第三章 「おばけの飼い方なんて知るわけない」
朝日は平等に訪れる。
失恋しても、倒産しても、恋人の肌に触れていても、寝坊しつつあろうが、朝というものは等しく全ての人々とその生活に訪れる。
シャコシャコシャコシャコ
リノリウムの薄緑の床に、うっすらと朝日が映り込む北側の共用洗面所。冷ややかな光の中で、目の前の水道の蛇口だけがきらりと光を保っている。
共用の洗面台、鏡の前で章子は歯ブラシを口に突っ込んでいた。
眠い。
これでも一応は治療と療養の為にここにいる入院患者のくせに、なぜにこれほど寝不足なのか。
現在時刻午前七時半。
起床時刻には音楽が流れるから問答無用に起こされる。自宅ではないから、寝坊などという勝手は許されないのである。
壮絶な眠気が章子を襲っていた。
シャコシャコシャコ
目が据わった状態の自分の顔を見ながら、章子は無心で歯ブラシを動かしている。
ねむい。
寝たのは、何時だったか覚えてない。
ついでに言えば、どの瞬間に眠りに落ちたのかもよくわからない。
更に言えば、よくも眠れたもんだなと思う。
なにしろ。
「……すっごい、クマなんだけど」
鏡に映る自分の顔は、酷い。
学生時代に徹夜で騒いだ翌朝でも、こんなのはなかった。年齢だろうか。嘘だろう、これでもまだ二十代前半だ。まだそういう段階じゃないはずだ。
シャコシャコシャコ
肌も荒れている。
クマもそうだけど、なんというか疲労感がにじみ出ている。
自らの顔にもう一度ちらり、と視線を寄越してから章子は口をゆすごうとコップに水を注いだ。そして、もう一度顔を上げた。
『おはよう』
「うぶっ!」
鏡の中、自らの顔の後ろからぬっと男の顔が覗いた。
にこやかに、微笑んでいる。
「げっ、うげっ」
飲み込んでしまった。歯磨きの泡をまるっと飲み込んでしまった。
『大丈夫? 背中とんとんしようか?』
頭から血を流したおばけが、如何にも心配そうな顔で章子に尋ねた。
「……げほっげほっ、うえぇぇ」
ものすごく、気持ち悪い。
章子は水道の水をジャージャーとコップに流し入れ、口をゆすいだ。水を含んで、ガラガラガラ、とうがい。
ぺっ。
ガラガラガラ
ペっ。
「……ふぅ」
三度のうがいの後に章子は口元をぬぐうと、顔をあげた。鏡の中には、昨夜から断続的に目にしているおばけ、の相変わらず血の気が失せた顔が心配そうに見つめ返していた。
『ごめんね、驚かせちゃったかな』
「……あの」
『なに?』
苛立ちを感じながら章子は、髪を背中に流しながら振り向いた。
おばけ男、はやはりそこにいた。
章子の目先、三十センチ程度の位置に半分透けたような男が立っていた。
昨夜、突然に現れたおばけが、章子の前にいた。
やや心配げな優しそうな顔で。
対する章子は、やや眉間に皺をよせている。
「突然声をかけないでもらえませんか」
『あ、そうだね』
「おばけに背中とんとんされたら死にそうだし」
『あ、そっか』
苛々をぎゅうぎゅうに込めた声で章子が言うのだが、それを聞くおばけ男は素直に謝りつつにこにこと笑っている。頭から血が流れていなくて、体が透けてなければ、とても怖がる対象になりそうにはない。
ほのぼの、のほほん。
日向の公園がぴったりである。
彼が今それをやっても、残念ながらごく一部の人種を除いて目撃されることはまずないのであるが。
「で、何の用なの」
一体、なんなのよ。
昨夜の突然の登場からこっち、睡眠障害の元凶はこのおばけだった。看護師が去った後に再び現れて驚かせてくれた。それを無視して寝ようとすれば、章子が寝入りばなに立ったあたりでまた話しかけてくる、このおばけ。
最初は驚き恐怖した章子だったのが、どう見ても流血以外にはあまり恐ろしげな様子もなく、話し方も丁寧、空が白むころには、どこかとぼけた調子のこのおばけに対して恐怖心を感じなくなりつつあった。
うらめしやー、じゃなくて笑顔の幽霊ってどうなのよ、ほんと。
章子は胸の上で腕組みをしながら、おばけ男を睨むように見かえした。
『……ああ、うん。その、説明しなきゃなぁって思ってるんだけど、どこから説明していいのかなーと……ごめんね、夜の内に話しておこうと思ったんだけど……』
おばけ男は困ったように、苦笑いで後ろ頭をほりほりとかいた。
それは正しく、普通の人間の行動パターンであった。
「……あなたがどういう事情をお持ちか知りませんけどね。寝てる人間をわざわざ起こして話そうとするんだから、もう少しきちっと、ちゃっちゃと、話したらどうなの。もういっそのことうらめしやーでいいわよ、うらめしやーで」
『ええ? だってそういうのじゃないから。えっとぉ、なんて説明したら……』
「おばけにそーいうのもどーいうのも、ないでしょ。いいからもう、お皿でも数えてなさいよ。もう、眠い!」
うんざりしながら言うと、章子は盛大なあくびをした。目の前のお化け男が生きていたとしたら、少々態度は異なったのかもしれないが、大口あけたあくびには、欠片も異性を意識するようなもしくは他人を気遣うようなそぶりは見られない。
「あら、横塚さんまだ洗面所だったの? そろそろ朝の検温のお時間ですよ」
「あ、はーい。今戻ります」
通りがかった看護師に声をかけられた章子は、あくびで生じた涙をこすりとりながら返事をした。
検査入院は一週間、あと二日で終わるはずだった。
章子は手早く洗面道具をまとめると、洗面所を後にすべく開け放しの戸口へと足を向けた。
不意にふるり、と振り向いた。
そこには誰もいない。おばけ男は、章子以外の人物が現れると姿をどこかに消してしまうのらしい。昨夜からの様子で、なんとなくそれがわかった。
霊感とかないはずだったんだけど、おかしいな。
もしかして、事故で頭打ってから見えるようになっちゃったとか。
まあ、でも、あんまり怖くないやつで良かった……のかな。
よくわかんないけど、今のところは実害なさそう……多分。
「横塚さーん、横塚章子さーん」
「今いきまーす」
内心で独り言をつぶやき、章子は廊下へと出て行った。
ぴちょん
誰も居ない洗面所に、水音が響いた。
ぴちょん
北側の窓からは寒々とした白い光がぼんやりと入るだけだ。冷たい床に伸びる白い光は蛇口から落ちる水滴にも光を落としていた。
ぴちょん
ぴちょん
ぴちょん
音もなく、影も無く、動く人影があった。
