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銀の絆ーオリオン座の夜にー  作者: 奏ちよこ
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第二章「生死の境に立って、見えたもの」

   第二章


 それは、五月半ばの午後だった。

 明るい日差しが屋根越しに作る濃い影の境界線が、廊下にくっきりと見えていた。

「……佐々木」

 非常勤教師、横塚章子。

 二十四歳は心臓の音を聞いていた。

「先生……」

 歩幅一歩ほど離れた先にはバスケ部一年生、佐々木翔、十三歳が真剣な目で真っ直ぐに章子を見つめていた。

『先生が背中に背負ってる男の人のことが気になって

、夜も寝られない』

 佐々木は、たった今、そう告げた。

 男の人を、背負ってる?

「それって……」

 どういうことだ。

 喉が張り付くような気がする。

 だが紡ごうとした言葉は、佐々木に遮られた。

「結構、気味が悪いんですけど。死んだ恋人とかですか」

「はい?」

 なんだ、その発想は。

 そう言い返そうと思うのだが、それ以前に章子を見る佐々木の目が険しい。

 なんだなんだ、一体。

 どういうことなのだ。

「だから、頭から血流してる男の人、背中にべったりくっついてるんだって」

 佐々木は真剣に、そう言った。

 だが。

「嘘でしょ。そんなわけないじゃない」

 章子は笑い飛ばした。

 あり得ない。

 大学二年の夏にふられてからこっち、彼氏というモノはいない。

 妄想ではいることもあるが、実体はない。

「まあ、先生もそういうノリとは言え、大人なわけだし、僕がどうこう言う話じゃないんだけど」

「ん、まあ、ね。大人だからね、色々と」

 章子は余裕たっぷり大人の女風に言ってのけた。

 まっかな嘘だ。

 最後に付き合った彼氏は、【男に】鞍替えしたのだ。

 死んでもないし、今でも新宿某所に行けば売れっ子で飛ばしているはずだ。

 内心の諸々をさておき、十三歳相手に章子はにっこりと余裕の笑顔をみせた。

「とにかく、見える方の身にもなってよ。キモいから、まじで。お祓いするとか墓参りするとかなんとかしてください。あ、やべえ、ホームルーム始まる!」

 佐々木翔、十三歳はため息をつくと、駆け足で渡り廊下を走っていった。







 先生の背中には、頭から血を流してる男の人がくっついている――――

 要は、あなたには霊がついている、ということ。

 やっぱり、そういう意味なんだろうか。

 いや待て。

 もしかしたら勘違いで、廊下の鏡にどっかの先生が映ったのをそう見間違えたとか。

 あり得なくもないけど――

 背中におばけ背負ってます、と言われたのだ。

 そう言われて楽しくなる人間は、中々いるものではない。

 章子もご多分にもれず、気分を害していた。

「ったくなんなのよ、一体」

 車の少ない田舎道とはいえ、少々飛ばし気味で章子はクーンSを走らせていた。

 子供だからと思って遠慮してれば、これだ。

 図体だけは大人と変わらないくせに、全くもって中身が子供。

 朝練が嫌なんだかなんだかしらないけど、嘘でごまかすなんて。

 さすがバスケ部だけあって、背は大人と比べても良い感じなのにね。

 ああでもやっぱり顔からしてまだまだ子供よね。

 おばけとか信じてる時点で、もう、ほんと。

「どっかに出会い転がってないかな――」

 佐々木に言われるまでもなく、章子には若くして命を落としたような恋人はいない。

 人の死に直面したのですら、記憶にないくらい幼い頃に曾祖父が死んだ時だけだ。

 霊なんているわけがない。

 あんなのはテレビの視聴率稼ぎのやらせと、「あったほうが面白い」という暇つぶしの材料に過ぎないんだから。

 章子は、山道にさしかかったカーブを緩やかに曲がった。

「教師をからかうなんて、小学生じゃないんだから」

『彼は真面目だと思いますよ』

「そんなわけないでしょ。英語が難しいから朝練に遅れるとか言ってるけど、成績は悪くないのよ」

 思い出すだけで、腹がたってくる。

 けれど、それを言ったところでどうしようもない。

