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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

『道化の鎮魂歌』

儚き道化

作者: 本宮愁

 なんて俺は、中途半端なんだろう。

 キサヤ――いや、カイを見ていると、いつも思う。


 彼のように感情を殺し切る事も出来ず、かといって忘れる事も出来ない。

 結局過去に縛り付けられたまま一歩も動けずに、自分を正当化して保ってきた。



 『あの人』への、憎しみを。



*****



「――以上が、今回の件に関する報告です」


 事務的な口調の下に、押しこめる思い。

 瞳は目の前に座る彼女へ向け、けれど意識はどこか遠くを彷徨っている。

 特にあてもなくふらふらとしていたそれが、一点に定まったのは不意だった。


 窓の外に広がる、月の無い夜空。

 際限なく広がる漆黒の闇。


「そうかい。御苦労。……なにを見ているんだい? 千歳」

「はい?」


 予期していなかった問いかけに、締まりのない声がこぼれる。

 少なくとも見かけ上はたしかに、ボスを見ていたつもりだった。

 ……たとえ、意識がソコに無くとも。


 内心慌てる俺を余所に、ザクロは納得したように「ああ」と呟く。


「そう言えば、あの夜も新月だったねぇ。懐かしい」

「! な……」

「お前の考えていることなど簡単に分かるよ。――私が憎いかい?」


 一瞬だけ、言葉を失った。


 嗚呼、この人はどうして、本当に不意に表情を曇らせるのか。

 深い悲しみを湛えて、切ないような顔をする。


「わかって、……らっしゃるのでしょう」


 碌に目もあわせずに言い捨てると、退室の断りも無しに部屋をでた。



 その間際。扉の閉まる一瞬前に、囁くような声を聞いた気がした。

 千歳……すまなかったね……、と。

 そう、あまりにも微かで、あまりにも悲哀に満ちた響きを伴った言葉を。


 なにも聞かなかったことにして、振りかえることなく立ちさる。

 彼女は、聞かれることを望んでその言葉を発したわけではない。

 そして俺も、また。……そんなものを、望んではいない。



 そう。いまさら貴女は、なにを言う? 謝るぐらいなら最初から――。


 あの日、あの時、どうして。

 どうして、俺に憎しみを植えつけた。どうして、『あの時の俺』を選んだんだ。

 方法なんていくらでもあっただろう。

 いっそ手を下さずとも、俺は此処に辿りついていた――そういう、ものなんだろう?