ぴちょん
水音はまだ、続いている。
ぴちょん
滴る水滴は、透明から、深紅へと色を変えた。
ぴちょん
ぴちょん
ぴちょん
『……ふ、ふふ、ふふふ……』
男の額から落ちるどす黒い血液は、不気味な染みを白いホーローの上に作った。
にたり
その瞳は鈍く光りながら、章子の後ろ姿を見つめていた。
□
寝坊した。
「やっべー」
アラームはかけていたけど、はずだけど、なんでか聞こえなかった。
もしかしたら、寝ぼけて消したかもしれない。
「げえ、もう七時だし」
まじめに、やばい。朝練は七時からだ。今からではどうがんばっても十分十五分の遅刻をしてしまう。
せっかく妙なのに悩まされなくなったっていうのになあ。
ため息交じりに、自転車のペダルに足をかけた。
「朝練でとかないと、マジ後でやばいし」
できればやっぱり、レギュラーになりたい。
今年は無理でも、二年になったらレギュラー陣に名前を連ねるは理想だった。
急がなきゃ。
荷物を前カゴに押し込んで、学校へと急ごうとする背中に声が追いかけてきた。
「ちょっと、翔! 朝ご飯はーー?」
「時間ないから、いらない!」
いってきまーす、と風に乗せながら、佐々木翔は勢いよくペダルをこぎ始めた。
上空に広がる青さは、今日一日の晴れ空を予感させていた。
キュッ キュッ
シューズと体育館の床が作る、音は独特だ。
天井の高い空間に響くそれらの音は、息づかいや掛け合う声に重なり合う。
「おい、佐々木! 何やってんだお前!」
わりと静かに体育館に入ったはずだったのだが、シューズを履こうとした所で顧問の久保が大声を飛ばしてきた。
めざとい。
「あは、すみませーん。ちょっと寝坊しちゃって……」
「はあ? お前、英語の宿題は減っただろうが。横塚先生が事故ってから」
よく焦げたトーストのような顔面の片眉を思い切り上げながら、久保が言った。
「ああ、まあ、そうなんですけど、ちょっと、まあ、あはは」
曖昧に笑って誤魔化しながら、佐々木翔は練習する一年生の一団に加わろうとした。
さりげなく、それ以上の追及を避けるように。
本当はゲームに夢中で寝過ごしただけですなんて、口が裂けても言いたくない。
「なんだ、ちょっとって。あ、佐々木。ちょっと来い」
「え、僕ですか?」
なんだろう。
朝練への遅刻については、もう上手くすり抜けた……と思ったけど、まだなんか小言が降ってくるのだろうか。
佐々木翔は少々身構えながら、来いといわれた久保の元へと小走りに駆け寄った。
「あのさ、お前、ドライブ好きか」
「はあ?」
その時、見慣れた浅黒い顔は、常より若干真面目な感じに見えた。
佐々木翔は、ぼかん、と見かえした。
ついてない。
佐々木翔、十三歳は本日何度目かのため息を密かにもらした。
密かに、というのは理由がある。
「きみのぉーっ 後ろぉーすぅーがーたぁーがーぁ」
ちらり、と佐々木翔は右隣に視線を移動した。
そこには上機嫌でハンドルをにぎる久保の姿があった。現在の場所は、そう。
久保の愛車4WDの車内である。
先ほどから耳を覆いたい勢いでかけられているのはラジオではなく、久保のオリジナル選曲によるドライブ用もしくは通勤用のプレイリストらしい。
「お、お前も歌っとけ。気持ちいいぞう、ドライブしながらのカラオケは!」
「……はあ」
生ぬるい返事と引きつった笑いを返しながら、佐々木翔はなんとか視線を再び移動させた。
流れている曲は、翔も当然ながら知っている。今期のドラマ主題歌になってるし、有名。
友達の女子で結構上手い子なんかは、カラオケで感動するくらい上手く歌うのも、知っている。
歌詞もけっこう、感動する感じだし。
歌ってる歌手の声も、わりと好き。
なのに、なのに。
「あぁーいぃーたぁーくてぇ~?」
声、裏返ってるし。
なんで、久保のだみ声しかも音痴で聞かなきゃならないんだよ。
「きぃーみぃーのぉ~?」
だからなんで一々、裏返る度に疑問符になるんだよ。
歌えないなら、黙ればいいじゃないか。
まだ着かないのかな、横塚先生の入院先。
せめての現実逃避に窓の外へと目を向けるが、視界に広がる緑よりも大音量のだみ声はすさまじく強力であった。
「……はあ」
佐々木翔、十三歳はため息回数を一つ加算した。
コンコン
軽い音を立ててノックをした後で、レバーを引いた。
三〇七号室。
そのプレートを横目で確認しながら、翔は部屋へと足を踏み入れた。
「はいりまーす」
声をかけながら足を踏み入れた部屋は、四人部屋の病室だった。
白い床、シーツ、壁の色も如何にもな病院色だ。
手前のベッド二つには、中年の女性がいた。左はリンゴを剥いていて、右はワイドショー。
翔は軽く会釈をしてから、前を通り過ぎた。
いくら事故のショックがあったとしても、さすがに横塚章子はあそこまで老け込むことはなかろうと心の中で判断したのだ。
となると、窓側にある二つのベッドの内、いずれかということになる。
翔はゆっくり歩きながら、カーテンに覆われた二つのベッドを見比べた。
さっき挨拶したから、声に聞き覚えがあれば横塚章子自身が声をかけてくれても良さそうなものだ。
だが、全くその気配はない。
イヤホンでテレビでも見ているのだろうか。
翔は、手にしてきた久保からの頼まれ物に目をやりながら、またため息をついた。
正直なところ、この手荷物を放棄して帰りたい。
だが、この山を越えた場所から自宅まで帰り着く手段は、はっきり言って乗ってきた久保の車以外にはないのだ。
公共交通機関などは、ない。
皆無だ、皆無。
「……はあ」
既に何度目かわからないため息のあと、翔は左右を見比べた。
右か、左。
見覚えのある鞄とか、なんかあればまだわかるのだろうが。
そういったものは、見当たらない。どちらも一見する条件は同じである。
うすピンクの仕切りカーテンに覆われた、ベッド。どちらも声なり物音はなく、カーテンにも揺れはない。その場所から見える範囲では、全く左右対称と言えた。
どっちだろう。先生。
翔はゆっくりともう一度見比べた。
もしもカーテンを引いて、全くの別人だったりして、その人と目が合ったりなんかしたら思い切り申し訳ない。ていうか、そんな空気感はいやだ。体験したくない。
困ったな。
二度目に見比べた時だった。
翔の視線がはっきりとした意思を持って、停止した。
