ゼロ秒の愛、届かぬ呼び出し音
八月の陽射しは、夕方になっても退く気配を見せなかった。
アスファルトに蓄えられた熱が、サンダルの薄い底を通して足裏に滲み上がってくる。
額に汗が浮かぶ。
自動ドアをくぐった瞬間、肌の表面が一気に冷やされ、思わず足が止まった。
携帯ショップの中は、外界とは別の時間が流れているようだった。
蛍光灯の白い光は均一で、影を作らず、感情の入り込む隙間を与えない。
夏の匂いも、蝉の声も、ここには届かない。
無音に近い店内に、微かな空調の風切り音だけが満ちていた。
カウンターの椅子に腰を下ろした私は、バッグを膝の上に置いて、背筋を伸ばした。
今日のために、久しぶりに化粧をしてきた。
ファンデーションを丁寧に伸ばして、眉を描いて、リップまで塗った。
普段の私には縁遠い行為だった。
仕事の締め切りに追われる日々。
鏡を見る余裕もなく、洗いざらしの髪を無造作に束ねて家を出ることが当たり前になっていた。
肌は荒れ、唇は乾き、目の下には薄い翳りが住みついていた。
それでも今日だけは、ちゃんとしなければと思った。
母のために。
母の最後の手続きを、きちんと娘としてやり遂げるために。
カウンターには、一台のスマートフォンが置かれていた。
薄いピンク色のケースに入った、母の携帯電話。
画面は暗く、もう二度と光ることはない。
「こちらが直近のご利用明細になります」
窓口の女性が、一枚の紙を差し出した。
涼しげな制服姿の、私より少し年下に見える女性。
彼女の目は穏やかで、余計なことを言わない種類の優しさを持っていた。
私は紙を受け取り、数字の列に目を落とした。
毎日。
一日も欠かさず、そこに並んでいた。
通話履歴の「発信先」欄を埋め尽くす、見慣れた十一桁の数字。
私の携帯電話の番号だった。
日付が変わるたびに印字される、私の番号。
私の番号。
また、私の番号。
まるで、消えない染みのように。
母が毎日、小さな画面でこの数字をなぞっていたのだと気づいた瞬間、胸がひどくざわついた。
そして、その右隣にある「通話時間」の列を見た瞬間、喉の奥で何かが詰まった。
ゼロ、ゼロ、ゼロ。
ほとんどが、ゼロ秒だった。
呼び出し音が鳴るだけ鳴って、誰にも拾われずに消えた時間。
一ヶ月のうち、私がその呼び出しに応じた形跡は、ほんの二、三回しかなかった。
残りの二十数日は、すべてゼロ秒だった。
母の声は、私に届く前に途切れていた。
あの頃の私は、いつも何かに追われていた。
仕事の締め切り、鳴り止まないメール、夜中まで続く会議。
スマートフォンの画面に「お母さん」という文字が浮かぶたびに、私はどこかで思っていた。
また、か。
罪悪感を薄めるための呪文があった。
「あとで折り返せばいい」
唱えるたびに少しだけ楽になって、そのまま夜の濁流に押し流されていく。
翌朝には忘れていた。
母は翌日もかけてきた。
その翌日も。
出てもらえなくても、冷たくあしらわれても、懲りることなく、諦めることなく。
通話履歴の最後の行。
日付は、母が息を引き取る、三日前だった。
その日も、私は出なかった。
折り返しもしなかった。
最初は、鼻の奥がツンと痛んだ。
次に、視界が滲んだ。
それから、頬に何かが伝うのを感じた。
自分が泣いていることに気づいたのは、カウンターの天板に涙の染みが広がってからだった。
マスカラが、頬の上で黒く滲んでいるだろう。
ファンデーションが、崩れているだろう。
今朝あんなに丁寧に施した化粧が、音もなく溶けていく。
でも、もうどうでもよかった。
そんなことより、この手の中の紙が、滲んで読めなくなりそうで。
「……」
窓口の女性は、何も言わなかった。
ただ、ごく自然に、そっとティッシュの箱を差し出してくれた。
哀れみでも、困惑でもない。
ただ、泣いている私の隣にそっと寄り添ってくれるような、 そんな静かな心遣いが、今の私には何よりも温かかった。
かすれた声で「ありがとうございます」と言いながら、私は思った。
母が最後に鳴らした呼び出し音は、どんな音だったんだろう。
誰にも届かなかったその音は、どこへ消えていったんだろう。
店を出ると、夏の熱気が全身を包んだ。
さっきまでの冷気が嘘のように、夕暮れの空気は重く、湿っていた。蝉がどこかで鳴いている。
アスファルトの照り返し。
汗と涙で濡れた頬に、風が当たってようやく気づいた、私はまだ、泣いている。
立ち止まったまま、私はスマートフォンを取り出した。
もう繋がらないと分かっている番号を、タップした。
コール音が、耳の中で鳴る。
一回、二回、三回。
夕暮れの街で、ひとり、電話口に耳を押し当てながら、私は息を止めた。
おかけになった電話番号は、現在使われておりません。
分かってる。
分かってるよ。
それでも、もう一回だけかけた。
またアナウンスが流れる。
もう一回。
また流れる。
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で、夕暮れの歩道に立ち、私は何度もかけた。
通りすがりの人が横目で見ていくのが分かった。
それでも、やめられなかった。
一秒でいい。
もう一回だけでいい。
「忙しいから」と遮りながらも、当たり前のように側にあった、
あの少し鼻にかかった声を。
スマートフォンのボイスメールに、消せないまま残してある。
母からの留守番電話が、十九件。
亡くなってから一年が過ぎた夜、布団の中で震える指で、ようやく再生ボタンを押した。
再生ボタンを押すと、最初の一音が少し欠けた声が流れた。
「元気? 忙しいとは思うけど……お母さんよ」
途切れがちで、遠慮がちな声。
あんなに毎日かけてきていたくせに、録音の中の母はいつも、まるで迷惑をかけているみたいに、小さく話し始める。
「今度ね、お菓子送るからね。好きでしょ、あそこの」
語尾だけ、ほんの少し上がる癖があった。
その癖まで録音されていた。
そして、どのメッセージも、最後は決まってこう終わった。
「身体に気をつけてね」
その一言に 、私は声を上げて泣いた。
怒ってもよかった。
恨んでもよかった。
何度かけても繋がらず、冷たくあしらわれてばかりだったのに、 それでも母の残したメッセージは、いつもその一言で終わっていた。
「身体に気をつけてね」
布団を頭まで被って、子供みたいに泣きながら、私は初めて理解した。
あの呼び出し音は、愛の呼吸だったのだと。
出られなかった電話の数だけ、私は祈られていた。
折り返さなかった夜の数だけ、想われていた。
声にならなかった「会いたい」が、ゼロ秒の通話履歴の中に、全部詰まっていた。
あの夏から、私はスマートフォンに着信があるたびに、一瞬だけ手を止めるようになった。
画面を見る。
名前を確認する。
それから、取る。
「あとで」は、ないかもしれない。
「また明日」は、来ないかもしれない。
今日も、どこかで誰かが呼び出し音を鳴らしている。
どうかその音が、ゼロ秒で終わりませんように。
どうか、あなたの大切な人の声が、今日も、ちゃんと届きますように。