 章子は盛大なため息をつきながら、国道へと入った。

「なめられてんのかなあ、非常勤だから」

 独り言は、次第に愚痴っぽくなる。

 クーンSは、広い国道を山沿いに走っていた。

 章子の住む街までは、この山を越えていかなければならない。

 勤務先の中学は、なんとも不便な場所にある。

 短いトンネルを抜けると、視界は開けた。

 右に山肌、左下には一面に広がる田畑の緑と、民家。

 車の走行する国道は、山肌を削って作られたドライブウェイ。

 見晴らしも素晴らしい。

 前方に連なる緑と群青のグラデーションが作る山並みと、そこから若葉の緑が冴え、太陽の光をはじき返していた。

 柔らかい緑の生える田畑にそよぐ風の匂いすらも、伝わってくる。

 その開けた視界に繰り広げられた豊かな色彩に、斜め下向きになりかけていた章子の気持ちは、少し和らいでいた。

 きれいなものは、きれいだ。

 それはどんな時に見ても、やはり変わらない。

「きれいだなあ」

『きれいですね』

 気持ちと、状況がぴたりとはまるような感覚。ラジオから聞こえるパーソナリティのコメントも恐らく無関係な話題に対しての発言なのだろうが、ぴったり。

 そう、こういう瞬間って、本当に気持ちいい。

 喉が渇いた時に、美味しい水が目の前に現れるような、そんな。

「ほんとに、きれい」

 章子はそう繰り返すと、微笑みを浮かべた。

 ハンドルを握った手に入っていた余計な力に、ようやくそこで初めて気がついた。

 少々スピードを出しすぎていた。

 苛立ちと少し後ろ向きな気持ちのせいだろう。

 こういうときが危ない。

 交通事故が起きるのは免許取り立てではなく、少し慣れた頃に生まれるこんな心の隙間に気を取られた時だ。

 章子の脳裏に、教習所で言われた言葉が繰り返された。

 危ない危ない。

「ふう」

 クーンSは、山道を下りにさしかかっていた。

 ここからは、いわゆる「峠を攻める」連中が好む場所がやって来る。

 緩やかな下り坂が続く山道。

 景色は最高。

 そして、訪れる幾つもの急カーブ。

 走り屋は大喜びだが、当然ながら事故発生率も高い。

 そんな場所を、苛々気味の気持ちで制限時速オーバー気味で通過しようとしていたのだ。

 気持ちを冷静にした章子は、軽く深呼吸をした。

 この道は、気をつけなければならない。

 そう知ってもいたし、聞かされていたのだ。

 この場所。

 通称、「夏峠」。

 毎年、夏には海岸近くの街で花火大会が行われる。

 大輪の花を夜空に咲かすそれは、この地方の一大イベントでもあった。

 そして、今章子が走る国道の山道はその花火を見るのに絶好のスポットであった。

 連なる山並みのその上。黒に近い青と、緑の濃淡の上に輝く宝石のような光。

 この場所で絶好の瞬間を見ようとするドライバーは多い。

 その中でも、若年層ドライバーは数よりも行動で注目を浴びる存在だった。

 前へ、前へ。

 よりよい場所で、角度で。

 彼女と、彼氏と。

 特別な一夏の、その瞬間を目に焼き付ける為に。 彼らの思いは行動に重なり、車たちを動かした

 だからそう。

 この場所は。

「事故が多いんだよね」

 ブレーキにかけた足の、力加減を気にしながら章子がつぶやいた。

 減速しながら通り過ぎる時、目に入ったのは「急カーブ! 事故多発ポイント」その文字だった。

 再び静かに加速しながら、車を進める。

 この場所でスピードを出したくなる気持ちは、わからなくはない。

 昨日今日で教習所以来となるハンドルを再び握ったような、ペーパードライバーの章子でさえもが、その気持ちを理解出来るくらいだ。

 もしも今。

 隣に乗るのが大好きな恋人で、今が二人の特別な夜だとしたら。

 前方には、海面に光を落としながら瞬く刹那の大花。

 風は熱く、切なく。

 カーステレオから流れるのは、ラジオじゃ無い。

 二人で選んだドライブ用の曲。

 耳から入るだけで、切なさを増すような音たち。

 車内にあるのは、二人だけの空間。

 鼓動も増しているはず。

 もしも、もしも――――。

『あぶない!』

 キキキキーーーーッ!

