紙は天からの回り物
「うおおおおっ!?」
俺は運が悪い……けど、さすがにイノシシと遭遇したことはない!
犬に噛まれそうになった事は数え切れないが、それはまだ辛うじて渡り合える大きさだからなんとかなっていたわけで、自分よりもデカそうなイノシシを相手に戦うなんて、考えたことすらなかった。
ていうか俺の知ってるイノシシに角は生えていない。あれってそもそもイノシシなのかも疑わしい。
「おほーっ、豚さんこっち来てるー」
「来てるのかぁああ! そっかぁああ!」
後ろを振り向く余裕はない。
少女を担いだままでは、どうにか全力疾走するのが精一杯だった。
だが、どれだけ頑張っても時速30km前後が限界の人の脚力では、野生の素早さに叶うはずもない。
一歩一歩、地面をえぐるような凶暴な足音は、俺のすぐそこまで迫り、追いつこうとしていた。
殺される。食い殺される。
ああ、今までしぶとく運のない人生を生き抜いてきたつもりだったが、それもここで終わってしまうのか。
俺って奴はとことん、最後まで残念な男だったなあ。
せめてこの子だけでも、なんてカッコつけた死に方もしてみたいものだが、言葉の通じない圧倒的パワーの野獣を前にしては、そんな望みも神頼みだろう。
息も絶え絶え。もはや背後から死の突進を受ける運命は揺るぎない。
俺が希望を失い、全てを諦めかけたその時――。
――不幸は起こった。
「おあっ!?」
根っこに躓いた。超全力で躓いた。
「うひゃ……」
担いでいたペトルちゃんは宙に放り出され、俺の身体は勢い良く前方へと倒れ込む。
その勢いたるや、全力疾走のエネルギーをそのまま全て転倒のために使い果たしたかのような、人を殺すほどのものである。
背後からイノシシ。目の前に地面。
最後くらい奇跡が起こっても良いだろうに、神は俺に追い打ちをかけやがった。
「いでっ!?」
「ブオッ!?」
直後、額を含む上半身が地面とごっつんこ。
盛大にコケた右足に強い衝撃。
俺は何の勢いか、そのままロケットのように地面を転がり、茂みの中に放り出されて、ようやく停止した。
「いててて……超いてえ……」
額や、無理やり受け身を取った両腕がものすごく痛いけれども、どうにか生きている。腕も脚も折れてはいなさそうだ。
茂みから這い出て、額や服についた土を払いながら起き上がる。
「……え、マジか」
そして先程まで執拗に追いかけてきたイノシシの方に眼を向けると、そこには驚きの光景が広がっていた。
なんと、イノシシが顔面にくっきりとスニーカーの靴跡を残した状態で、完全にのびていたのである。
俺があまりにも勢い良く倒れたものだから、その時に伸ばしていた足が偶然、イノシシの顔に命中したのだろう。
そして俺は足にこいつの直撃を食らって、ぼーんと吹っとばされたというわけだ。
……俺にあるまじき、なんとも複雑怪奇な奇跡である。
「そうだ、あの子は……!」
イノシシの額から伸びる長い角と自分の足の長さを見比べている暇などない。
俺は、転んだ直後に彼女をどこかへ放り出してしまったのだ。
あの子は大丈夫か。どこだ。怪我はしてないだろうか。
「ひ、ひいい……」
「……おろ?」
必死に辺りの茂みを見回していると、俺の真上から情けない声が聞こえてきた。
「お、おろしてー……」
「……お前もなかなか、運がないなぁ」
彼女はどういうわけか、太い木の枝の上に干された布団のような格好でひっかかっていた。
なんというか、漫画みたいな女の子である。
ペトルを木から下ろしてやると、彼女はほっとしたような顔で“ありがとう”とお礼を言ってくれた。
それまでイノシシに追いかけられたことよりも、木の上にぶら下がっていたことのほうが大変だったかのような、あっさりした態度である。
俺はそんな気楽さに拍子抜けしたものの、おかげでこっちも少し冷静になれた。
……どうにかイノシシは気絶したようだが、このままではまずい。
