路傍の石にも神は宿る
蜂の群れは、ゆっくりと歩くような速さで追いかけてくる。
追いつかれることはないだろう。しかし、連中は数で襲い掛かっている。横並びに展開する蜂の壁は上方にまで展開し、俺の逃走経路を一方向に限定していた。
「思ってた以上に、抜け出せないな……」
さながら、蜂による追い込み漁だ。
平坦とはいえ、決して踏みしめ易くはない柔らかな畑の足場も、悪影響となっている。
「うわっ」
そして俺、まさかの転倒。
何かの蔓につま先を引っ掛け、土の上に勢い良くダイブした。
「うげっ、ペッペッ……こんな時に!」
すぐさま起き上がり、土を払って体勢を整える。
まさか、ああいう場面で転ぶとは。我ながらツイいてないものだ。
距離は縮まった。これ以上逃げても、どうも同じようなトラブルに見まわれ、なし崩し的なピンチに見舞われそうな気がする。
フォークの熱も有限だ。やれる時にやるしかない。
「はあっ!」
再びフォークを構え、素早く突き出す。狙いは腹。甲殻の薄いやわらかな部分を刺すことで、確実なダメージを狙うのだ。
やはりまだ熱は有効らしく、内部から火傷を負ったシャンメロは力なく高度を下げ、土の上に崩れていった。
「おっと」
ヒットアンドアウェイは基本。
距離が縮まったからと強襲に来るシャンメロの突進を避け、再び距離を離す。
「思ってたよりも……危ないな……」
これで二匹目。同じことを続けていれば、いつかは終わりも見えてくるだろう。
しかし、もう限界は近い。これほどの群れで迫られると、一匹突き殺したところで他の奴らがその隙にやってくる。
残る二十体以上をそうやって処理できるかといえば、無理だ。不幸はきっと、三匹目当たりで俺を殺すに違いない。
……けど、二匹じゃ駄目だ。
もっと倒さないと、手伝った内には入らない。
このフォークで突き刺したシャンメロには、独特の傷跡が残るのだ。これで仕留めれば仕留めただけ、俺はこの村で評価される。
汚い話、見返りを得るためには武功を立てる必要があるのだ。
でないと、そもそもこの世界に何のコネも力も持っていない俺が生き残る術は、無い。
不幸だからこそ、俺は自分の力で未来を切り開く必要がある。
不運を捻じ曲げ、逆境を乗り越え……今まで俺はずっとそうしてきたのだ。
やってやる。今日の俺は、ちょっとだけ調子が良かっただろう。
数匹くらい、わけないさ。
「ふっ」
一旦距離を離してから、再び脚に力を込め、長い竿の端を握り込む。
一撃離脱。もう一発だ。
フォークを突き出そうとした、その時。
至近距離まで近づいてきたシャンメロの翅の風圧によって舞い上がった土埃の粒が、俺の両目に入った。
「うっ!?」
見えない!
いてえ! いや、それどころじゃない! この状況は不味い!
すぐに後ろ側へ走って、視界を回復させて、逃げないと……!
俺は本能的な危機感から唯一の得物であるフォークを投げ捨て、咄嗟に踵を翻した。
「あっ」
そして、またしても足を取られた。
柔らかな土が滑り、俺は転倒したのである。
転ぶ。そんな不幸の現れ方も、珍しくはない。
けどまさかよりによって、こんな場面で何度も現れるなんて……!