そして、右のベッドへゆっくりと近づいた。手に持った荷物を抱え直すように持ち替える。
「先生、横塚先生。いいですか、開けても」
「え、あ、はーい。誰?」
カーテン越しに聞こえたのは、聞き慣れた章子の声だった。
シャッという滑りの良さそうな音が聞こえ、カーテンが開いた。
「お久しぶりです、横塚先生」
「あれ、どうしたの。佐々木じゃない!」
視界に入ってきた章子は、元気そうだった。血色も良いし、とても事故に遭って入院中には見えないくらいに健康そのものな様子だ。
「うん、まあ。成り行きっていうか。あ、これ、頼まれ物」
翔は一先ず、手に持っていた荷物を章子に手渡した。
「なに、これ……あーなるほどね」
プラスチックのファイルフォルダーを音を立てて開きながら、章子が笑った。
「先生が事故る前にだした宿題。山根先生は管轄外なんだって」
中身を確認する章子の傍で立ったまま会話をしていた翔は、椅子にかけた方がいいのかなと一瞬思った。
だが、傍らに出されたままのパイプ椅子にちらりと目を向けると、その考えを打ち消した。
「了解。ありがとうね、わざわざ。でも佐々木一人で来たわけじゃないでしょ? 誰か先生と来た?」
レポートの束をフォルダーに仕舞いながら、章子が翔に問いかけた。
「ああ、うん。久保先生と来たんだけど、僕に行ってこいって。今は多分駐車場じゃないかな」
翔はおそらく今頃、駐車した車内で心ゆくまで一人アカペラカラオケを楽しんでいるであろう、バスケ部顧問の姿をうっすら思い描きながら答えた。
「どうして佐々木に行けって?」
章子は不思議な顔で尋ねた。
「この間来たとき、帰り際に婦長さんに怒られたんだって。声がでかいっつって」
仕方ないとは思いつつも、面白くはなさそうな顔で翔は応えた。
「婦長さんって、こういう人?」
『こういう』の言葉と共に自らのウエスト辺りで、両手で直径100センチ位の幅を取りながら章子が聞いた。
「……らしいです」
肯定、とした。久保の話もそんな表現だったなあと思いながら。
なるほどなるほど、と章子は頷いていた。
「そっか。それはありがとうね、わざわざ。部活とか宿題もあったんでしょう?」
教師らしくにっこりと微笑んで章子が問い返してきたのだが、翔にはそれに悠然と返す事はできなかった。
なぜなら……
「部活とか色々あるし、先生んとこは来たくなかった」
「え?」
翔は、パイプ椅子を指さした。
「この人が、いるんだもん」
やだよ、なんでわざわざおばけに会いに行かなきゃいけないの。
憮然としながら、翔は言い放ったのである。
果物の皮を剥く、という行為。
しゃり、しゃり、という爽やかな音に加えて、初夏に相応しく甘くさっぱりとした香りが鼻先に微かに香る。
甘酸っぱい、歯触りすら想像される、快い音と香り。
「……先生」
現在、その対象物である果物は、りんごなのである。
赤い皮を剥けば、白いその実を現し、かじれば甘く爽やかな味を楽しめる……
「なに?」
さく、さく、さく、ざくっ、ざり、ざりっ
「……ちょっと、分厚くないですか」
佐々木翔は一応先生である章子に向かって、かなり遠慮がちに真実を述べた。
「そう?」
ざりっ、ざりっ、ざりっ
りんごは上から下へ、きれいな球形そのままに形取れるほど綺麗に剥けなければならない、とはどこからも決められていない。更に言えば、剥く皮の厚さまでも指定などされているわけでは、決してない。世界りんご皮むき規定とか、あるのかもしれないけど、とりあえずこの日常までは如何なる権力の規制も行き届いてはいない。
ないが。
「……ずいぶん、ちっちゃくなっちゃったよね」
一字残さずひらかな発音で翔は言い放った。
悪気は、ないはずだ。
多分。
『まあ、香りはいいからいいんじゃない』
にこにこ微笑むような声が、ベッド横のパイプ椅子の方から聞こえた。
佐々木翔はその方向を思わず見てしまうが、章子は僅かに眉間に皺を寄せただけだった。
『あれ、無視?』
目を向けてしまった佐々木翔の目線の先、パイプ椅子の上には……
半透明の男がにこにこと笑っている。
頭から血を流しながら。
佐々木翔は少々目を泳がせると、章子の様子をうかがった。
「……話しかけないでって、言わなかったっけ」
デコに怒りマークを浮かべたような声が発せられた。
どうやらそれは、パイプ椅子の半透明おばけに対する返事だったらしいと翔は知った。
ふ、とそっけない言葉をかけられたおばけをうかがう。
『冷たいなあ、章子さん』
にこにこしていた。
ドス黒い血が流れていなければ、牧歌的とも言える雰囲気である。
「勝手にあきこさんなんて呼ばないでくれる」
章子の返事は大変そっけない。
ざりっ、ざりっ、ざりっ
『だって、あきこさんでしょう、名前』
翔は再び章子の表情を伺った。
「そうよ、名前よ。古くさくてイマイチ好きになれない名前よ。だから勝手に呼ばないでって言ってるの」
ざりっ、ざりっ、ざりっ
眉間の皺が深くなったのを翔は、はっきりと見た。
『良い名前だと思うけど。あ、じゃあ、あーちゃん、とかは? かわいいと思うけど』
半透明流血男はほんわかと笑いながら言った。
ざりっ、ざくっ、ざっく。
章子の動きが止まった。
「……どこの誰だかもわからない幽霊に、気安く話しかけるなって言ってるの!」
切れ長の目が、思い切りパイプ椅子のおばけをにらみつけた。右手に握った果物ナイフが窓からの光を受けてぎらりと光っている。
おそろしい。
正直言って、そこにいるリアルなおばけより、ちょっと怖い。
翔は初めて見る母親以外の女性が怒った顔に、少々引き気味であった。
だが、その緊迫の状態は一瞬で崩壊した。
シャーッ という音と共にカーテンが開き、隣のベッドのおばちゃんが顔を覗かせたのだ。
「あのう、横塚さん。大丈夫ですかの? さっきからなんやら……」
怪訝な顔で、章子と翔を交互に見やりながら言った。
「あっ、はい、大丈夫、です。ちょっと授業の事で生徒と話ししてて……」
慌てて笑顔を作った章子が、答えた。だが、その応えを聞くおばちゃんの顔は、更に険しく曇る。
章子はおばちゃんの視線を辿って手に持ったナイフに気がつき、それも慌ててテーブルに戻した。
「そうですか? にしては、さっきから聞こえるのは横塚さんの声だけだったような……」