 がくんッ!

 衝撃が、全身に訪れた。

 ――――えっ……?

 それは、一瞬の事だった。

 何かに弾かれたように、章子はブレーキにかけていた足に力を込めて踏んだ。

 腕から体にかかる、衝撃。

 ふくらむエアバッグに押し返される二度目の衝撃。

 なにが起きたかを理解することは、できなかった。

「……う……ッ」

 痛い。

 章子は、呻いた。

 全身を、強く打った。

 視界にはピントの合わない映像が、断片的に流れた。

 履いていたスニーカーの赤いストライプ、白い紐。

 ハンドルにつけられたレザー風の模様、納車日からつけたままの業者のキーチェーン。

 そのダサいデザインまでもが、ちらりと目に入った。

 痛い。

 体が、痛い。

 背中が、痛い。

 頭が肩が、痛い。

「う……」

『大丈夫、きみ、しっかりして』

 誰だろう。

 救急隊だろうか。

 男性の声がする。

「い、痛い……」

 呻くように、言葉を紡ぎ出した。

 視界は、相変わらず安定しない。

 目を開いているはずなのに、ぼんやりとした絵柄が断片的に通り過ぎていく。

 体が、動かない。

『ほら、しっかり。もうすぐ救急車がくるから、がんばって』

 あなたは、誰。

「助か……る……の?」

 問いかけた章子の声は、か細かった。

 聞き取れないほどに擦れた声は、だが。

 確かに受け止められていた。

『大丈夫。きみは、助かるよ。僕を信じて』

 前髪の上に、暖かいなにかを感じた。

 人の手のひらのような、温もりを。

 章子はその正体を知ろうと目を開いた。

 あなたは、誰。

 だがその目に映ったのは、微かに笑みを浮かべた目尻の形だけだった。

 そうして急速に暗くなる視界を最後に、章子の意識は途切れた。

 額に感じた温もりだけを、残して。







 喉が痛い。

 酷く乾燥していて、つばを飲み込むこともできない。

 声を出したい。

 咳き込んで、この痛みをなんとかしたい。

 なのに顎から頬にかけて、筋肉のどこにも力を入れることができない。

 痛い。

 動かない。

 喉だけじゃない。

 体が、全部動かない。

 私は横たわっているのか、宙に浮いているのか、それすらもわからない。

 目を開いているつもりなのに、そこには何も映らない。

 耳には時折、機械音のような雑音が掠めていく。

 痛い。

 痛いよ、ぜんぶ。

 ねえ、ここはどこなの。

 誰か、助けて。






「……血液型Aプラス、女性二十代です!」

「90の60……血圧低下してます、先生」

「移動するよ、せーのっ」

 運び込まれたストレッチャーから、患者を医療スタッフ四名が手術台に移動させた。

 続いて行われる気道確保のチューブ挿入に、酸素吸入器。

「意識混濁……まずいです」

 止血する腕、その緑の術衣に血液が飛び散る。

 救急医療チームが、緊迫した空気の中で懸命に命を取り留めようと戦っていた。

「……さーん、聞こえますかー!」

 横たわる女性の着衣は、流れ出た血液に塗れていた。

 髪に、首筋に、腕に、白いワンピースにも命の温もりは刻一刻と染みだしていた。

「…輸血早く、急いで!」

 気管にチューブ、出血への処置が進むが、女性の意識は戻らない。

 鳴りだしたアラートに弾かれるように顔を向けた医師の目に、心電図が映る。

 弱々しくなる脈のラインは、小さな山を描いていたが、それもーーーー

「心肺停止、VFです!」

「DC360J!」

 電気ショックが用意される。

「頼むぞ、動けよ心臓」

 機械音のあとには、電気的除細動。

 その反動で、横たわる女性の体は一瞬はねるように動く。

 だが、それは持続しない。

「心電図は!」

「だめです、回復しません」

 看護師が首を振る。

 そのすぐそばのモニター、医師の目に入る線は直線のままだ。

「もう一度、DC!」

 心肺停止状態からの回復は、一分一秒が勝負。

 五分以上かかれば、そこには脳死の文字がちらつく。

 一刻も早く、脳に血液を。

 酸素を送らなければ手遅れになる。

 そこに待つのは、脳死か、死。

 ――――死だ。

 患者はまだ若い。

 体力も生命力もあるはずだ。

 応えてくれ。

「電気、もう一度!」

 医師の額には、汗が浮かんでいた。






 痛い。

 痛い。痛い。

 腕が、肩が、胸が、頭が、足が、腰が――

 全部が痛い。

 声も出ない。

 何も聞こえない。

 なにも見えない。

 私は、死ぬのだろうか。

 このまま、なすすべも無く。

「……」

 誰か、助けて。

 死にたくない。

 まだ、やりたいことすらも見つけてない。

 何にも、何一つ満足にしてない。

 今はいやだ。

 死にたくない。

 誰か、誰か、助けて!

「……っ!」

 だが、張り上げたはずの声はやはり聞こえない。

 自分の耳にも聞こえない。

 音の無い何も無い空間。

 全身を打ちのめす痛みに無抵抗に身をさらしながら、何一つ抵抗すら出来ずにただ。

 ここに、いるだけだった。

 わたしは、そう。

 まだ、ここに、いる。

 ここ。

「ここ」ってどこだろう。

 いつからわたしはここに、いるんだろう。

 たった一人で――――?