動けず、迫る怪虫。
俺はその時、人生で何度目かも分からない死を予感した。
「スキルカード、『守護霊のカーテン』発動! 神秘のオーロラよ、ヤツシロさんを護れ!」
蜂の羽音が差し迫る中、暖かな風が辺りを旋回し、俺を包み込んだ。
その瞬間、こちらへ襲いかかろうとしていたシャンメロ達の気配が遠ざかり、不思議なことに強烈な風までも吹き止んでしまった。
「……な、何が……?」
埃の入った目をどうにか開き、状況を確認する。
「うお……」
するとそこには、神秘的としか言えないような光景が広がっていた。
俺の周りに、薄く虹色に輝く幕のような、半透明の光のカーテンが広がっている。
それはまるでオーロラのように幻想的で、美しい。
シャンメロ達は神秘のベールに阻まれ、こちらに近づくことができないでいるようだ。
「ヤツシロさん! はやくこちらへ!」
「えっ……あっ、クローネ!? どうしてここに!?」
「どうせこんな事になるだろうと思って来たんですよ! そしたら、案の定じゃないですか! 馬鹿!」
後ろを振り向けば、いつの間にかクローネがそこに立っていた。
左腕にはアルバムのような大きな本を抱き、右手にはカードのような何かを持っている。
「早く立って! その『守護霊のカーテン』は、時間と耐久に制限があるのです!」
「お、おう!? なんだ、それは!?」
「これはスキルカードです! 誰にでも扱える代わりに、使い捨てのスキルのようなもので……さあ早く!」
言われるまま、俺は素早く立ち上がり、クローネと一緒に後退を始めた。
周囲に揺らめく虹色のオーロラは、俺の動きの一緒に追従してくれるものらしい。
ともかく、助かった。このオーロラが無ければ俺は死んでいただろう。
「ありがとう! クローネ!」
「お礼よりも謝ってほしいですね……!」
……マジでごめんなさい。
あの村人たちには偉そうなこと言っておきながら、全然駄目だったな、俺。
クローネのカードだかなんだか、不思議な力に助けられ、ともかく俺は一命を取り留めた。
靴の中も服の中も土まみれ。フォークはどこかへ置き去ってしまった。
こうなっては、もう駄目だ。戦いなんて、続けられるはずもない。
このまま村まで、蜂に追いつかれないように敗走するしかないだろう。
「シロー!」
俺が女の子に助けられたという情けなさに自らを嘲笑っていると、目の前のあぜ道から一人の小さな少女が走り寄ってきた。
大きく手を振って、ぱたぱたと足音を鳴らして……って。
「おい、ペトルまで来たのか!?」
「ちょっと、どうして付いてきたんですか!? 私は待っていてと……!」
こんな危険な時だというのに、ペトルはクローネの言うことを聞かず、一緒に来てしまったらしい。
「おいペトル! お前は残ってろって言っただろ!? どうして俺みたいな馬鹿な真似をしたんだ!」
「貴方がそれを言いますか……って、そうじゃない! ペトルさん! 早く引き返してください! 後ろからは、シャンメロの群れがこちらに迫っているんですよ!」
俺とクローネは走りながら呼びかけるが、ペトルは逆に飼い犬のように、逆に喜びながら走り寄って来る。
こちらの言葉や危機感など、どこ吹く風といった感じだ。
「シロー!」
「してる場合か!」
こんな時に抱きつかれても、ちっとも嬉しくないし、ほのぼのなど出来はしない。
俺はこいつをどうにか安全に暮らせるように無茶をしてきたってのに……こいつが自ら、その無茶に一緒に飛び込んで来たら、どうしようもないだろうがよ。
「シロ、私から離れたら駄目だよ!」
「馬鹿、今はそういう場合じゃ……!」
「私から離れると、シロの幸せが逃げちゃいそうな気がするの!」
「……え?」
ペトルは至って真面目に、真剣な表情で、俺に訴えかける。
「お願い。これがシロのためだと思うの」
「……お前」
その時、俺は今日の出来事を、走馬灯のように思い返した。
コンビニへ行くまでのいつも通りの不運。
森へやってきてペトルと出会い、そこから村で過ごすまでの、そこそこ細やかな順調の連続。
そして、蜂を退治しようとペトルを離れて続く、不幸の連続……。
「ちょっと、何をしているんですか! 立ち止まっている暇は……もう! スキルカード『エアー・ボム』発動! 風の砲弾よ、敵を迫り来る敵を吹きとばせ!」
一瞬のうちに巡った回想は、冷や汗混じりに一枚のカードを突き出したクローネの叫びによって終了した。
クローネの手に取ったカードが閃光を放ち、蜂側へ向けられた絵柄から、一発の見えざる“何か”が撃ち出される。
“何か”は凄まじい早さで宙を飛び、まっすぐシャンメロの群れの中央に直撃して、爆風へと変わって弾けた。
着弾と同時に吹き荒れた風はシャンメロの群れをわずかに押し返し、再び距離を引き離し、俺達の逃走時間を稼いでくれたようである。
カードは発動と同時に彼女の手の中から消滅し、小さな光の粒子になって消滅してしまったようだ。
もう彼女の手には、一枚の札も握られてはいない。
「私の言うことを聞いてください、二人とも! 急いで村に……」
「……いや」
慌てるクローネをよそに、俺はジャージのポケットから一枚の“それ”を取り出す。
「ちょっと……! ペトルさんも、抱きついていないで……!」
なるほど。そうか。そういう仕組だったのか。
確かに、森に来た時には不運だと思っていたが、こうしてポケットの中身を見て、ようやく謎が解けた気分だ。
「シロ」
「なんだ、ペトル」
「今のシロ、良いことがあったなーって顔してるよっ」
今にも怒り出しそうなクローネ。
再び距離を詰め続ける蜂の群れ。
そして、俺に微笑みかける幸運の女神。
俺は不幸だが、こいつといる時は不幸ではなくなる。
見知らぬ場所や、未知の情報ばかりで、そんな事には気づけなかったが……。
多分今の俺は、かなりツいている。
「……スキルカード、『大雷撃』発動!」
カードをシャンメロ共に差し向け、見よう見まねで宣言すると、俺の視界は真っ白な破壊の輝きに包まれた。