 だったら、なぜ。

 貴女は、あんな筋書を選んだんだ。


 憎くてたまらないのに、憎みきれない。

 いっそこの手で消し去ってしまいたいという激情を、飼い殺して、尚もつき従い続ける。

 そんな葛藤を、俺に――与えないでほしかった。



 なにがあったって、


 ザクロ。お前が俺の仇であることは、変わらないのだから。



*****



 チャイムの音が、好きだった。

 憂鬱な気分も、来訪者は吹き飛ばしてくれる。


 瑠香と閃。

 孤児院育ちの2人と、どうやって知りあったのかは、正直よく覚えていない。

 俺にとって、そんなことはどうでもよかった。


 1つ学年が下の2人は、いつも馬鹿な事をして俺を困らせる。

 閃は危ないことばかり好んでやろうとしたし、瑠香はなんでも俺達を真似ようとした。



 手のかかる、けれど大切な――まるで、本当の弟や妹のようで、愛しかった。



 だから、チャイムの音は幸せを運んでくるのだと、勝手に思いこんでいた。


 いつもいつも、玩具のような電子音が鳴るたびに、戸口では、ほんの少し不機嫌な閃とはにかんだ瑠香が俺を待っていて。

 「今日はどうする?」なんて口々に騒ぎながら、外へとくり出す。


 そういう、ものなのだと、……思っていたんだ。



 初めて俺が、『幸せを運んでこない』チャイムを耳にしたのは、たしか5歳のころだったと思う。


 家中に響いたいつもの音色に、満面の笑みを湛えて玄関へ向かった。

 けれど、扉の向こうで俺を迎えたのは、2人の子供ではなく黒いコートをまとった美女だった。


 フードの付いた、真っ黒なロングコート。

 背が高く、ひどく妖艶な顔立ちをしたその女性は、俺を見下ろして笑った。

 ――どこか冷めた瞳だけは、そのままに。


 あのとき、全身を支配した、言い知れない恐怖心。

 幼い俺が、初めて経験したその感情は、あまりに鮮烈で。


「だれ、ですか?」


 声の震えを必死に抑えながら、俺は問いかけた。


 本当は今にも逃げ出したい気持ちでいっぱいで。……でも、絶対にそうしてはいけないような気が、して。

 その場に縫い止められたかのように、一歩も動くことはできなかった。


 おそらく、彼女の放つ威圧感に、完全に呑まれていたのだと思う。


「大人びた子だね……。大丈夫、お前を(・・・)傷つけたりはしないさ。迎えにきたんだよ――千歳クン」


 俺はのちに、妙に強調したこのアクセントの意味を、身をもって思い知ることとなる。


 初対面にも関わらず、なぜ、名前を知られていたのか。

 当時はそんな疑問をいだく余裕すらなく、俺は重ねて尋ねた。二度目の声はもう、完全に震えていたように思う。


「だ、れ……?」


 彼女はクスリ、と冷めた笑みを漏らし、口をひらく。


「私はねぇ」

「――どちらさまですか!?」


 もしも。この瞬間、母が乱入してこなかったのなら、俺はこの瞬間からB-Bに所属することとなっていたのかも知れない。

 そう――、どんな犠牲も払うことなく。


「私はこういう者だよ。才能ある子どもを迎えにきただけさ――【Clown】の、ね」


 そう告げながら、突然の来訪者は名刺を差しだした。

 黒字に紅いアルファベットの並ぶソレを、5歳児が理解できるはずもなく。


「黒、蝶……!」


 異常なまでに大きな反応を見せた母親を、ただ茫然と見つめる他なかった。


「千歳。外に、行ってなさい」

「え? でも――」

「いいから早く! 遊びに行っておいで。夕食まで戻ってきちゃだめよ」


 強張った母のほほ笑みに追いたてられるようにして、渋々家をでる。

 もやもやとした思いを抱えながら、俺は閃と瑠香の暮らす孤児院へと走った。


 ……残された2人の間で、どんな会話がされたのかは、わからない。



*****



 日が暮れるころ、帰宅した俺を迎えたのは、見慣れた母の背中だけだった。

 扉をひらくなり、開口一番に問う。


「ねぇ、母さん……。あの人、だれ?」


 俺を迎えにきたって?

 俺はどこかへいくの?

 コクチョウってなに? クラウンって?


 ――才能って、なんなの……?


 あふれんばかりの疑問を、矢継ぎばやに母に浴びせようとした。

 女の人が残した言葉がぐるぐると回って、頭のなかは酷く混乱していて。だから、なんとかして説明してほしかった。

 単純に安心したかったのかも、知れない。


 ……けれど。



「泣い、……てるの?」



 家に上がった俺が目にしたのは、玄関で一人泣き崩れる母の姿だった。

 一体、いつから、どれ程のあいだ、母はそうしていたのだろう……?


「なんで? ねえ、どうしたの? 教えてよ。――母さん!」


 わけがわからなかった。

 ……とにかく、なにかが起きたのだ。俺に関することで、きっと、あの女の人が原因に違いない。

 ただ、漠然とそう思った。


「千歳……。おいで」


 言われるがまま、どことなく弱弱しい母の腕に抱かれた。

 母がどこかに消えていってしまいそうな、焦燥に駆られる。


「お前はいい子ね……。正直に言って。お前は、未来が見えるの?」

「ミライ?」

「これからなにがあるのか、ということよ。――足が速いのは、知っていた。同い年の子のなかで、運動神経が飛び抜けていいのも。閃クンくらいしか、貴方には敵わないものね……。でも、まさか」