「ききき気のせいです、ほら、この佐々木君は非常にナイーブで声も小さいから! ね、ほら、そうよね、佐々木!」
とっさに思いついた苦しい言い訳を早口で良いながら、章子が翔に向かって言った。
「えっええ? あ、ああ、はい。ええーと、あはは」
無理だよ、先生。
そんな無茶ぶりされたって、僕にはフォローできない。
翔はあやふやに笑いながら、やり過ごした。
章子の視線が、すこし痛い。
「あら、そうなのね。最近の男の子はおとなしくっていいわねぇ」
だがおばちゃんはそれで納得したらしい。
とってつけたような笑顔を残して、カーテンが再び閉まった。
ふう。
章子がため息をついたのがわかった。翔はふと、目線をパイプ椅子に移すが、そこには誰も居ない。
半透明な流血男は、姿を消していた。
「佐々木、成績の話なら場所を移そうか」
その言葉に見かえすと、章子が真剣な目で翔を見ていた。
「はい、これでいいの」
「どうも」
スポーツ飲料のペットボトルを受け取り、佐々木翔は椅子にかけた。章子から大部屋である病室では話しにくいだろうと無言の内に促された翔は、裏庭に面した談話室にいた。
ペットボトルの蓋を開ける音が聞こえ、章子は喉を潤した。
「ふう」
一息つき、穏やかな初夏の緑が広がる外界に目を向けた。日中の今、二階の談話室には他に人気はない。時々、リハビリや検査の為に移動する人影が廊下をゆっくり通り過ぎるだけだ。
沈黙が訪れる。
「びっくりした、さっきの」
ぽつり、と翔が言った。
横塚先生、この間までは背負ってる霊に欠片も気がついてなかったのに。
あんな風にぽんぽん普通に会話してるなんて。
翔は視線を手の中に移した。
手の中にある透明なプラスチックのボトル、内側についた水滴に日の光が当たっていた。
足を組み替えるような音が聞こえ、章子が隣に座る翔に向き直った。
「……ちょっと、教えて欲しいんだけど、佐々木はあーいうのが見える人なの」
隣を見れば、真剣な顔で章子が見つめていた。
切れ長の目は、こういう真面目な顔をすると実は少々怖く見える。脅されていないのに脅かされているような、なんかしてもない悪いことをしたような気になる。
翔は、少々戸惑いつつ口を開く。
「……うん、まあ。……小さい頃から。このあいだ教えてあげたでしょ、おばけ背負ってるって。だから先生事故ったんじゃないの」
章子が遭遇した事故は、全身を強く打つ打撲。
あの日の帰り道、反対車線から来た大型トラックが車線ぎりぎりに向かってきた。同じく車線にぴたりと沿ってカーブを曲がろうとしていた章子の車は、トラックに接触するぎりぎりで何かに弾かれたように急ブレーキを踏んだ。
お陰で接触事故は免れたが、章子の愛車は勢いで宙返り、地面に恐ろしい勢いで不時着した。幸いというべきか、車にはかすり傷一つなかった。
だが、ほんの数センチ。
ずれていれば、夏峠の崖下に真っ逆さまだった。
確実に、死んでいた。
その返事に、章子は更に身を乗り出した。
「事故は、おばけのせいだっていうの? だって、私何にも身に覚えないのに」
そんなこと言ったって、大人は色々隠すもんだって事くらいなんとなく翔にもわかる。
「じゃあ、幽霊にナンパされたんじゃないの、先生」
だから、適当に相づちを打ってペットボトルに口を付けようとした。のだが、どうやらそれは見当違いの返事になっていたらしい。
「じょ、冗談じゃないって! ナンパなんてされたこともないのに、なんだって初ナンパがおばけなのよ! 出来ればイケメンで生きてる男がいいに決まってるじゃない! ちょっと、佐々木、あんた見えるんでしょ、なんとかならないの!」
身を乗り出しついでに章子は翔の腕を掴んで、ゆっさゆっさと引いた。
先生、飲み物を飲もうとする人間を揺すると危険ですよ、とか。
一応、先生なんだから、生徒の前でパニックになるとかどうなんですか、とか。
言いたいことはあったけれど、翔はペットボトルから飲み物がこぼれ落ちないようにバランスを保つだけで精一杯だった。
この類いの飲み物は、服につくといつまでも甘ったるくべたべたする。一見すると透明だからって侮ると後で母さんに叱られる事になりかねない。
「ち、ちょっと先生、落ち着いてって」
「どうしたらいいのっ 教えてよ、佐々木!」
教え子十三歳の腕をひっつかんだ章子は、必死である。
寝坊したから今朝の占い見てないけど、多分僕は最下位だったんだろうな。
至近距離で英語教師、女二十四歳の懇願する視線を受けながら、翔は思った。
くるり、と器用に首を動かして辺りを確認した。
ふう。
一瞬、考えた翔はようやく口を開いた。
「……地縛霊なんだと思う。あの人。やけに人がよさそうなのが気になるんだけど、それも特定の相手を呪ってるわけじゃないから、だと思う。どういうきっかけかはわかんないけど、死んじゃった場所を通りかかったりしたんじゃないかな、先生が」
「と、通りかかっただけで、取り憑かれたってこと?」
章子は、まだ翔のシャツを掴んで離そうとしない。
切れ長の目から発せられる目線が、少々怖い。
「よくわかんないけど、多分。事故前は先生も気がついてなかったんじゃない?」
「うん。佐々木に言われても、わからなかった」
それを聞いた翔は、腕を組む。
「元々は見えない人だった先生が、突然見えるようになった……ってことかあ。やっぱり事故かなんかで死んだ人なのかな」
「ねえ、どうしたら離れてくれるの」
ごくり。
章子が緊張しながら翔の言葉を待っているのがわかった。翔は、その様子をじっと見てから、ふう、と一息ついた。
「あのね、先生。例えば除霊師とかプロに頼むっていうのが一番いいとは思うんだけど……多分、結構かかると思う」
「なにが」
「お金」
「……まじで」
章子は、眉を顰めた。翔は、その反応を予想していたかのように、浅く頷いた。
沈黙が、その場に訪れる。
「でなかったら、まあ……自然に地縛霊が離れるときは……」
「離れる時は?」
翔は、その続きを言いかけながら視界の隅に人影をとらえていた。
一歩、一歩
音も気配もなく、近づいてくる姿。
スニーカー、チノパン、元々の色がわからない程に血に染まった、シャツ。
「……それは……」
「それは?」
翔の目には、持ち上がる半透明の腕が向かう先が見えていた。
「……憑かれた人が、死ぬとき……」
血まみれの手が、章子の首に近づいていた。
