいえ、大都市の路上にて闇の信徒共に襲われようとは。辺りの街灯の尽くを破壊し、家々の扉を封じるなど。
さすがの私でも、そこまで不意打ちの想像を広げることなどできなかったのである。
意表を突いて齎された闇によって胸部に一撃をもらってしまうと、それには暗神ザイニオルの毒が込められていたのか、途端に動きが悪くなる。
寸でのところで双剣を引き抜いて、近場に居た三人を仕留めたはいいが、連中は二十人近い大勢によって私を確実に殺さんとしていた。
無数に襲いかかる毒矢。毒剣。毒魔法。
あらゆる遠距離攻撃を切り裂き払い落とすスキル『剣の聖域』によってほとんどの攻撃を打ち消すことはできたが、四方から襲いかかる闇の剣士共はどれも手練で、私の力を持ってしても一筋縄ではいかない相手ばかりだった。
それでもどうにかその内の二人を『幽雅刀』で魂だけを切り裂いて仕留め、遠間の魔法使い共に『葉斬撥』の剣閃を放って殺し、数を減らす。
そのまま何度も駆けて場所を変え、何度も剣を振るっては仕留め、振るっては斬り……やがて、全ての射手と魔法使いを血溜まりに沈めると……。
私は地に片膝をつき、自らの限界を悟った。
奇襲は見事。
伏兵も合わせれば合計で32名。
魔法使い15名に、弓使い10名。そして剣士が7名といった布陣。
闇で私の視界とスキルの有効範囲を狭める戦法は実に有効であった。
遠距離の狙撃者の位置が解っても、剣閃をそこまで届かせることができない。
捨て駒の剣士ありきの戦法ではあったが、私を消耗させる上ではこれ以上とない方法だったと認めるしか無いだろう。
現に、私は最後に残った3人の闇の信徒共に囲まれ、今次の瞬間にも殺されそうになっている。
闇を祓う輝きを放つ光突神剣ストライカルは、闘いの最中に遠くへ弾き飛ばされた。
私の右手には人として生まれてから常に寄り添ってきた長刺突剣ユナカダルがあるが、もはやこれにスキルを上乗せするだけの霊力も残ってはいない。
体中が傷だらけで、もはや無事な部分などどこにもない。
腰や肩を覆うユマ族の名残の白い体毛も、私の血によってどす黒く染まっている。
周りには、囲むようにして私を見下し、下卑た笑みを浮かべる闇の信徒共。
「手こずったな」
「だがもう俺達の『闇夜の鎧』の範囲内に完全に閉じ込めた。これ以上のスキルは発動不可能」
「あとの仕上げは……ククク、最後にしっかり殺しさえすれば、こいつの身体は俺達の自由というわけだ」
おそらく私は、ここで死ぬのだろう。
130年近く人として闘い続けてきた私だったが、その人生もここで終わりを告げてしまうのだ。
戦いに敗れ、そして死ぬ。剣を手にした時から覚悟していた事だ。今更死ぬのは怖くない。
……だが、どうにもこの男共の様子からして……私の最期は、ただ死ぬだけでは終わらないらしい。
「ユマ族の女……なるほど、顔は確かに虫だが……これはなかなか……」
「おっと、その剣で自刃されちゃあ困る。これだけ散々手間をかけさせたんだ。ただ楽に殺すだけじゃあ終わらないぜ」
やはり、か。
全く、ユマ族の女として生まれた結果がこれか。
最初から生まれが恵まれていないとは思ってはいたが、まさか剣聖になってもまだ、この種族が私の重石になろうとはな。
これでも私は、人として全力で生きてきたつもりだが……まぁ、最後になって言っても、仕方はあるまい。
剣を握り、あらゆるものを斬り、殺して生き抜いてきたのだ。
連中は私にとっての外道ではあるが、連中にとっての外道である私は、それ相応の報いを受けるべきなのだろう。
私がやったのだから、連中もやり返す。
そう思えば、この終わり方も納得できなくはなかった。
「さあ、鎧を剥いじまえ。そっち脚押さえろ」
「うおっ、柔らけえ……」
そう……これが私の最期だ。
人として生き、人として死ぬ、虫ケラではない、尊厳ある人としての……。
だが……ああ。できるならば。
……人の生を強請った上で、おこがましいようでは……あるが。
……もうちょっとだけ、人らしく……生きたかったな。
『大丈夫、貴女は人間さんよ。私が守ってあげるわ』
何もかも諦め、絶望だけが渦巻く死の淵で、私は確かに声を聞いた。
無垢な少女の慈愛に満ちた声。刀装神でも刃神でも、技神でさえない。初めて聞くような、優しい。
それが私の頭の中に直接響き……目を開ければ、暗闇の路地は眩しい輝きに満ちていた。
「ぐあっ!?」
「なにが……!? どうなって……!」
私の頭が思い浮かべるべき疑問は、周りの男達の呻きが代弁している。
そのため私は、突然の輝きに目を焼かれた彼らよりも一瞬だけ早く、自らの手の中で光り輝く愛剣の姿を認識できた。
『ほら、良い感じ』
怯む敵。祓われた闇。私の中で僅かに蘇る霊力。
そして、輝く剣。
「あああああッ!」
私は渾身の力を込めて剣を振るい、闇の信徒共を薙ぎ払った。
正真正銘、全力全開。私の持てる全ての力を込めた、最後の一撃。
それと共に上げた咆哮は、百年以上生きても尚、人の生に縋り付こうとする、醜い私の呻き声のようだった。
私は生き残った。
奇襲を仕掛けた闇の信徒を全て討ち、怪我は無数に負ったが……それでもまだ、五体と純潔を保って、生き残った。
『うふふ』
いや、救われたのだ。
私が信仰していたわけでもない、優しき神によって。
虫族で、無数の生者を斬り殺して、そのためだけに生きて……そんな私を、人として見て、手を差し伸べてくれた神がいたのだ。
「ああ……」
思わず、天を仰ぎ、祈らずにはいられなかった。
もうあの女神の声は聞こえず、既に気配は無くなってしまったが。
私はその時確かに、心の底から神のために生きようと思えたのである。
『どういたしまして♪』