 お願い、誰か、助けて。

「……――――ッ!」

 その時、薄ぼんやりと、明るさのような何かが近づいてくるのを感じた。

 ああ、なんだろう、これは。

 見えない,見えないけれど。

 なんだか、少し。

 明るくなってきたような、気がする。

 助かるの、だろうかーーーー

 誰か、お願い。

 祈った。

 願った。

 心の、魂の芯から叫んでいた。

 助けてくれ――――と。

 しかし、その祈りは届かない。

 救援の代わりに訪れたのは、夏の景色だった。





 真っ青な空。

 白い雲。

 夏の、太陽が景色の全てを焼いていた。

『ねえ、ほら見て』

『うわあー、きれーい』

 声をかけられて運転席側に目を向けた若い女性。

 そこに広がる景色に、一瞬で笑顔になった。

 視線の先には、白く光る水面があった。

 激しい程の光りを、弾く、色。

 その空気を感じたくなった彼女は、窓をいっぱいに開いた。

 クーラーが効いているのにも関わらず、放たれた窓からは冷気が逃げていく。

 熱気と共に吹き込んだ風は、すぐに潮の香りで車内をいっぱいにした。

『あ、もう。冷房の意味ないよ』

 ハンドルを握る若い男性の声が軽く文句を言うが、その声にはどこか微笑みを含んでいる。

『きらきらしてるね、夏がきたー』

 満面の笑みで身を乗り出している彼女の長い髪が、ふわりと風に揺れた。

 花の香りが、髪と一緒に鼻先に触れた。

 ワンピースの肩紐に触れている肌の色は、まだ白い。

 強い日差しの下では、いくら日焼止めを塗っても、帰る頃には少し色づいているだろうか。

 色と匂いが強さを増す季節にふさわしい。

 想像して、男性は微笑むと反対側の窓も開けた。

『晴れてよかったね』

降り注ぐ太陽の欠片を受けて輝く水面は、穏やかな波を描いていた。

 きら きら きら

 幸せそうに笑う、恋人達の風景が目の前を通り過ぎた。

 天国って、こういうことなんだろうか。

 そう思うのを最後に、章子の意識は完全に途切れた。



 その窓から見える景色は、素晴らしかった。

 濃さを増していく木々の緑は、これから迎える太陽の季節へと衣替えをしているようにも見えていた。

 淡い白のもやを集めたような、のんびりとした形の雲がゆるゆると空を進んでいる。

 章子はそれを、ただぼうっと眺めていた。

 夢を、見ていたような気がしていたけれど、それがなんだったのかはっきりとは思い出せないでいた。

 窓の外は、晴れ。

 ビニール袋特有のがさり、という音が直ぐ傍で聞こえた。

 ぼんやりと目を向けていた窓から、その音の方向へ顔を向けた。そこには如何にものスポーツ刈り頭、体育教師の久保がそこにいた。

 いつものジャージ姿、職員室と違うのはサンダルではなくスポーツシューズであることくらいだろうか。

「……これ、教職員一同からのお見舞いです。私の家もこっち方向なので教頭に頼まれました。食事制限はないんですよね? 横塚先生」