『やあ、おそろいだね』
□
曇り空だった。
雨はまだ降らないだろうけれど、上昇する湿度が雲行きを肌に教えていた。
バタン ピッ
ドアを閉じた章子は、ロックをかける。
ウィンドウに映る自分が見えた。ベージュピンクの、車体は奇跡的に僅かな傷を負うこともなく、返されて来た。
空中回転した事故の直後に、その車に再び乗るというのもどうかと思ったが、他に移動手段がないのだから仕方ない。
視界に、かわいらしい色のコロンとしたフォルムが映る。
章子は、予定通りに退院することができた。
事故後の検査結果も問題ないことが確認された為、包帯もなければ投薬もない。
こんな症状が出たら病院へ、の紙を手渡されただけだ。
ふ―。
なんか、疲れたな。
章子は、ため息をついた。
今週一杯は念のために休暇扱いだけど、来週からは職場復帰、かあ。
体調はともかく、精神的な疲労感を感じていた。
ロックしたキーへ目を落とすと、そのままポケットに仕舞った。
ふう。
可愛らしい、と一見して思ったベージュピンクのボディを一瞥して、章子はため息をついた。
仕方ない。
それでも、こいつと日々を重ねるしかないんだから。
章子は諦め半分の思いを感じながら、そのボディから目を離そうとした。
――――その時。
『あきこさん、クマひどいね』
のんきな声が、頭に響いてくる。
ああ、またか。
章子は。うんざりしながら大きく伸びをした。
「……あー―――あぁ、うっザー―――い」
『ちょっ、それって酷い』
叫んだ後ろから、少しすねたような声が聞こえる。
くるり、と長い髪を回すように章子が振り返ると、そこにはやはり。
予想した通りの姿があった。
「酷いってねぇ、勝手に人に取り憑いたお化けが言う台詞じゃないでしょうが!」
『取り憑いてなんてない、と思うんだけど……』
自信なさげに、頭から血を垂らしたおばけは頬をぽりぽりとかく仕草をしている。
それだけを見れば、のんきなものだ。
「何処行ってもついてくるわ、昼間っから透け透けの体で現れるわ、好き勝手に話しかけてくるわの幽霊が四六時中存在している状況をそれ以上どうやって的確に表現するって言うのよ!」
切れ長の目が睨む。
その鋭さは、自他共に認めるキツい目つき。
大概は、そこで相手はひるむのである。
――――が。
『なんでだろうねぇ。相性がよかったのかなぁ』
へらり。
お化けは、にこやかに笑った。
章子は、肩から力が抜けていくのを感じた。
「……とにかく、なんとかしようよ。あんただって、行くとこ行かなきゃならないんでしょう」
バッグを肩にかけ直した章子は、それだけを言うとため息をつきながらアパートの玄関に向かって歩き始めた。
一瞬、戸惑うような表情を浮かべたお化けは、その後ろを音も無くついてくる。
『行くとこ……って?』
だが章子は、それには振り返らずに応えた。
「生きてるもんは、生きてる世界。死んだもんは死んだ世界。蛇の道は蛇」
むっとする空気がその場所を満たしていた。
空間自体が、湿り気を帯び始めた季節の到来を予感させていた。
足を踏みしめるその一歩は、やわらかい土の上に跡をつける。
耳に入るのは、木々の起こす葉擦れの音。
風が、枝葉を揺らしているのだとわかる。
章子は、真っ直ぐに目的地へと向かって歩いていた。
「えっと、このまま直進よね」
手元の印刷した地図を見ながら、章子は山道を歩いていた。正確には、山の中にあるというだけできちんと整備された歩道であるが、耳に、目に入るのは緑と木々の香りなのだから山道には変わりないだろう。
ざ ざ ざ
章子が進める足は、迷うことなくその場所へと近づいていた。
『……ねえ、ねえ、あきこさん』
だがその背後からは、耳ではなく頭に直接響く声が聞こえてきている。
はー。
半ばうんざりとしながら、章子は足を止めた。
「なに」
振り返って発したのは、短い言葉だった。
『……あの、そのぅ……』
「だから、なに」
章子は苛立ちを隠しもせずに、言った。それに対する男は、少々困ったように眉を寄せながら言葉を探すように口を開く。
『……本当に、除霊なんて行くの?』
「行く。あんたもその方がいいでしょうが」
くるり。
即答で返した章子は、そのまま再び進行方向へ体を向けると、歩き始めた。
帰宅して真っ先に探したのは、除霊師。
電話会社が配布するそれには、見当たらなかった。
章子が探し当てたのは、インターネットの口コミサイトに掲載のあった星三つの霊媒師。
ざ ざ ざ
山道は、少々雑草が増してきていた。かき分けるようにして歩く章子の背後からは、相も変わらず情けない幽霊の声が聞こえていた。
『あ、いや、その、僕はあきこさんに迷惑かけるつもりはなくって、その……ただ』
「迷惑かけるつもりがあろうがなかろうが! あなた自分が死んじゃってること知ってるんでしょ? 行くべき場所があるんだったら、行った方が良いに決まってるじゃない」
『あ……うん、それはね、うん。そうなんだけど……』
煮え切らない返事が背後から聞こえる。
それは、更に章子の苛立ちを上昇させていく。
「大体ね、なんでわたしの後をくっついてくるわけよ。驚かすわけでも呪うわけでもなく? 意味わからない」
ブツブツと文句を言いながら、章子はずんずんと前へ進んでいた。
『……ううんと、僕があきこさんを呪う理由がないんだから仕方ないんじゃないかなぁ』
へらり、と笑い顔が浮かぶような間の抜けた声が返ってくる。
当然、頭の中に。
ハー―――。
盛大なため息をついた章子は、首を横に振った。
だめだ。
このおばけ、死んだ時のショックで頭がおかしくなったんじゃないだろうか。
頭から血を流してるんだし、そうそう。
あり得るあり得る。
でもあれよね、死んじゃってるわけだから、脳に異常があってもMRIとかそういう検査もできないわけじゃない。
ちょっとだけ気の毒っちゃ気の毒か。
ああ、いい。
もうほっとこう。
とにかく、除霊、除霊。
ざ ざ……ざ
そして、章子の足は、その場所に到着した。
「ああ、ここじゃない」
草布の切れたその場所には、僅かな地面と石畳が見えていた。
顔をあげると、そこには古びた木板に寺の名前が記された粗末な印がある。
苔むした石塀は、其処此処から雑草が生えてきていた。
ふと、目線をずらすと、そこには鐘のない鐘撞き堂の姿が見えている。