 違っていてほしい。

 そう、切に願っていただろう母の望みが叶うことは、無かった。

 せめて、首を振ればよかったのだ、この時。

 そうすれば、もうしばらくのあいだくらい、誤魔化せていたのかもしれないのだから。


 ――けれど、なにもわかっていなかった俺は、母の様子に怯えながらも、確かにうなずいてしまった。


 別に、はっきりとした未来が見えていたわけじゃない。

 いまよりずっと精度は低かったし、髪や瞳の色が変わることも無かった……と、いうのは俺が本来、生まれつき赤髪だからなのだけれども。


 母が、息を呑む音がした。


 思えばきっと、彼女はわかってたのだろう。

 B-Bの申し出を断るということが、どういうことか。――自らを襲う、運命を。


 それでも、俺を手元に置くことを、一緒に暮らすことを、彼女は選んだ。


「そう……。忘れなさい」

「え?」


 不意に、俺を抱く腕の力が強まる。


 赤い髪をした子供。

 両親はおろか、曽祖父まで遡ろうとも、純粋な日本人だというのに。

 年々、瞳の色も変化を見せはじめていた。いずれ、髪と同じ深紅に染まるのだろう。


 稀有な才能を持ってしまった我が子の行く末を案じ、母は静かに、刻みつけるように告げた。



「忘れるのよ、千歳。今日あったことは、全て。お前に、才能なんてない。普通の、ただの子供。……私の大切な子供なのよ――」



 あまりにも切実なその声に、俺には、ただうなずくことしかできなかった。


 ――そうして、忘れたころに悲劇はやってくるのだ。



*****



 5年が、なにごとも無く過ぎた。

 そのころには既に、自分が普通ではないことに気がついていた。


 深紅に染めあがった、瞳。

 同色の髪を黒く染めるようには、簡単に隠すこともできない。色鮮やかで、どこか残酷さすら感じさせる深みのある双眸は、その象徴とも言うべきものだった。


 10歳にして、成人男性でも追いつくことのできない、いわゆる異常なスピード。


 体育の授業ではいつだって、手を抜いていた。

 日に日に増すチカラの存在が自分で恐ろしくなって、本気で走ることをやめた。

 ……けれど、どんなに力をセーブしたところで、同学年のなかでも明らかに群を抜いた運動神経を誤魔化しきることなんてできなくて。


 そして、その速さは何㎞走ろうとも衰えないのだから、おかしいと感じられて当然だったのだと、いまならわかる。



 未来サキ読みも、このころから格段に精度を増す。

 制御できない能力-チカラ-に振りまわされ、いつからか俺は、現在と未来の交錯する不思議な時間を生きるようになっていた。


 実際、当時の俺は、未来から過去を見ているのか、過去から未来を見ているのか区別がつかないほど錯乱した世界を見続けていたのだ。



 そしてある日、俺は未来に炎を見る。

 映像を目にしたのは、いつものように突然だった。



 学校帰りに玄関に指定の帽子とカバンを投げ、その足で遊びにでる。

 帰るころには夕暮れで、紅く染まった帰路を急ぐ。急ぎ足のまま飛びこんだ玄関には、夕食の匂いが漂う。

 ――それが、俺の日常だった。


 けれど、その日。俺は、夕日に照らされた我が家を見たとたんに、ソレを目にする。



 月の無い夜空。

 あたり一面の静寂を破った、炎の轟音。

 闇夜を紅く照らし、唸りをあげる炎が包んでいたのは、まぎれもない自宅。


 ……まさに、地獄絵図だった。


 母の悲鳴と、父の叫びが交錯する。

 最後に目にしたのは、あの――――5年前の、黒いコートの女。


 あのときから、わずかたりとも衰えていない整った美しい顔に、残酷なほど冷たい笑みを湛えて。

 赤々と、永遠に燃え続けるのではないかと思うほど激しく立ちのぼった炎を、どこか満足げに。そしてなぜか、ほんの少しだけ哀愁のようなものを交えた瞳で見つめ、言う。




「B-Bを敵に回すなんて、愚かなことをするからだよ」


 いつまでも耳から離れない、独特のねっとりとした声が、世界に響いた――。




「なっ……!?」


 なんだよ、いまのは!?