 小さなワゴンの上に置かれたのは、大ぶりな籐かごに詰められたフルーツだった。

 バナナ、りんご、オレンジ、グレープフルーツ……

 メロンの姿はそこには見えない。

 けちったな、教頭。

 章子は内心で舌打ちをした。

「ええ、はい。すみません、お気遣い頂いて……ご心配おかけして、申し訳ありません」

 そう応えながら、章子は再び籐かごのフルーツ山に目を向けた。

 何度見ても高級フルーツの姿は、見えない。

 一応は愛想笑いを付け足しながら、だ。

「本当にご心配ですよ。横塚先生、もしかしてあれですか」

 薦めてもいないのに、大声で言いながら久保はパイプ椅子を出してきてどしん、と座った。

「あれって、なんですか」

 見舞いを置いたらさっさと帰ってくれればいいのだが。

 こうもデカい態度と声で居座られては、迷惑になるじゃないかと気が気ではない。

 内心のつぶやきを愛想笑いで覆い隠した章子が、久保に尋ねた。

「走り屋。女の走りって危ないからねー」

 芸能人の浮気をゴシップ記事が掲載するよりも前に言い当てたかのごとく、偉そうに、そしてニタニタとうれしそうに久保が言った。

 走り屋じゃないし、危険運転もしていない。

「いえ、私は……」

 そう言い返そうと章子が口を開くのだが、それはすぐに久保によって遮られる。

「前にもね、夏峠で花火みるつって大事故あったんですよ。いやもう、これが大変で、あの道しかないでしょ、通勤路。迂回しようにも出来ないし偉い目にあったんですよ」

「はあ……」

「ガードレールも壊れちゃって、一番カーブのきつい所ですからね。幾ら気をつけててもブルーシートに覆われた現場を通る度にヒヤヒヤしっぱなしだし」

「そうなんですか……」

 正直、どうでもいい。

 さっさと帰れ。

 章子は大声でつばを飛ばしながら話す久保に、内心では帰れコールを送り始めていた。

 滞在している病室は、四人で一部屋の大部屋だ。

 先ほどから向かいと隣のベッドからの視線が厳しいのを、気付いていた。

 久保自体に悪気はないのだろうし、また帰宅方向が同じ久保に「お見舞いを渡してこい」と依頼した教頭にも悪気はないのだろう。

 だが、いかんせん、この男は声がでかい。

 体育館やグラウンドでは大変役に立つそれは、静かに過ごすべき入院患者の部屋では騒音にしかなり得ない。

 こううるさくては、直ぐに婦長から怒られそうだ。

「そうなんですかって、あのねぇ横塚先生。事故ったの正にそのスポットですよ。佐々木なんて『やっぱり地縛霊だったんだ』とか言い出す始末ですよ。全く」

 愛想笑いに内心の不機嫌が滲みそうになる章子に、久保の放った言葉が残った。

「佐々木って、一年の佐々木ですか」

「ええ。先生が事故ってから朝練には出てくるようになりましたよ。やっぱり英語の宿題が問題だったみたいですね。英語担当が横塚先生から山根先生に代わった途端、ですよ。平気な顔で朝練に”ちわーっす”って来ました」