「勝常寺……。ここで、いいのよね」
章子は、手にしている地図へ目を向けた。そこには確かに、寺の名前と所在地が簡単な地図で示してあった。
山、と書かれたおおざっぱなイラストの中心辺りにぐねぐねとまがりくねる山道が描かれただけのもの。
『……ねえ、あきこさん、止めようよ』
「うるさいなあ。天国行けるんなら、それでいいじゃない」
章子は適当に背後のおばけをあしらうと、石段へ向かって足を進めた。
『あきこさん、ねえ』
「しつこい!」
ざ ざ ざ
苔むし、ぴんぴんと雑草が生える石段を一段、一段と章子は登っていた。
三度目に、怒鳴られたおばけは、最早大人しく後ろを着いてきていた。
門をくぐり、本堂の前にたどり着く。
「ごめんくださーい。ご住職おられますかー」
声を張り上げるが、返事はない。
「……おっかしいなぁ。留守かな」
章子は数段しかない段の下で靴を脱ぎ、古びた引き戸に手をかけ、ゆっくりと引いた。
本堂、と思しき場所は目を凝らさなければ様子がわからない程に暗かった。
章子は、開いた戸の間に顔を入れて中を見ようとした――――その時。
『……危ないッ!』
「えっ?」
突然、右腕を後ろから引っ張られた。
章子は、何がなんだかわからないままに、引かれる勢いで入り口の板床に尻餅をついた。
『……あきこさん……』
「……いったぁ、もうなんなのよ……」
ぶつけた腰は、少々痛かった。顔を歪めながら、章子が文句を言うべく顔を上げた――だが。
そこにあったのは、予想もしない光景だった。
なに、これ。
人間が一人、ようやく通れるくらいに開かれた板戸、そしてその向こうには本堂の畳が見えるはずなのだが――――。
そこには、足があった。
『あきこさん……下がってて』
ぞわり ぞわり
肌が泡立つのが、わかった。
「……な、なに……」
口から紡ぎ出された声は、それだけだった。
章子は、目に入るその光景が、信じられなかった。
床に座りこんだ自分、その前に立つのはいつものとぼけたお化けなのだが、その先。
半透明の足、その向こうに見えていたのは――――……
人間一人分の幅から見える本堂の床、そこにあったのは、およそ当たり前の人間のものより数十倍はあろうかという、巨大な足だった。
牛一頭ほどの、巨大な足。
それが、二本。
裸足のそれ、親指だけで人間の頭ほどはあろうかという、その異常な大きさ。
『……僕が、引きつけるから、あきこさんは早くここから逃げて』
おばけの声が、頭に響いた。
「で、でも……」
章子は目を見開いていた。
質感からして、つるりとしたそれは、明らかに異質な存在だった。
本能的な何かが、激しく警鐘を鳴らしていた。
逃げろ、と言われても腰は抜けたように動かない。
『あきこさん、早く!』
「……わ、わかった……」
のほほんおばけの焦ったような声が、再び頭に響いた。見上げれば、半透明の後ろ姿が章子を守るように立ちふさがっている。
ようやく章子は頷くと、動かない足腰に命令を下すようにして動き始めた。
動け、動いて、足!
焦る気持ちとは裏腹に、章子の足はのろのろと立ち上がった。
後ろ向きに、数歩下がる。古びた板床の端に、踵が触れて、そこに先ほど脱いだばかりの靴を感じた。
……靴、そう、靴よ。
靴を履くのももどかしい。半分だけを引っかけた状態で境内に降り立った章子は、そのまま門をくぐった。
後ろを振り返りもせずに、無我夢中で石段を降りた。
息が出来ないほどに、心臓が早鐘の如く脈を打っていた。
は、はあ、はあ……
石段を駆け下りる、その中程まで来た時だった。
ドォンッ
重苦しい音と、振動が背後から襲ってきた。
「……な、なに」
章子は、石段の途中で立ち止まった。
ゆっくりと、後ろを振り返っる。
だが、門の向こうには砂煙のようなもやが微かに見えるだけで、音の正体らしきものは目に入らない。 なに、なにがあったのよ。
目を凝らすが、そこには薄煙に覆われた板戸が僅かに見えるだけ。
「……ちょ、ちょっと! おばけ!」
章子は、今降りてきた階段を逆に駆け上がった。
門の敷居をまたぎ、一歩中へ足を踏み入れる。
――――そこには。
「……なに、なによ」
巨大な足二本。
その上部は煙に包まれたように形すらわからない、それをおばけが両手で押し止めている姿だった。
『あきこさん、来ちゃダメだ!』
ゴォゴォゴォゴォ
不気味な音が、巨大な足の周囲から発せられていた。
おばけは、全身からなにやら光りを発しながら抵抗しているのがわかる。
だが、その勢いは巨大な足二本よりも弱々しく見え始めた。
ず ず ず
それは、少しずつおばけが足の勢いに押されて下がる音だった。
「なんなのよ、一体……」
章子は、呆然とその光景を見ていた。
アニメか、映画のCGじゃないだろうか、これは。
目の前で繰り広げられるそれは、あまりにも非現実過ぎていた。
だが。
「……うっ」
章子は、思わず口元を覆った。
それは巨大な足がおばけを押しつぶそうとした時だった。
強烈な臭気が襲った。
生ゴミの腐敗臭と、花の腐ったような甘ったるい臭気。その二つが混じり合って、砂煙と共に襲ってくる。
「……ッ」
口元を覆う章子は、だが同時に知った。
これは、現実だ。
現実離れはしていても、この匂いは確かに自分の体が感じている。
これは……現実。
章子は、再び顔をあげた。
ず ず ず
「……おばけ……」
視界に入るのは、巨大な足に今にも踏みつけられそうなおばけの姿だった。
『……んの……ッ』
押し返すおばけが、全身から放つ光が少しずつ弱くなるように章子には見えていた。
なんか、まずい。
このままじゃ、まずいよ、あいつ。
どうしよう。
どうしたら……。
狼狽えた章子は、咄嗟に自分の首元に触れた。
不安な時に思わずしてしまう癖なのだが――、その指先は馴染みの感触に触れた。
胸元の、ネックレス。
丸みを帯びたその、ペンダント。
「……お願い、おばあちゃん」
ブチッ
音を立ててネックレスをちぎった章子は、右手の手の平にそれを掴んだまま――――
放り投げた。
今正に、踏みつぶされそうなお化けに向かって。
「あ、悪霊退散――――っ!」
ブンッ
一瞬、それは一瞬の出来事だった。
章子が投げつけた金色のネックレスは、そのままおばけの背中に触れるように吸い込まれた。
次の瞬間。
パァァァァァァァッ!