 くり返し浮かびあがるその光景に、声にならない叫びをあげ、俺は。


 ――映像が終わっても尚、我を忘れたように呆然と立ちすくんでいた。



*****



 衝撃的なヴィジョンが収まってから随分経ったころ、俺はようやく覚醒する。


 目の前に広がる光景は、いつもの通学路。

 世界を染める赤はただの夕焼けに過ぎず、獰猛な炎などどこにも存在しない。


「――まさか、な」


 頭のなかでどれだけ否定しても、おさまらない嫌な予感と、激しい動悸。

 最悪の考えだけが、脳内を駆け巡る。


 まさか。

 おいおい、嘘だろ? なぁ、なぁ、なぁ……っ!


 かつてこれほど急いだことがあっただろうかという程のスピードで、陽の暮れゆく道を全力で駆ける。


 残された時間を、一瞬たりとも無駄にしてはいけない。

 ――なぜか、そんな気がしていた。


 この時、俺は生まれて初めて、本当の意味での己の全力を知る。

 そう。皮肉にも俺はこの瞬間に、自ら押さえつけてきた2つ目の能力-チカラ-を完成させることになったのだった。



「どこへ行く気だい?」



 突然の声は、あの。

 こびりついた様に耳から離れない、独特の粘着質な女の声――。


 ビクリと、全身を震わせて俺は立ち止まる。――動けない。

 5年前には、本能的にしか感じられなかったこの威圧。

 いまなら、わかる。


 この女は――。


「そんなに急いで……。大きくなったねえ。成長したもんだよ。千歳?」


 名を呼ばれるだけで、ゾクリと悪寒が走る。


 強い。

 比べる対象にもならない程に、強く、大きく、そして――……哀しい。


「アンタ、一体」

「アンタ? ああ。そうだったね。5年前は名乗れなかったからねえ」


 愚かな女のせいで。

 端的に言いはなった女の口もとは、愉しげに歪められていた。


「な……!」

柘榴ザクロ。コードネームというものが分かるかい? 私はそう呼ばれていたよ。いまじゃあ、『ボス』としか呼ばれなくなったけどねえ」


 ボス。

 ――なら、まさかあんたが。


「B-Bの、……代表?」


 おそるおそる呟けば、彼女はニッコリと笑った。

 5年前と、寸分たがわない――どこか残酷で、冷たい笑み。けれどとても、美しい。


「Black-Butterflyを知っているのかい? なら、話は早いね。――もう、わかってるんだろう?」


 なにを、と尋ねる暇はなかった。




「千歳、私の組織トコロへおいで」




 それは、提案ではなく命令だった。くつがることのない、絶対の結果。


 あの時、母と約束した。忘れる、と。

 それでも、気になって調べてしまったのは事実。……これは、その罰だというのだろうか?


 だとしても、俺は――。


「……、嫌だ」


 俺には、あの日の母の涙を裏切ることは、できない。

 震え声で、けれど明確な拒絶を示した俺に、柘榴は微塵も動じることなく宣告する。


「そう……。お前の未来読みが外れたことはあるのかい?」


 全身に、戦慄が走った。



*****



「サキ、ヨミ……? なんの、ことだよ」


 現実逃避がしたい。もしも許されるのなら、だけれど。


「お前の能力-チカラ-だよ――私よりもお前の方がよくわかっているだろう?」


 告げて、ザクロは笑う。

 残酷なほど、美しく。冷たく、突きはなすように……それでいて、有無を言わせない迫力をまとわせて。


 言葉を失った俺のなかで、鮮明に浮かびあがる、映像。

 唸りをあげる炎に包まれた家。木霊する、母と父の絶叫。

 あれが、現実だって? 俺の返答次第で、あれが……。あれが!