 地黒なのか日に焼けてるのかはわからないが、やけに艶の良い肌を満面の笑みに広げて久保が言った。

 ほれみたことか、と言わんばかりである。

「……はあ」

 地縛霊、ねぇ。

『先生の背中には頭から血を流した男がくっついている』

 佐々木翔、十三歳の言葉が脳裏に蘇った。

 オカルト好きな年頃と言えばそうなのだろうし、それに翻弄される自分も大人げないといえばそうなのだろう。

 だが章子はどうにも、にっこり笑って寛容な大人の対応はできそうになかった。

 あんな話を聞かなければ、事故なんてしなかったかもしれない。

 大体がペーパードライバーなのは自覚しているし、危険な道なのもわかっていた。だけど、あの時は帰り際に聞いた佐々木の言葉が頭をよぎって。

 どうにも平常心を保てて居なかった……気がする。

 そんな思いがよぎっていた。

「まっ、とにかく。大事なくてよかったよかった。ということで、わたしは帰ります。教頭はじめ皆さんには元気そうでしたって伝えておきますよ」

「あ、はい。よろしくお伝え下さい。授業代行していただいた山根先生にもご迷惑おかけして、申し訳ありません」

 章子は申し訳ない思いを、心の奥底から呼び起こしながら言った。

「ですね。ま、宿題減って、生徒達は喜んでるし山根先生はベテランですから、心配しなくてもいいんじゃないですか。じゃ、お大事に」

 パイプ椅子から立ち上がって、手にしてきた三本線のバッグを肩に斜めがけにかけた久保がにっこり笑って言うと、病室から去って行った。

「……どうも」

 絞りかす程度の愛想笑いを浮かべて、章子は応えた。








『消灯時間です。担当医の指示に従って、お休み下さい。夜間の看護巡回は……』

 おなじみのアナウンスが聞こえ、病室内の灯りは消えた。

 午後九時。

 眠れるような時刻ではない。

「ふぅ」

 ため息をつきながら、章子はナイトスタンドの電源を入れた。

 他のベッドに居る患者らの衣擦れの音が聞こえるが、それ以外の音はない。

 ――――静かな夜。

 章子は、日中に売店で買い求めた文庫本を開いた。

 イヤホンでテレビを見ることはできるが、この時間は大して興味を惹く番組がなかったし、こういう場所では喩え面白い番組があったとしても、自宅のように笑い声をたてるわけにもいかない。

 何しろここは、入院病棟である。

 同じ病棟内には重篤な患者もいる。今この瞬間も、痛みに病に苦しんでいる人もいるのだから、そこは自重すべきだろうと思った。

 ぺらり

 ページをめくる。

 気持ちの良い活字が目に入ってくる。

 昨日はどこまで読んだっけ。

 確か……主人公が発掘した遺跡について研究論文をまとめ始めるとこだったような。

 章子は右手を枕に、左手でページを捲った。

 本は好きだ。

 暖かみのある白、その上に乗る黒の文字。

 コントラストも、書体も、匂いも。

 ひとつひとつが、固有の世界を描いている。

 捲った新しい章からは、仕事への生きがいを再認識した主人公が、自らの信念に基づいた研究を発表しようと準備を始めるはずだった。

 わくわくするような、世界が広がるはずだった。

 ぺらり

 だが、それは。

 驚きと期待に満ちた思いで章子が飛び込める物語ではなかった。

 少なくとも、その時は。

『面白い?』

「んーまあね」

 第六章、そう書かれた文字を認識しながら何気なく応えた章子の指は、開いた本の上で動きを止めた。

 今、確かに話しかけられた。

 活字の上で停止した指の下に、数秒前に読んだばかりの台詞があるのを、章子の目が見ていた。

 この、声。

 ぞわり

 首筋を形容しがたい悪寒が走った。

『僕もその人の本好きだったんだ』

 二度目の声が聞こえたのは、章子が呼吸を止めて数秒後のことだった。

 ぞわり

 声は、直ぐ傍から聞こえる。

 続いた声を、章子は確かに聞いていた。

 それは確かに、どこかで聞き覚えのある声。

 事故の時に聞いた、救急隊員の声に似ていた。

 もしかして、隣の患者の所へ来たとか……

 そう思った章子は、顔を上げた。

 であれば礼を言おうと咄嗟に笑顔を作ったのだが、そこには誰もいない。

 ……いない?