おばけが全身から発していた光は、瞼を開けないほどに眩しいものへと変貌した。
『うあああああああ――――ッ!』
章子はその様子を、細めた目の隙間から僅かに見た。目映い光の中で、おばけが叫ぶ声が聞こえた。
「おばけ、ちょっ……!」
大丈夫なの、ねえ。
そう言おうとしたように思った。
けれど、章子の視界と意識は、そこで途切れた。
ああ、世界が暗転する。
ぴちょん
ぴちょん
ぴちょん
水音が聞こえていた。
どこからか、微かに。
「……う」
浮上する意識が、最初に感じたのは青い草の匂いだった。
まだ若い、芽を出したばかりの葉の香り。
もう、腐敗臭はそこにはなかった。
「……ん……」
『……さん、あきこさん』
頭に入ってくるのは、やわらかい声。
章子は、瞼をわずかに開いた。すると、そこにあったのは木々が伸ばした枝に群れる葉と、その向こうに見える夕暮れ間近の空だった。
濃くなる青が、目に優しい。
「……おばけ?」
章子は、不意におばけを呼んだ。
『ああ、うん。僕はここにいるんだけど』
すると、空を見上げていた視界の左側に半透明のおばけが顔を見せた。
ちょうど、生きている人間が普通に覗き込むように。
章子は、その顔をまじまじと見返した。
相変わらず頭から血を流している、明らかな幽霊。
優しげな目元に、笑うとできる目尻の皺。
血まみれで半透明でなければ、普通に好人物。
――――しかも。
「……なんで、助けたのよ」
お人好し。
除霊師の元へ、無理矢理行こうとしたのだ。
その章子が、妖怪だか亡霊に襲われたところで、知ったことではないはずだ。
寧ろ、取り殺すつもりなら好都合だったかもしれない。
なのにこの、のほほんおばけは。
『なんでって……だって、助けるよ。女の人が目の前で襲われそうになってたら、普通』
へらり
至って、当たり前だと言わんばかりに笑った。
あのまま、放置していても良かったのに。
よく見れば、おばけの全身を覆う光りが微かに弱くなっている気がした。
さっきの戦いが影響したのだろうか。
途端に、申し訳なさで胸が痛くなるような気がした。
「……取り殺せるチャンスだったじゃない」
『やだなぁ、まだそんなこと言ってるの? 僕はそんなんじゃないって、何度も言って……ああ、でもお陰で助かったんだ。はい、これ』
ニコニコと微笑みながら、おばけは右手を地面にかざした。
光りが少し、増す。
すると、草が擦れる音と共にふわり、と何かが地面から浮かび上がった。
金色の光りに包まれた、ネックレス。
「あ、それ……」
『うん、あきこさんが投げてくれたこれのお陰で、弾き返せたんだ、あの物の怪』
ふわり、ふわり
浮かび上がったネックレスは、章子が伸ばした手の上に落ちた。
シャラリ、と馴染みのある細い鎖が指に絡む。
「……おばあちゃんの、ネックレス」
章子は呟きながら、体を起こした。
やわらかい草の感触が、遠ざかった。
『そっか、きっと暖かい気持ちが込められてたんだね』
その言葉に顔を向けると、おばけが優しく微笑んでいた。
章子は、その顔を見つめる。
優しい顔。でもそれは日の光に、透けている。
そう。
確かに、この人はおばけだ。
けれど――――悪い人じゃない。
章子は何かがすとん、とあるべき場所に収まるような感覚を覚えた。
「おばけ。あんた、うちに来る?」
夕焼けが、少しずつ天上の青を紫に染めようとしていた。
カチャリ
後ろ手にドアを閉めた。
ふう。
軽く一息ついてから、手にしてきた着替えを籠の上に置く。パジャマと、寝る時用のブラとパンツと、洗い髪用のタオル。
いつもの装備を目で確認した章子は、徐に着ていたシャツのボタンを外し始めた。
一つ、二つ、三つ。
四つ目を手にかけた所で、ふと、目の前の洗面台に目を向けた。
そこには、少々疲労感の漂う自分が映るだけだ。
「……さすがに、いないよね」
おばけ。
ほっとしながら一言、呟く。
『あきこさん、何か言った?』
だが次の瞬間、頭の中におばけの声が響いてきた。咄嗟に章子は、胸の前でシャツを合わせる。
「いッ? ど、どこにいるのよ!」
『どこって、リビングだけど。何かあった? そっち行……』
「いい! 来なくていい! ていうか、来るな!」
『あ、そう? はーい』
章子は少々半信半疑ながら、ドアの向こうの様子を伺おうとしたのだが、そもそも相手は実体のない幽霊だったと思い直した。
わかんないじゃないのよ、これじゃあいつが何処にいいるかも。
全く。
ブツブツと文句を内心で言いながら、章子はさっさと服を脱ぐと、張った湯に手をつけた。
気にしても仕方ない。
うちくる?
なんて、呼んじゃったのは私だし。
ああ、もう。
なんでこうなるのよ。
はーぁ。
湯を被り、シャワーから湯を出す。長く伸びた髪を濡らし、シャンプーを手に取った。
沈黙のままで行ういつもの作業は、知らぬ間に思考を自由に冷静にする。
シャカシャカ
シャンプーの泡が、泡立つ感触が指に気持ちいい。
そもそもなんで、うちに呼んじゃったのよ。
おばあちゃんのネックレスを褒めてくれたから?