 ――現実になるというのか。


 選択肢など、初めから存在しない。その事実を、はっきりとつきつけられた。


「嗚呼、そうだ」


 白々しく、思いだしたように唇を動かす美女を、これ以上なにを言うつもりだと、俺は精一杯の虚勢で睨みつける。


「お前の選択次第じゃ、あの孤児院も燃えるかもしれないよ。『閃と瑠香』――私の知ったこっちゃあないけどねえ」

「な!?」


 さらりと、なんの感情もこめずに、彼女は言いはなったのだった。


「なに、言って……」

「信じるも信じないも自由さ。どうせなにも変わりやしない」

「! ふざけっ」

「その程度のこと、どうなろうが関係ないのさ」


 飄々と、愉しげに言葉を重ねていくザクロに、敵わない、と直感する。

 俺がここでどうあがいたって、どんな抵抗を示したって、彼女にとってはまるで他愛のないこと。待ちうける結末は、おなじ。

 歯向かう者には容赦しない。どんな手段をもってしても目的を達成する。――そう、B-Bのポリシーに違うことなく。


 どうにも、できないのか?

 俺にはただ、指をくわえて惨劇の訪れを待つことしか……。


 知らず知らず視線を落とし、拳を強く握りしめる。

 爪が食いこむ、かすかな痛み。同時に脳裏に浮かぶのは、大切な人の笑顔。


 母さんも父さんも、大好きだった。

 そして、両親以上にすら大切に思っていた、閃と瑠香。

 守り、たい……。どんな代償を払うことになっても、どうか、彼らだけは。


「――――った」

「なんだい?」


 俺に唯一、残された選択肢があるというのなら。

 たとえその掌のうえで踊らされようとも、構わないと思えたんだ。


「わかったよ、お前と行く! 行けば……、いいんだろ……」


 そう。ならば、せめて。


「だから……二人には、手を出すな」


 俺は、お前達を守るためなら、悪魔とだって契約してみせるから。


 Black-Butterfly<黒蝶>。名高い闇組織の一員になるということ。

 暗殺を専門とする、プロの集団に身を置くこと。

 ――それが示す意味ぐらい、知っていた。


 知ったうえで、俺は。


「いいだろう。好きにしな」


 ザクロとの契約を、選んだんだ。

 どれだけ後悔しても、最早どうにもならない……その、契約を。



*****



「契約成立だね。1時間後に迎えにくるよ。逃げればどうなるか……お前の方がよくわかっているね」


 口の端を上げたその笑みの妖しさに、心底ゾッとした。

 どうやら、俺は悪魔なんてものよりも遥かに恐ろしい存在と契約を結んでしまったのかもしれない。


 目の前に差しだされた手を払いのけ、再びザクロを睨む。

 ……それしか、できない。


「破れば、俺がお前を殺してやる」

「へえ? それは愉しみだ。約束だよ」

「っ……」


 返す言葉が見つからず、足早にその場から逃げだした。



 すっかり日の落ちきった空に、月は無い。

 美しい茜色は影を潜め、曇った夜空には星すらも無く――


 ただ、一面の漆黒が広がるだけ。



 どこをどう走ったのかもわからないうちに家に着く。

 「お帰り。遅かったね」と、いつもの声に迎えられる。


 温かい家。温かい声。

 すべてが、今日までのこと。捨て去らなければならないモノ。


 込みあげる思いを必死に抑えて、笑みを作る。


「ただいま」


 ほんの一時間だけだけど。

 それが、永遠の別れへのタイムリミット。


 夕食を食べる。他愛のない話をする。すべてを、脳裏に焼きつける。

 気恥ずかしくて言えたことはないけど、父さんと母さんが好きだった。この家が、好きだった。


 普通じゃない俺を、受けいれて、ずっと大切に育ててくれた。

 B-Bに目をつけられていると知りながら、それでも共にいることを選んでくれた。


 なんてことのない毎日を、どうしてもっと大切に生きられなかったんだろう。


 感謝の気持ちすら、碌な言葉にならなかった。

 「ありがとう」と、口に出せば変な顔をされた。

 当たり前だ。だって2人は知らない。

 この日常が、もうすぐ過去になってしまうということを。



 この1時間は、何の時間?