 章子は、そのままの姿勢で声の聞こえた方向に顔を向けた。それはベッド脇のテレビ台、そのすぐ脇あたりから聞こえた声だった。

 そう、思ったのだが。

「……えっ」

 だが目を凝らしても、やはりそこに人影はない。

 どういうこと?

 今、確かに話しかけてきた声が聞こえたのに。

 ぞわり

 再び、悪寒が肩口を襲う。

 なんなのよ、一体。 

 怪訝に眉を寄せた章子は、髪を背中に寄せながら体を起こした。開いていた本は、指を挟んだままで、手の中にある。

 だが再び目を凝らしても、やはりそこには誰も居ない。

 枕元の灯りに薄ぼんやりと浮かぶ夜の病室があるだけだ。

 気のせいだろうか。

 もしかして事故の時に、頭でも打った?

 あんなに、はっきりと聞こえる空耳なんてあるとは思えないけど……

 明日、診察の時に聞いてみようか。

 幻聴とかって、事故後の症状ではまずいかもしれない。

 さっきから変な寒気もするし、大事を取った方がいいのかもしれない。

 せっかく、退院まであと少しなのにな。

 ふう

 ため息をついた章子は、再び布団に横たわろうと肘をついた。布団の中で足を動かし、反対側へ向きを変える。

 その時、それに気がついた。

『デビュー作からずっと、持ってたんだよ』

 視界に映った、それ。

 人の、足。

 皺の寄ったズボンの膝周り。

 目に飛び込んでくる、それは確かに人の足だった。

 昼間、体育教師の久保が出しっ放しにしたパイプ椅子。そこに腰掛ける人物がいた。

 章子は、視線を徐々に上げる。

 膝、シャツ、ボタン、襟元、顎……

 やわらかい笑みを作る、目尻の優しい形。

 それは確かに、消えゆく意識の中で見たものと同じ。

 君は助かる、大丈夫、と励ましてくれた声の主と同じだった。

『君にはもう、僕が見えるでしょう。横塚章子さん』

 きっと耳に心地良いはずの、低めの甘い声。

 だがそれは、章子の耳には聞こえていなかった。

「……き」

 耳に馴染むその声が聞こえて来たのは、頭の中だった。

 章子は、声の主を凝視していた。

 目の前にいたのは、頭から流れる血が顎までしたたる男。

 視線の先にある体は、半分透けている。

 その存在の異様さに気付いた瞬間、章子は肌が粟立つのを知った。

「……き……」

 男の顔には血の気がなかった。

 章子の視線は、その生気のない目とぶつかる。

 パイプ椅子にかけていた男は――――

 目が合ったその瞬間。

 章子の顔、眼球まで五センチ程の至近距離まで移動した。

『僕は君をずっと待ってたんだ』

 にっ

 そう言って、亡者が笑った。

「き、き……」

 章子は、至近距離で半透明の顔を目の当たりにしていた。

 笑顔というのものは、健やかなるものである。

 大抵の場合は朗らかな気持ちや、優しい気持ちを体現するという、表情筋の為せる技の中でも最も素晴らしく見る人の気持ちをほぐすものである。

 はずである。

 本来は。

「き、き、き……」

 章子は心のどこかで、気を失うなら今だと思っていた。

 でもなんとなく、こういういざという時にタイミングを外すのだとも同時に思った。

『キキキ?』

 目先わずか数センチの位置で穏やかに微笑む人物は、優しい声を持っていた。

 常であれば笑顔で章子も言葉を返すであろう、好人物である。

 おそらく。

 だが章子は今、収まることのない鳥肌と急速に低下する体感温度に襲われていた。

「き、き……」

 相手が動く心臓の持ち主だったならば、きっとこの会話の結末は違ったはずだ。

『きりん?』

 穏やかに微笑む男は、聞き返しながら小首を傾げた。

「……きゃーーーーぁぁぁッ!」

 消灯時間を三十四分ほど過ぎた入院病棟に、章子の悲鳴が轟いた。






「……横塚さん。検査入院で退屈なのはわかりますけどね、一応ここは入院病棟なんですから、他の患者さんの迷惑にならないようにお願いしますよ。全く、あなた先生なんでしょう。言わなくても解ってると思いますけど、この病棟には重傷の患者さんも……」