こいつをどうにかしない限りは、いつ公道に出られるかもわからない森の中をうろつくのは、非常に危険だろう。
獣は匂いに敏感だ。イノシシは特に嗅覚が強いはずである。鼻がでかいのだ。間違いない。
俺達の匂いを追って、目覚めた後に再び襲い掛かってくるはずだ。
「ヤツシロ、それどうするの?」
「……これで、殴るんだよ」
俺は辺りから、両手でなければ持ちあげられない程度の大きな石を持ってきて、イノシシの前にやってきた。
イノシシとそっくりではあるものの、こいつはまるで空想上の生き物であるユニコーンのような、長い角が生えている。
新種か珍種か。俺にはそこんところはよくわからないのだが、ともかく、イノシシに近い何かであり、言葉の通じない野獣であることは間違いない。
要するに、こいつが目覚めてまた殺されそうになる前に、俺はどうにかしなければならないのだ。
「……ペトル、あっちを向いてなさい」
「殴るって……それで殴ると、痛そう」
「……痛いだろうな。死ぬまで殴るつもりだから」
「えっ……」
結構でかいイノシシだ。イノシシの骨格がどうなっているかは俺も知らないが、ちょっと頑丈なようなら、仕留めるまでに何度か殴らなければならないかも……。
「そんな、豚さん可愛いのに……」
「ああ、もう……そんな眼で見ないでくれ。俺だって本当はやりたくないんだよ、こういう事は」
ペトルは悲しむような上目遣いで俺を見て、心にびしびしとダメージを与えてくる。
しかし、殺したくて殺すわけじゃない。こっちが万が一にも殺されないためには、こうする他に方法がないのだ。
ただでさえ意味の分からない角が生えたイノシシなんだ。そのままにして逃げるにはリスクが高すぎる。
「お願いヤツシロ、やめてあげて?」
「……」
「この子悪いことしたわけじゃないよ?」
「……」
大きな石を振り上げたまま、俺はペトルの言葉に歯噛みする。
「ねえ、ヤツシロ……」
ああ、もう。
ろくに不幸を知らない子供ってのは、なんていうか……ほんと、お気楽なもんだな。
俺は大きな石を、力の限りに振り下ろした。
「……行くぞ、ペトル」
石は勢い良く地面を転がり、土の上に歪な痕をつけて、ぴたりと止まる。
ただ投げただけだ。血の跡などは、ひとつもついていない。
「……うん! 行こう!」
野生動物は無事。無垢な少女は笑顔。
まったく、素晴らしくハッピーな筋書きだ。
「ペトル、お前の言うことは聞いてやったんだ。ここからは、結構急いで行くからな」
イノシシの恩返しならともかく、リベンジマッチなんて絶対に勘弁だからな。
「うん! いこいこ!」
俺の気苦労なんて、こいつは何一つわかっちゃいないんだろう。
脳天気に晴れ晴れとした笑顔で、ペトルは俺の横について歩くのだった。
「やれやれ……ん? 何か落ちて……なんだこれ?」
「おほ?」
いざ、再出発。そんな時、俺はペトルが歩く土のすぐ傍に、一枚の小さな紙切れを発見した。
時間がないとはわかってはいたのだが、俺は何となくそれが気になって、拾い上げたのだ。
「……“大雷撃”……?」
それは、一枚のカードだった。
裏面には紋様、表面には名前と、イラストと、その下には小さなテキストが書いてある。
■「大雷撃」スキルカード
・レアリティ☆☆☆
・天気を選ばず神の鉄槌。カードの絵柄を向けた先に巨大な雷を落とす。
「ヤツシロ、それなに?」
「トレーディングカードってやつかな。ペトルのじゃないなら、どうしてこんな場所に……いや、それよりも先だ。先急ぐぞ」
「はーい」
俺は特に何も考えずにカードをポケットにねじ込んで、ペトルと共にその場を後にした。
イノシシを放置するなら、さっさと森から出なけりゃな。
「ヤツシロ、さっきの抱っこ、もう一回やって?」
「嫌だよ。あれすんげー重いんだからな。歩けるうちは、自分で歩け」
「そんなー」
それにしてもこの子、人懐こいなぁ。