 別れを告げるため? 荷物をまとめるため?

 俺は、すべてを前者に注いだ。敢えて、荷物はなにも持たない。


 『すべてを捨てる』――そう、決めたからには。


 1時間が、過ぎていく。時計の針は、無情に進みつづける。

 60分。秒にすれば、たったの3600秒。

 この家で過ごした10年に比べれば、ほんの一瞬。



 さあ、時間だ。



 本当は、孤児院にも行きたい。閃と瑠香に会いたい。……いままで出会ったすべての人たちと、話をしたい気分だった。


 俺はこれから、まっすぐに堕ちていくんだ。

 後戻りは許されない。

 どこまでも、深く――残酷なほど、冷たい闇の底まで。


 迷ってはいけない。立ちどまれば、またたく間に押しつぶされる。

 転がるように、駆けぬけなければ、きっと。

 心が揺れた瞬間に、生きてはいけなくなるから。


 裏口の戸を、そっと、気付かれないように開ける。


「じゃあね……母さん、父さん」


 もう、戻らない。

 二度と――会わない。


 かすかな音を立てて、扉が閉まる。



 そして、俺は――――

 誰にも気づかれないようにそっと、暗殺者の世界へ足を踏みだした。


「おいで。千歳」


 差しだされる手を、今度は拒まない。

 俺は、柘榴に導かれる。導かれ、共に……どこまでも、堕ちていく。

 この世界の、闇の底まで。



*****



 目的地を尋ねようとも、「首都だよ」としか答えないザクロ。

 ようやく聞きだせたのは、本部の入口は表通りに面していること。そして正面入り口はフェイクであり、裏から出入りするということぐらいだった。


 公共交通機関を使う気はさらさらないらしく、俺たちは、到底首都へ向かうとは思えないような山道を進んでいた。


 爆発音にも似た轟音が響きわたったのは、街を出て、しばらく経ったころだった。

 不吉な予感に、足を止めた直後。


「B-Bを敵に回すなんて、愚かなことをするからだよ」


 ねっとりとした独特の声。残酷に嘲笑った、ザクロ。


 聞き覚えのある音。

 聞き覚えのある、言葉。


 全身が激しく脈打ち、冷たい汗が流れでる。

 弾かれたように振りむいた先には、紅く染まる闇夜。

 ――そう、くり返し見た光景。避けられたはずの、未来。


 しかし、現実に存在するのは、あの地獄絵図だった。


「な、んで……。嘘だろ――――っ!」


 煌々と立ちのぼる炎。

 火の粉を振りまく獰猛な赤は、漆黒の闇のなか、絶妙なコントラストを生みだしている。


 すべてを無に還す、残酷なほど美しい輝き。

 燃やしつくす。なにもかもを。

 あの、優しかった場所を。10年間の、俺のすべてを。

 たった1つの居場所。……だった、場所。


 気付けば、なりふり構わずに全力で駆けだしていた。

 帰り道などわからない。どこへ向かって走ればいいのかも、わからない。

 知ればきっと心が揺れるから、あえて覚えてこなかった。


 だから俺には、もう炎に包まれた自宅へ駆け戻ることも、父さんと母さんの最期を看取ることも……そして叶うなら、救い出すことだって。

 ――なに一つとして、できない。


 ただ、がむしゃらに駆けぬけた。

 木々のあいだをすり抜けながら、せめて、あの家を脳裏に焼きつけておきたいと一心に願った。



 そうして、目の前に広がった光景に、再度言葉を失った。


 燃えている。あまりに呆気なく、簡単に。

 『声』は聞こえない。以前聞いたあの叫びは、悲鳴は、届かない。

 ただ、炎の唸りが轟くだけ。


「そん、な……」


 消えていく。すべてが。

 俺には、ただこうして、見つめることしかできない。


「美しい光景だねえ」


 平然どころか、寧ろ愉しげに言ってのけたザクロに、本気で殺意をいだいた。


「俺が……。俺がお前についていくなら、手を出さない契約だっただろう!」


 なのに、どうして、こんなことに。


「そうだねえ。私は契約を守ったよ。もう一度、よく自分の言葉を思いだしてみるんだね」

「どういう、意味、だよ」


 思わず瞳孔が見開き、ザクロを凝視する。

 俺の、言葉?