 腹回りの豊かな婦長が、小言を垂れていた。

 重く垂れた瞼の奥から、厳しい光りが放たれていた。

「……大変、申し訳ございません……」

 仮にも教師がこれでは、言葉がない。

 章子はぼそぼそと謝罪の言葉を口にした。

 あきれ果てた、と言いたげな当直だったのだろう婦長がため息交じりにナースステーションに戻っていく後ろ姿がドアから消えるまで、章子はベッドの上に正座でうなだれていた。

 音がうるさいだろうから、と気を遣っていたはずなのに、なんということだろう。

 思いっきり叫んでしまっては何の意味も無い。

 大音量で叫び声を上げた章子は、すっ飛んできた年かさの婦長にめちゃくちゃに叱られた。

「はあ……」

 ため息である。

 隣のベッドからは、衣擦れの音が聞こえていた。

 起こしてしまった同室の患者たちだ。婦長が飛んできた後に、すぐに謝ったが明日の朝もう一度ちゃんと謝ろう。

 章子は自己反省の言葉を胸に刻みながら、ベッドに横になった。

 もういい。

 寝てしまおう。

 あたりを見回すが、先ほどの男の姿はない。

 当たり前だ。

 あってたまるか。

 おばけなんて、そんなもの。

 章子は、わざとらしくため息をついてから、布団に潜り込んだ。

 深呼吸をする。そうして天井を見上げて、目を閉じればすぐに眠りに落ちるだろう、そしてまた何事も無く朝が訪れるはずだ。

 気のせい、気のせい。

 何にもなかった。

 何も見なかったし、聞こえない。

 おばけなんて、あるわけない。

 あるわけな……

『すごい声だね、びっくりした』

 男の声は、耳元で聞こえた。

「いいッ?」

 今度は右側から聞こえた声に、章子は弾かれるように顔を向けた。

 思わず顔を向けた章子の目と鼻の先、白いベッドのシーツの上に男が顔を覗かせていた。

『あ、だめだよ。また叫んだら怒られるよ』

 お化けの男は、そう言うと口元に指を当てて、しぃっと言った。

 再び感じた鳥肌と驚きに目を見開いた章子は、今度こそ気絶しないかと願ったがそれはむなしい望みに終わった。

 もしかしたら、変わったメイクの好きなストーカーかもしれない。

 そうそう、そうよ。。

 偶々中学校で見かけた横塚先生に一目惚れしてこんなとこまで着いてきました恥ずかしがり屋なのでこんなメイクですみませんハロウィンには早かったですよね――とか。

 そんな風に大変前向きに検討を始めた章子だったが、すぐに異常に気がついた。

 目線の先、約二十センチ程先に男が、入院患者用の低めのベッドの上に顎をのせている。

 ストーカー男なら、あり得るかも知れない。忍び込んで、さっきの看護師がいなくなるまではベッドの下にでも隠れていたとしたなら、あり得る。

 だが何かが、おかしい事に章子は気付いた。

 高さ、約六十センチの、そこに座りもせず顎を乗せるなんて……できるだろうか。

 成人男性がその角度で、その場所に、その格好で存在できるはずはなかった。

 それにやはり……

「……なんで、半分透けてるの」

『ううんと、真っ先に聞きたいのは、それ?』

 優しい笑顔で返された。

 だがやはり、それは章子が思った通りであった。男は、血の気のない顔も血が滴る全てもが、透明度六十%位の透け具合だった。

 おばけだ。

 恐らく、確実に。

 幽霊、そう、幽霊。

 死者、亡霊、霊魂。

 あの世、三途の川、黄泉の世界。

 大霊界に大殺界。違うか。

「……なんか、用ですか」

 色々な事を一度に考えた結果として、章子が口にしたのはその質問だった。

『……ええっと、用ていうか……』

 戸惑う幽霊の表情は、少々愛嬌がなくもなかった。






 

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