いやその前に、なんでわたしはあいつを助けたわけよ。あのまま放置して逃げれば、足おばけに潰されて今後一切、姿を消したかもしれないのに。
ザー―――ッ
シャワーで一気に、頭から泡を流し去った。
そうよね。
そうそう。
放置すれば、よかったのかも。
きゅっ。
お湯を止める。
濡れて重たくなった髪を、後ろ手に軽く絞る。粗方のお湯を落としてから章子は傍に置いたヘアクリップで手早くまとめる。
「……放置、か」
そう。
あそこで放置しておけば、もう意味不明なおばけになんか惑わされることはなかった。
全てはそこで終焉していた。
それが望みだったはず――――なのに。
章子は、再び湯を被った。
泡立ったボディシャンプーが、体から流されていく。
平穏な、普通の日々を取り戻したかった、はず。
でも、そう。
「なんか憎めないのよね、あいつ」
ちゃぷん
湯に体を沈めながら、章子は呟いた。
あの、のほほんとした顔を見ていると悪気というものを感じない。寧ろ、おばけにあるまじき穏やかさまで感じる始末だ。
額に血の筋さえなければ、まるで……そう。
安らぐような――――
『大丈夫? なんかあった?』
「ぶッ!」
突然、頭上から振ってきた声に、章子は湯船の中で滑った。
つるん、きゅっ
独特の音を立てて、章子の裸身は見事に湯船の中で沈んだ。
『ああああ、あきこさん! ちょっ、ちょっと!』
「……!」
バシャバシャ、ゴポゴポッ
声にならない叫びを上げる章子は、なんとか両手を湯船の両端にかけた。
ザッ
「……げっ……げほっ、げほげほっ!」
体を起こした章子は、少々お湯を飲んだ為に咳き込む。
鼻がつーんと、して痛い。
目も涙目の上に赤い。
『だ、大丈夫?』
「げほっ……ほっ……」
呼吸を整えながら章子は、横を見る。そこには、心配そうな顔で湯船の縁から上半身を覗かせるおばけの姿があった。
ぽたり
前髪から、お湯が一滴落ちた。
章子の視線が、驚きから厳しいもの、いや。
鋭いものへと変化した。
その視線を、心配げな顔のままで受けたおばけだが、数秒後にその理由を理解した。
『……あ……』
視線は、つーっと、章子の顔から下へと下がる。
そこには透明な湯によって僅かに浮力を得たやわらかい二つの膨らみが……
「……なに見てんのよ、エロおばけ」
『あ、いや、これは、その不可こ……』
不可抗力です。
と、応えながらもおばけの笑顔は少々常よりもにやけ度を増しながら広がる。
だが、真向かい二十センチ程先にある章子の顔は、並の妖怪を越えつつあった。
「出てけ――――ッ!」
『ごめんなさい!』
章子が叫ぶのと、おばけが謝罪と共に消えるのはほぼ同時であった。
「ったく」
章子は、苛々を抑えきれずに濡れた髪をがしがしと拭いていた。
春とは言え、まだ夜は冷える。
しっかり髪は乾かさなければ風邪の元になる。母に昔、うるさく言われたことを思い返しながら、ソファに座った。
そばにあったリモコンを手に取り、テレビを点けようとしてその直ぐ下、DVDプレイヤーの時刻表示に目を向ける。
まだ、八時かあ。
この時間じゃ見たいもの、ないんだよなぁ。
ふー。
章子は息を吐いた。そして、ぐるりとリビングを見回す。
引っ越しからまだ間もない部屋。
一ヶ月やそこらじゃ、まだ間もない期間でいいだろうと勝手に解釈する。
うん。
段ボールが積み上がったままの角、中途半端に中身を広げた箱。
並び終えてない食器棚も、仕切り越しのキッチンに見えている。
「……やるべきことはある、かあ」
仕方ない、やるか。
章子は立ち上がると、最大の懸案事項である箱の山へ向かった。昔昔の、学生時代からの遺物から最近まで勤務していた学校での思い出、頂き物で処分に困ったものから大事なものまで。
あらゆるものが詰まった箱を、開けようと手にかけた――――その時。
『……あの、ごめんね』
それまで沈黙を保ちながら姿を現さなかったおばけが、声をかけてきた。
章子が振り返れば、おばけは少々すまなさそうな顔でそこにいた。
「……いいわよ、もう。おばけを痴漢だの覗きで訴えるわけにもいかないし」
生きてる男ならともかく、相手は幽霊。
不満げにそう応えた章子に、おばけは笑顔を広げた。
『よかった。でも目の保養をさせてもらっちゃった。あきこさんて結構あるんだね』
ぎろり。
章子の目が、細く鋭さを増す。
「……もう一回、言ってみる? もう一回死なせてあげてもいいんだけど」
おばけは、笑顔のままで動きを止めた。
『いえ、結構です』
「遠慮する必要はない。なにせ、一回死んでるんだから、ね?」
『あきこさんが異常に笑顔なのが、得も言われぬ恐怖心をわき上がらせます』
「三途の川の回数券をもらってきなさいよ、ついでに。そこら辺のオバケ連中に売りさばけば?」
『川の渡しってものすごい強欲婆さんなので、無理だと思います』
「意気地無いのね、おばけのくせに」
『前回、有り金叩いちゃいましたけど足りないって怒られて、酷い目に遭いましたので。経験則的に拒否したい気持ちでいっぱいです』
「フーーン」
引きつった笑顔で応えたおばけを尻目に、章子は胸の高さまで積み上がった箱に肘を乗せた。
『あの、荷物の整理ですか』
おばけが、怖ず怖ずと尋ねる。
その様子を見ていた章子は、おばけの頭から見える範囲の足先までをつーっと見てから口を開いた。
「そのつもりだったけど、気が変わった。おばけ、うちに居る気なら、せめて自己紹介とか、経歴の説明とか、なんかあるんじゃないの」
『ああ、確かにそうです。と、いうより。ねえ、あきこさん。僕は最初から説明しようとしてたような気が……』
「そうだっけ? ま、いいや。とにかく座ったら」
章子はそう言うと、おばけをソファに座るよう促した。
恐らく実体がないのだから、立っていようが疲れるものではないのだろうが。
なんとなく、である。
促されたおばけも、素直にソファにかけていた。
こほん、と咳払いのような音をおばけが立てた。
『ええと。じゃあ、まず僕の自己紹介。誕生日は十月だったような気がするんです。えーと、血液型はO型で、両親はおそらく健在で、趣味は映画鑑賞と読書くらいのもので、年齢は二十七歳のはずです。現在は、幽霊をしています。死因と死んだ日付とかはちょっと覚えてなくて、ええと、あとはなにかあったかな。うん、こんなものかな』
おばけは、首を傾げながら少々気恥ずかしそうに言った。
それを聞いていた章子は、組んだ足の上に置いた肘、手の平に顎を乗せながら疑問が沸くのを感じていた。
ものすごく。
「誕生月がなんとなくわかるのに、死んだ時の事はなんにもわかんないわけ?」
『ああ、はい。なんていうか、霞がかかってるみたいで、何度も思い出そうとするんですけど、よくわからないんです』
「さっき言ってたじゃない。三途の婆さん。そういう人って教えてくれたりしないわけ?」
『どうなんでしょうか。それって、閻魔さまの仕事のような気がしますが……脱衣婆も知ってるのかな。どっちにしろ、めちゃくちゃに嫌われてしまったので、教えてくれなかったと思います』
「うーん、何年前に死んだとかもわかんないんだ。仕事は? なにか記憶はないの?」
だが、その質問には、おばけは首を傾げた。
『なんなんでしょうね。それも、全然わからなくて。街を行き交う人を見たり、オフィスで仕事する人を見たりもしたけれど、ピンとこないんですよ』
要するに、何にもわからないわけらしい。
これでは成仏する見込みもないではないか。
「誰かを恨んでた、とか」
『いやあ……僕、そういうのは苦手で』
後ろ頭をかく、へらへらと笑うおばけ。
章子のため息が、一つ深くなるのだが、目の前の半透明男は全く気にしていないらしい。
相変わらず、へらりへらりと笑っている。
章子は、眉間の皺を若干気にしながら、最大の謎を口にした。
「……名前は?」
眉を僅かに寄せながら、章子が聞いた。
『あ、ああ。えと、それも……思い出せないんです」
おばけは、へらりと笑った。