「『二人には手を出すな』――私は守っているよ。少なくともいまのところは、ねぇ」

「な!?」

「そうだよ、千歳。お前は瑠香と閃の名前に焦り、それゆえに言葉を誤った。――いい経験になっただろう? 弱さや抜け穴があれば、簡単につけいられてしまうのさ」


 俺のせいだった? すべては。

 俺が、無意識に両親を差しだしてしまったのか?


 そう……。あの燃え盛る炎を生みだしたのは、紛れもない俺自身の言葉。



*****



「……っ……。――り、は……?」


 衝撃で、うまく言葉にならない。

 それでも、必死に声を絞りだした。


「2人には……手を出してないんだよ、な――?」


 それだけが、俺を支える。閃と瑠香だけでも、救えたなら。

 この呵責から、わずかでも逃れられる気がした。


「ああ。『私からは』出さないよ。どうせ、おなじことだからねえ」

「なんだって!?」


 ザクロは、勝ち誇るような笑みを俺に向けて、冷淡に言いはなった。


「あの2人も能力者なのさ。Clownの才を持つ者は、いずれ闇に導かれる。鳥が空に舞うように、魚が水に遊ぶように――『Clownは、闇に魅せられる』。……そういう運命なんだよ」


 俺は、そのとき、本当の絶望というものを知った。

 自分の無力さを、愚かさを、こんなにも呪ったことは他にない。


 結局、お前は誰一人救えなかったのだ。

 傷つけるだけ傷つけて、自分だけ悲劇の主人公のようにふるまって、すべては一人相撲。


 なにも残らなかった。

 俺には、――守ることさえ、許されなかった。



「それ、なら」


 Clownが皆、いずれは闇に導かれるサダメなのだと言うのならば。


「どうして俺は、わざわざいま、B-Bに」


 沢山の人を、犠牲にして。あんな惨劇までも、ひき起こして。

 どうして、いまじゃなきゃ駄目だったんだ。


「千歳。お前は他の人間とは違う」

「……」

「他の能力者とも違うんだよ」


 フッと、笑みを消したザクロは静かに語る。

 彼女と出会ったときから、初めて見せた表情は、まるで。

 俺を、憐れんでいるかのような。


「生まれながらに発動状態にあるClownは、その存在自体が稀な彼らのなかでも、極少数でね。ましてや【未来読み】を扱える子供なんざ、聞いたこともない」

「……未来読みが、なに」

「そいつは特別な能力だ。『鍵』でもない子供が宿すなんて、本来あり得ない、ねえ」


 俺にはザクロの語る言葉の、半分も理解できなくて。

 ただ、――心が、冷めていった。

 俺は最初から、こうなる運命だったのか? こんな選択しか、許されちゃいなかった……?


「お前は、B-Bを支える柱になるんだよ」


 大きく、息を吐いた。

 静かな絶望だけが、頭を支配していた。



 ――しばらく経って、俺はザクロを見つめ、告げる。


「すべてを失ったね、俺は。……奪ったのは、アンタだけど」


 もう、迷いは微塵も無かった。

 最早それしか道がないのなら、初めからそういう筋書なのだというのなら。ただ、その道を走るだけ。

 果てになにが待つのか。いっそ堕ちるところまで堕ちて、知ってみたくさえなった。


「俺はアンタを一生憎む。そしていつか、アンタを超える」


 そして、そのときには。


「アンタのすべてを奪うために」


 ――俺は、迷うことなく彼女に刃を向けるだろう。


「頼もしいねえ」


 そのとき、彼女が浮かべた哀愁にも似た表情の真意を、俺はいまも知らない。



 この日、俺の運命の歯車は、大きく狂いだした。

 闇世界のトップに立つ。……ただ、この女を超えるために。

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